第20話 拓也の部屋で
家に戻った拓也は、靴も脱ぎ終えぬうちに、その足で二階へと上がった。廊下を抜け、自室の扉を開けると、どこか逃げ込むように中へ入る。鞄を無造作に机へ置き、慣れた手つきで制服を脱ぎ捨ててスウェットに着替えると、力が抜けたようにベッドの端へ腰を下ろした。
さて、どうしたものか。
小さく息を吐き、天井を仰ぐ。
玄関には、冬香の靴がきちんと揃えられていた。あの几帳面な並べ方は見間違えようもない。つまり、彼女はもう帰っていて、今も隣の部屋にいるはずだ。
「参ったな……。夏香とのあの夜中のこと、冬香にどう話せばいいんだ?」
思わずこぼれた独り言は、やけに重く部屋に沈んだ。拓也は両手で頭を抱え、指先に力を込める。
はっきりしていることがある。
あの瞬間だけは、絶対に話せない。
夏香を背後から抱き寄せ、あのまま唇を重ねてしまいそうになったこと。あれだけは、どんな形であれ冬香に知られるわけにはいかなかった。二度とそんなことはしないと、あのとき確かに約束したのだから。
ならば、その部分だけを伏せて、残りをありのまま話すしかないのか。
だが、もう一つ引っかかることがある。
夏香が抱えている、母のことによる深い寂しさ――それを冬香に打ち明けていいものかどうか。
胸の内で逡巡が渦を巻く。
けれど、それを隠してしまえば、話すべき中身がほとんど消えてしまう。何も語らなければ、かえって疑われるだろう。夜中に、二人きりで部屋にいた――その事実だけが、妙に浮き上がってしまう。
まあ、実際には……。後ろめたいことはあるんだけどな。
苦い自嘲が、喉の奥で引っかかった。
しかも冬香は、人の嘘にやたらと敏い。表面だけ整えた話など、すぐに見抜かれてしまうだろう。ならば、ある程度の真実を混ぜるしかない。
結局のところ、夏香の事情だけは話す。それが、今できる最善の折衷案だった。
ひとまず考えがまとまりかけた、その時だった。
コン、と控えめなノックの音が響く。
「兄さん? 帰ってる?」
扉越しに届く声に、拓也ははっと顔を上げた。
そういえば今日は、帰ってすぐに冬香の部屋へ顔を出していなかった。いつもの習慣が崩れていることに、今さら気づく。
立ち上がり、扉へ向かう。ドアノブを回して開けると、そこには部屋着姿の冬香が立っていた。
「兄さん……お帰りなさい……」
どこか遠慮がちな声音だった。
「おう、ただいま。ちょうど今、そっち行こうと思ってたんだ。ここで立ち話もなんだし……俺の部屋でいいか?」
「うん……」
小さく頷く冬香を招き入れ、拓也は机の椅子を引いた。彼女をそこに座らせ、自分は再びベッドの端へ腰を下ろす。
自然と二人のあいだには、わずかな距離が生まれる。
向かい合いながらも、その空間は妙に重たく、張り詰めていた。
「じゃあ……今朝言った通り、話すよ。夜中に、俺の部屋で夏香と何があったのか」
言葉を選びながら、ゆっくりと切り出す。
冬香は何も言わず、ただ静かに頷いた。その瞳は、逃げ場を与えないように、まっすぐ拓也を見つめていた。




