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第16話 兄として

 太陽のように明るく、無邪気な笑顔を絶やさなかった夏香が――今はその面影を消し、瞳に涙を溜めて静かに泣いている。

 その姿を目にした瞬間、拓也の胸は鋭く締めつけられた。


 思わず、抱きしめていた腕に力がこもる。華奢で、けれど確かな温もりを持つその身体は、今にも壊れてしまいそうなほど小さく感じられた。


 ――俺は、何も知らなかった。


 夏香が胸に抱えていた切なさを。

 積もり続けていた寂しさを。

 そして、たった一人で耐えていた悲しみを。


「俺は……兄貴失格だな……」


 掠れた声が、知らず零れ落ちる。誰に向けたわけでもない、ただの独り言だった。


「ごめんな……。夏香の寂しさに気付いてやれなくて……本当に、ごめん」


 本当は、何か言ってやりたかった。どんな形でもいい。少しでも、心を軽くしてやれる言葉を。


 だが、いざとなると何も浮かばない。結局、口をついて出たのは、情けない謝罪だけだった。


 自分の無力さに苛立ちながらも、拓也にできるのは、ただこうして抱きしめ続けることだけだった。


 しばらくの間、夏香は声を押し殺すように泣き続けた。


 やがて、腕に伝わっていた涙の冷たさが、ふっと消える。そのときになってようやく、涙が止まったのだと気付いた。


「兄貴はさ……。兄貴失格なんかじゃないよ」


 少し掠れた声。けれど、その響きには、いつもの調子が戻り始めていた。


「まあ……エロいし、シスコンだし、変態だし、朝もちゃんと起きれないし……ダメなところはいっぱいあるけどさ……」


 容赦のない言葉に、思わず苦笑が浮かびそうになる。だが、その後に続いた言葉が、拓也の胸の奥へまっすぐ届いた。


「でも、それでも……兄貴が、あたしや冬香のこと大事に思ってくれてるの、ちゃんと分かるよ。家のことだって、文句も言わずに頑張ってくれてるし……」


 一度言葉を区切り、夏香は小さく息を整える。


「それに……今だって、こうしてあたしを抱きしめてくれてるじゃん。だからさ……兄貴は……ちゃんと、あたしたちの兄貴だよ」


 静かに紡がれるその言葉を、拓也は黙って受け止める。胸の奥に、じんわりと温かなものが広がっていった。


「……そっか。そんなふうに思ってくれてたんだな……」


 自然と頬が緩む。今度は、こちらが泣きそうになる番だった。


「兄貴? どうかした?」


「い、いや……なんでもない」


 誤魔化すように笑いながらも、視界はわずかに滲んでいる。


「なあ、夏香。もしまた今日みたいに辛くなったら……いつでも俺を頼ってくれていいからな」


「……うん。ありがとう」


 小さく頷きながら、夏香はそっと拓也の腕に手を添えた。その仕草が、妙にいじらしくて――思わず見とれてしまう。


 ……やばい。


 胸の奥で、何かが軋む音を立てる。


 ちょっと待て俺……?


 理性が警鐘を鳴らす。だが、それを押し流すように、抑えきれない衝動が広がっていく。


 背後から抱きしめているせいで、互いの距離はあまりにも近い。体温も、鼓動も、すぐそこにある。


 ――まずい。


 そう思った時には、もう遅かった。


 気付けば、拓也は腕をほどき、夏香の肩を掴んでこちらへ向き直らせていた。


「え……?」


 驚きに目を見開く夏香。だが、その表情さえも、もはや意識の外へと追いやられる。


 ゆっくりと、顔を近づけていく。小さな唇が、すぐ目の前にある。


 あと、ほんの少し――


 その距離が消えようとした、次の瞬間。


 鈍い衝撃が走った。


「いてぇぇぇっ!!」


 左頬に叩き込まれた一撃に、拓也はそのままベッドへと倒れ込む。


「もうっ! いきなり何すんのよ、バカ! 本当にエロ兄貴なんだから! 最低っ!」


 怒りを爆発させた夏香は、そのまま勢いよく部屋を飛び出していった。


 あとに残されたのは、じんじんと痛む頬と、しんと静まり返った空間。


「……はは」


 苦笑が漏れる。


 確かに、今のはどう考えても最低だ。


 ――それでも。


 さっきまで泣いていた夏香が、いつもの調子を取り戻してくれた。それだけで、十分だった。


 頬の痛みを感じながら、拓也はゆっくりと目を閉じる。


 今日は――よく眠れそうだ。


 そんなことを思いながら、拓也は再び、静かな眠りへと落ちていった。


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