第36話 更に楽しみが増す温泉旅行
部屋に足を踏み入れた途端、張りつめていた糸がふっと緩む。拓也はそのままベッドへと倒れ込み、背中を預けた。天井を見上げる間もなく、じわりと眠気が押し寄せてくる。瞼が重く、意識が沈みかけた――その時だった。
けたたましい着信音が、静寂を切り裂いた。
「……誰だ?」
拓也は身を起こし、大きく伸びをする。強引に眠気を振り払うと、机の上のスマートフォンを手に取った。画面に表示された名前を見て、思わず小さく息をつく。
なんだ、春菜か。
「もしも~し」
「もしもし、拓ちゃん?」
受話口から届く、少し控えめで、それでいてどこか弾んだ声。
「おう、俺だけど。どうした?」
「あのね……。今日、学校で優子ちゃんから温泉旅館の宿泊券、もらったでしょ?」
「ああ。今ちょうど目の前にあるけど……それがどうかしたのか?」
軽く視線を落とすと、机の上に置かれた一枚の紙が目に入る。
「それ、一枚でね……五人まで泊まれるんだって」
「へえ、そうなんだ?」
半信半疑のまま手に取ってみると、隅に小さく印字された文字が目に入った。
『一泊二日 五名様まで』
「……ほんとだ。気づかなかったな」
「でね、その……」
言葉が途切れる。受話口の向こうで、春菜が躊躇っているのが分かった。
珍しいな、と拓也は思う。
「なんだよ、遠慮するなって。言ってみろよ」
「あっ、ごめんね。えっと……その……もしよかったらなんだけど……」
一呼吸。
「わたしと秋穂ちゃんも、一緒に行っていいかな……って」
言い終えると同時に、慌てて付け加える。
「だ、だめなら全然いいから!」
その様子が目に浮かぶようで、拓也は思わず苦笑した。
そんなことで、そんなに緊張する必要あるかよ。
「別にいいぞ」
「……え?」
「どうせ二人分空いてるんだし。夏香と冬香にも聞いてみるけど、多分大丈夫だろ」
沈黙のあと、ぱっと声が明るくなる。
「ほんと? ありがとう、拓ちゃん!」
「気にすんなって。じゃ、あとで妹たちに確認してから、また連絡するわ」
「うん、お願い」
通話を終えると、拓也はすぐに部屋を出た。
廊下を抜け、妹たちの部屋の扉を開く。
中では、夏香がベッドに寝転びながら雑誌をめくり、冬香は机に向かって静かに本を読んでいた。
「何、兄貴?」
「ちょっといいか?」
拓也は宿泊券の話を切り出し、五人まで泊まれること、そして春菜と秋穂が一緒に行きたがっていることを伝える。
「へえ、いいじゃん。あたしは大歓迎だよ」
夏香はあっさりと笑った。
「わたしも、いい……」
冬香も小さく頷く。
「春菜さんと秋穂なら……問題ない……」
「そっか。じゃあ決まりだな」
二人の反応に、拓也はほっと胸を撫で下ろした。
再び自室に戻り、春菜へ連絡を入れると、電話越しに伝わるほどの喜びようだった。
その声を聞きながら、拓也の胸にもじんわりとした期待が広がっていく。
温泉旅行か。
夏香と冬香、そして春菜と秋穂。
みんなで過ごす時間を思い浮かべるだけで、自然と頬が緩む。
浴衣姿や、湯けむりの中の笑顔、そんな情景が脳裏に浮かび……。
「……いやいやいや!」
ぶんぶんと頭を振る。
気づけば、じわりと鼻の奥が熱くなっていた。
「やばっ!」
慌ててティッシュを丸め、鼻に押し込む。
何考えてんだ、俺は。
自分で自分に呆れつつも、口元には苦笑が浮かぶ。
だが、それでも一つだけは確かだった。
この旅行は、きっと楽しいものになる。
「よし……」
小さく拳を握る。
「絶対、いい思い出にしてやる」
誰に聞かせるでもない誓いが、静かな部屋にそっと溶けていった。




