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第17話 誓い

 けたたましい目覚まし時計の音に、拓也はゆっくりと意識を引き戻された。

 重たいまぶたをこじ開け、ぼんやりと天井を見上げる。


 ――起きられた。


 その事実に、小さく安堵の息が漏れる。どうやら今日は、夏香の拳によって強制的に叩き起こされるという最悪の事態は回避できたらしい。


 体を起こし、軽く肩を回す。まだ眠気は残っているが、動けないほどではない。スウェットに着替えた拓也は、足取りもそこそこに階段を下り、一階のキッチンへと向かった。


 見慣れた台所。いつもと変わらぬ朝の光景。


 手際よく火を使い、包丁を動かし、朝食と弁当の準備を進めていく。静かな時間が流れ、やがて三〇分ほどが経った頃――ちょうど食卓の支度が整ったタイミングで、リビングの方から足音が聞こえてきた。


 振り向くと、制服姿の夏香が立っていた。


「おはよう」


 いつものように声をかける。だが返ってきたのは――


「お、おはよう」


 どこかぎこちない、頼りない声だった。


 しかも、視線が合わない。明らかに逸らされている。


 妙な違和感を覚えつつも、拓也はそれ以上は触れずに言葉を続ける。


「もう朝飯できてるぞ」


「あっ、うん」


 短い返事をして、夏香は席に着いた。箸を手に取り、並べられた料理に手を伸ばす。


 だが、それからの時間は、妙に重たかった。


 言葉が続かない。いつもなら何気ない会話が飛び交うはずの食卓に、静寂だけが落ちている。


 やがて食事を終えた夏香は、無言のまま立ち上がり、食器を流しへ運ぶと、弁当を鞄にしまい込む。そのまま玄関へ向かう背中を、拓也は少し遅れて追った。


「それじゃあ、行ってくるね」


「お、おう。部活、頑張れよ」


「うん」


 やはり、目は合わない。


 扉に手をかけた夏香は、一度だけ動きを止めた。


 そして背を向けたまま、小さな声で――


「あ、兄貴……ありがとね」


 そう言い残した。


「あ、ああ……」


 咄嗟に返せたのは、それだけだった。


 振り返ることなく、夏香は外へ出ていく。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 残された静寂の中で、拓也はしばらくその場に立ち尽くす。


 ――なるほどな。


 ようやく、合点がいく。


 さっきの不自然な態度も、視線を合わせなかった理由も。


 あの「ありがとう」を言うタイミングを探していたのだろう。そして、そのこと自体が照れくさかったに違いない。


 きっと、昨夜のことに対しての言葉だ。


「……ま、いいか」


 小さく呟き、息を吐く。


 また辛くなった時は、頼ってくれればいい。


 その時は――今度こそ、ちゃんと支えてやればいい。


 それだけの話だ。


 ひとつ大きく深呼吸をして、気持ちを切り替える。


「さーて……それじゃあ、至福の時間といきますかね」


 独りごちるように呟き、拓也は階段を上っていった。


 二階の廊下を進み、そっと扉を開ける。そこは冬香の部屋。


 ベッドの上では、まだ眠りの中にいる冬香が、穏やかな寝息を立てていた。


 その傍らに立ち、拓也はしばらくの間、何も言わずにその寝顔を見つめる。


 無防備で、静かで――守るべきものの象徴のような光景だった。


 ふと、昨夜の夏香の姿が脳裏をよぎる。


 ――泣いていた、あの顔。


(冬香も……同じように思ってるのか……?)


 母のこと。失った存在のこと。


 寂しさや悲しさを、胸の奥に抱えているのではないか――そんな考えが浮かぶ。


 訊くべきか。

 それとも、触れない方がいいのか。


 頭の中で問いが巡る。


(……いや、分かんねえな)


 結論は出ない。いくら考えても、答えは見つからなかった。


「とりあえず……様子見だな」


 小さく呟き、肩の力を抜く。


 それでも迷うなら、夏香に聞いてみるのもいいかもしれない。


 母の記憶は、ほとんど残っていない。幼い頃に亡くなったせいで、どんな人だったのかすら曖昧だ。


 ただ、写真だけは知っている。


 机の上に置かれた写真立てに手を伸ばし、そっと持ち上げる。


 そこに写る女性は、柔らかな笑みを浮かべていた。艶のある黒髪、深い黒の瞳。透き通るような白い肌。


 どこか可憐で、優しさが滲み出ているような顔立ち。


「……似てるよな」


 思わず、そう呟く。


 夏香も、冬香も――間違いなく、この人の面影を受け継いでいる。


 写真を見つめたまま、拓也は静かに息を吐いた。


「母さん……安心して見ててくれよ」


 誰に聞かせるでもない、独り言。


「夏香も冬香も――この俺が、ちゃんと守って、立派に育ててみせるからさ」


 一瞬だけ言葉に詰まり、苦笑が混じる。


「……ま、その前に、俺自身がもうちょいまともにならないとな」


 小さく肩をすくめながらも、その瞳には確かな決意が宿っていた。


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