第40話 湯気の向こうには
拓也は、覚悟を決めてゆっくりと瞼を開いた。
そこに映るはずだった。春菜の、生まれたままの姿。
だが――
「……ん?」
視界に広がったのは、白。
「……あれ?」
何も、見えない。
いや、正確には見えている。見えているのは――ただ濃密な湯気だけだった。
いつの間にか露天風呂全体を覆い尽くすように立ち込めたそれは、視界のすべてを塗り潰し、世界を白一色へと変えていた。
目を凝らしても、何一つ輪郭を捉えられない。
春菜は?
どこにいる?
「な、なあ春菜!? どこにいるんだ!?」
「わたしなら、拓ちゃんのすぐ傍にいるよ。だから……早く、わたしを見て」
すぐ近くから、確かに声がする。
だが、その“近く”がどこなのかが分からない。
右か、左か、それとも背後か。
距離感すら曖昧で、現実感が揺らぐ。
なんだ、これ……。
ざわり、と胸の奥がざわついた、その時。
「兄さん……」
不意に、別の声が混ざる。
「……え?」
聞き覚えのある声に、思わず息を呑む。
「わたしも……兄さんに……見てほしい……」
「ふ、冬香……? 冬香なのか!? お前もいるのか!?」
確かに妹の声だった。
だが――返事はない。
呼びかけても、返ってくるのは沈黙と、白い湯気だけ。
「おい……春菜! 冬香! どこだよ!? 頼む、返事してくれ!」
足元もおぼつかないまま、手探りで歩き出す。
すると――
「拓也さん! わたしも見てほしいんです!」
弾むような声が響いた。
「秋穂ちゃん!?」
今度は、はっきりと分かる。
「おーい! どこにいるんだ!?」
だがやはり、返事はない。
声だけが現れては消え、姿はどこにもない。
まるで幻のように。
「なんでだよ……なんで誰も返事しないんだ……!」
焦りが募る。
視界は白く閉ざされ、距離も方向も分からない。
そんな中――
「あ、兄貴……すっごく恥ずかしいんだけど……あたしも、見てくれないかな……」
「夏香!?」
また一人、声が増える。
「どこだ!? いるなら答えてくれよ!」
叫んでも、やはり応答はない。
ただ、声だけが重なっていく。
「拓ちゃん……ここだよ……」
「兄さんに……見てほしい……」
「拓也さん……お願いします……」
「兄貴……早く……」
四方八方から響く声。
しかし、そのどれもが掴めない。
届きそうで届かない。
もどかしさと焦燥が、胸を締めつける。
「くそっ……。この湯気、何なんだよ……!」
拳を握りしめる。
目の前にいるはずなのに、何も見えない。
手を伸ばせば届くはずなのに、何も触れられない。
――こんなの、あんまりだ。
耐えきれず、拓也は叫んだ。
「みんな、ちょっと待ってくれ! 俺だって……俺だってなあ――!」
そして、思わず本音がこぼれる。
「みんなの裸が見たいんだよおおおっ!!」
――その瞬間。
ドゴッ!!
「ぐはっ!?」
腹に、凄まじい衝撃が走った。
まるで上から重い塊を叩きつけられたかのような痛み。
「げほっ……! な、なんだ……!?」
腹を押さえてうずくまる。
何が起きたのか分からない。
だが――
「……ちょっと。誰の裸が見たいって?」
低く、冷えた声。
「……え?」
顔を上げると――
そこには、腕を組んで仁王立ちする夏香の姿があった。
しかも――
しっかりと部屋着を着たままで。
「な、夏香……? なんで……そこに……。っていうか、お前、なんで普通に服着てるんだ?」
「はあ?」
ぴくり、とこめかみが引きつる。
「何であたしが、裸じゃなきゃいけないのよ」
ぎし、と拳を握る音がした。
「い、いや……だってここ温泉……ん?」
その瞬間。
違和感が一気に押し寄せる。
白い湯気は、もうない。
代わりに広がっているのは――
見慣れた天井。
見慣れた壁。
見慣れた部屋。
「……って、ここ俺の部屋じゃねえか!?」
「やっと気づいた?」
呆れたようにため息をつく夏香。
「このエロ兄貴、もう一発殴られないと分かんないの?」
「い、いや! もう大丈夫だ! 完全に目が覚めた!」
慌てて手を振る。
腹の痛みが、妙にリアルだ。
「だったらさっさと着替えてよね」
くるりと背を向けながら、夏香は言った。
「今日はみんなで温泉に行くんだから」
「……お、おう」
反射的に返事をする。
そして――
一人取り残された部屋で、拓也はぽつりと呟いた。
「夢、だったのかよ……」
あまりにも都合のいい、そしてあまりにも惜しい夢に。
小さく肩を落としながら。




