第35話 期待が膨らむ温泉旅行
風呂上がりの湯気を纏ったままの夏香と、彼女に起こされてなお眠たげに目をこすっている冬香。そして拓也の三人は今、テーブルを囲み、湯気の立つ晩御飯を静かに、しかし確かに分け合っていた。
箸の触れ合う小さな音と、時折の咀嚼音だけが、リビングの中に穏やかに流れている。
「ねえ、兄貴?」
不意に、夏香が口を開いた。
「おお、何だ?」
「さっき冬香から聞いたんだけど。なんか、すごい温泉旅館に泊まれるって話、本当?」
興味の色はあるものの、その手は休まない。器用に箸を動かしながら問いかけてくるあたり、食欲の方がやや勝っているようだ。
「ああ、そういえばまだ話してなかったな。今日、佐伯から温泉旅館の宿泊券をもらったんだ」
「へえ……」
気のない相槌。それでも耳はしっかりこちらに向いている。
どうにも、話より目の前の料理の方が気になっている様子だ。
「まあ、佐伯の勘違いでちょっと迷惑かけられてさ。そのお詫びってことで」
「ふーん。それで? どんな旅館なの?」
ようやく、少しだけ関心の比重がこちらへと傾いた。
「宿泊券に写真が載ってたけど……でかいぞ。ほとんどホテルみたいな感じの旅館だったな」
「それに……」
そこで、隣に座る冬香が、ゆっくりと口を挟む。まだ眠気を引きずったような声で、けれども確かに言葉を紡いだ。
「旬の食材を使った豪華な料理と……日本最大級の露天風呂、って……書いてあった……」
その一言は、的確だった。
「えっ? 本当に!?」
ぴたり、と。
今まで一度も止まらなかった夏香の箸が、空中で静止する。
その目が、ようやくはっきりと輝きを帯びた。
「ああ、冬香の言った通りだ。ちゃんと書いてあった」
その瞬間、夏香の瞳が一層きらめきを増したように見えた。
「旬の食材の豪華な料理かあ……」
ぽつりと呟き、視線は天井へ。
意識はすでに、ここではないどこかへ飛んでいるらしい。
きっと、見たこともない料理の数々が、頭の中で並び始めているのだろう。
その様子に、拓也は苦笑を浮かべた。
想像に浸るのは自由だが――
「おーい、夏香。いいけどさ、まずは目の前の飯を食え。冷めるぞ」
「あっ!」
はっと我に返る。
「ごめんごめん、今食べる!」
慌てて箸を動かし始める夏香。その様子に、拓也は小さく肩をすくめた。
どうやら、無事に現実へ引き戻せたらしい。
そうして、他愛ない会話を交わしながらの食事は、やがて静かに終わりを迎える。
食器を片付け、それぞれが立ち上がる。
日常の延長線にある、いつも通りの締めくくり。
三人はそれぞれの部屋へと戻り、夜はゆっくりと更けていった。




