第26話 男として
冬香の願いに応えるように、拓也はそっと彼女を後ろから抱きしめた。腕の中に収まるその体は驚くほど細く、触れているだけで壊れてしまいそうなほどに頼りない。
本当に、これでいいのだろうか――。
胸の奥で、同じ問いが何度も繰り返される。こんなことで、冬香は自分を許してくれるのか。彼女は今、何を考えているのか。なぜこんな願いを口にしたのか――拓也には、まるで見当もつかなかった。
いくら思考を巡らせても、答えはどこにも見つからない。ただ、わからないまま時間だけが過ぎていく。
それでも――腕の中にいる冬香の温もりは確かだった。
大好きな妹を、拒まれることなく抱きしめていられる。その事実は、拓也の胸に静かな喜びを広げていく。幸運なのか、幸福なのか、自分でもうまく言葉にはできない。ただ、どうしようもなく嬉しいと感じている自分がいた。
けれど、その感情が自分だけのものだったとしたら――。
冬香は、どう思っているのだろうか。
同じように、この時間を受け入れてくれているのか。それとも、まったく別の思いを胸に抱えているのか。
……いや、そんな都合のいい考えはよそう。
拓也は小さく息を吐き、自分の内に浮かんだ期待を静かに押し込めた。
「兄さん……?」
かすかな呼び声に、拓也ははっと我に返った。思考の奥深くに沈みかけていた意識が、一瞬で現実へと引き戻される。
「えっ……ああ、どうしたんだ、冬香?」
わずかに上ずった声で問い返すと、腕の中の彼女が小さく身じろぎした。
「もう少し……強く……抱きしめても、いいよ……」
躊躇うように紡がれた言葉は、けれど確かな意思を含んでいた。
「あ、ああ……そうか。なら、少しだけ力を入れるぞ」
「うん……」
拓也は慎重に腕に力を込める。壊れ物を扱うように、ほんのわずかに。
冬香の体はあまりにも華奢で、強く抱けばそのまま消えてしまいそうな、そんな危うさを感じさせた。夏香のときとはまるで違う、繊細な温もりだった。
「このくらいで、いいのか?」
「うん……」
小さな返事が、静かに返ってくる。
それきり言葉は途絶え、部屋には穏やかな沈黙が満ちていった。
拓也はそのまま、冬香を抱きしめ続ける。彼女は何も言わず、ただ身を委ねるようにして、じっとしていた。その無防備さが、かえって現実味を薄れさせる。
まるで時間だけが、ゆっくりと流れているかのようだった。
ふと、夏香のときのことが脳裏をよぎる。あのときは、抱きしめた流れのまま――思わずキスをしそうになってしまったのだった。
もし同じことを冬香にしようとしたら、どうなるだろうか。
やはり、怒るのだろうか。
そう考えた瞬間、自嘲気味な思いが胸をかすめる。きっと怒るに決まっている。あのときのように、拒まれるに違いない。
けれど、その一方で、別の言葉がはっきりと蘇る。
「夏香にしたことと、同じことをしてほしい」
冬香は、確かにそう言った。
それならば――。
そこまで考えた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。まるで何かの扉が開いたかのように、鼓動が急激に速まっていく。
つまり、自分は――冬香にキスをしてもいい、ということになるのではないか。
そう思い至った途端、急激な緊張が全身を駆け巡った。こんな機会は、もう二度と訪れないかもしれない。そう考えるほどに、心臓の音は激しさを増していく。
――まずい。
拓也は無意識に息を呑む。胸の鼓動は抑えようもなく高鳴り続け、その振動が背中越しに冬香へと伝わってしまっているのではないかという不安がよぎる。
だが――。
たとえ伝わっていたとしても、やるべきことは変わらない。
腕の中の温もりを、もう少しだけ感じていたいという思いと、いつこの時間が終わるか分からない焦りとが、胸の中でせめぎ合う。夏香がいつ帰ってくるかも分からない以上、長くは続けられない。
ならば――。
拓也は静かに息を整え、迷いを振り払うように目を伏せた。
ここは、覚悟を決めるしかない。




