第41話 出発
五月三日――空は澄み渡り、どこまでも青かった。雲ひとつない快晴は、まるで今日という日を祝福しているかのようで、絶好の旅日和と言って差し支えない。
拓也たちは今、電車に揺られながら今夜一泊する温泉旅館へと向かっている。二度の乗り換えを経て、ようやく辿り着いたこの車両が最後の乗り換えの一本だ。しかも三本目にして、やっと腰を落ち着けることができたのだから、誰もがほっとした表情を浮かべていた。
窓の外に目をやれば、そこには都会の喧騒とは無縁の景色が広がっている。連なる山々、規則正しく並ぶ畑。見慣れた街並みとは違う、どこか懐かしさを感じさせる風景だった。――もっとも、拓也たちの住む場所も、胸を張って都会と呼べるほどではないのだが。
やがて一時間ほどが過ぎ、列車は目的地の最寄駅へと滑り込んだ。駅前には旅館の送迎バスが待っており、一行はそれに乗り込む。山道を三〇分ほど揺られ、ようやくその目的地が姿を現した。
「うわ~! 凄いですね~!」
バスを降りた瞬間、秋穂が思わず声を上げた。その驚きは無理もない。事前に宿泊券の写真で見ていたとはいえ、実物の迫力は比べ物にならなかった。
まず目に入るのは、圧倒的な敷地の広さだ。ざっと見渡しただけでも、ドーム球場が三つは余裕で収まりそうなほどの規模を誇る。その半分を占めるのが巨大な建物、残りの半分が広大な駐車場だ。
鉄筋コンクリート造りの二〇階建て――その姿はもはや“旅館”というより、巨大ホテルそのものだった。「豪華荘」という名も伊達ではない。その名に違わぬ威容が、目の前に堂々とそびえ立っている。
「ほら、秋。行くよ」
「う、うん……」
夏香に促され、秋穂は名残惜しそうに建物を見上げながらも歩き出す。冬香もその後ろに続き、自動扉の向こうへと吸い込まれていった。拓也と春菜も遅れまいと、その背中を追う。
中に足を踏み入れた瞬間、広がったのは開放感あふれるエントランスホールだった。右手には受付カウンター、左手には大画面のテレビと長いソファが並ぶ待機スペース。奥には先の見えない通路と、上階へと続くエレベーターが控えている。
拓也は皆に待機所で待つよう伝え、一人カウンターへと向かった。そこには着物姿の若い女性たちがずらりと並び、次々に訪れる客を丁寧に迎えている。
しばらくして順番が回ってきた。拓也はポケットから宿泊券を取り出し、受付の女性へ差し出す。手続きは驚くほどスムーズに進み、説明も一通り終わった。
「何かご質問はございますか?」
その一言に、拓也の胸がわずかに高鳴る。今、この瞬間こそが、今回の旅における最大の関門だった。
「ここの露天風呂は、混浴ですか?」
一瞬の間。女性はにこやかな笑みを崩さずに答えた。
「いいえ、混浴ではございません。男性と女性は別々となっております」
「そ、そんなバカな! 混浴じゃないんですか!?」
思わず声が裏返る。だが返ってきたのは、変わらぬ穏やかな返答だった。
「ええ……申し訳ございません」
「そうですか……」
拓也の肩が、がくりと落ちる。
何ということだ。最大の楽しみが、音を立てて崩れ去った。
「あ、あの、お客様?」
「……はい?」
「もしご家族の方とご一緒にご入浴をご希望でしたら、ご家族専用の浴室がございますが」
その言葉に、拓也の顔が跳ね上がる。
「何だって!? そこなら男女関係なく一緒に入れると!?」
「厳密には、ご家族でなくても同じご宿泊の方でしたらご利用いただけます」
――奇跡だ。
一度は諦めた願いが、思いもよらぬ形で叶おうとしている。まるで神様が気まぐれに差し出したご褒美のようだった。
気づけば拓也は天を仰ぎ、静かに涙をこぼしていた。
「あ、あの、お客様!? ど、どうされたんですか!?」
慌てふためく受付の女性。その様子に我に返り、拓也は慌てて手を振る。
「あ、いや、大丈夫です。気にしないでください」
「そ、そうですか……?」
女性はまだ心配そうな視線を向けていたが、ひとまず落ち着きを取り戻したようだった。
――さて。
それでは、その“家族専用の浴室”について、詳しく聞かせてもらおうではないか。




