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第15話 夏香の悲しみ

 その日の深夜――家の中は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。物音ひとつない闇の中で、不意に、拓也の部屋の扉を叩く音が二度、かすかに響く。


 規則正しく、けれどどこか遠慮がちなその音は、夜の静寂に溶け込みながらも、確かに彼の意識を引き戻した。


「兄貴、起きてる?」


 扉越しに届く声は、抑えられていながらも、はっきりと夏香のものだった。


 拓也はベッドの上でゆっくりと上半身を起こし、暗闇に目を凝らしながら扉の方へ視線を向ける。


「ああ、起きてるぞ。どうしたんだよ……こんな時間に」


 寝起きの掠れた声でそう返すと、扉の向こうでわずかな沈黙が落ちた。


 やがて、躊躇うように――それでも決意を滲ませた声が続く。


「あのさ……ちょっと、部屋に入ってもいい? どうしても、話したいことがあって」


 その言葉には、普段の軽さとは違う、どこか切実な響きがあった。


 拓也は一瞬だけ眉をひそめるが、すぐに表情を緩める。


「いいけどさ。遠慮なんていらないから、入ってこいよ」


 短く、しかし優しく答える。


「……うん。じゃあ、入るね」


 小さく返されたその声のあと、扉の向こうで気配が動いた。


 静かに扉が開き、夏香が部屋へと滑り込むように入ってくる。暗闇に慣れた目には、彼女の輪郭がかすかに浮かび上がった。


 拓也は思い出したように口を開く。


「悪い、そこにスイッチあるだろ。電気――」


「だめ」


 即座に遮られた。


「このままでいい。……お願い」


 予想外の言葉に、拓也はわずかに戸惑う。


「え? なんで……」


「いいから。……このままがいいの」


 その声音には、普段とは違う何かが滲んでいた。


「……分かった。お前がいいなら、それでいい」


「ありがとう」


 カーテンの隙間から差し込む月明かりが、部屋の中を淡く照らしている。その頼りない光の中で、夏香の姿がゆっくりと浮かび上がる。


 ティーシャツにショートパンツ――無防備とも言える軽装。白い肌が月光を受けて、やけに目に入る。


 拓也は思わず視線の置き場に困り、落ち着かなくなる。


 そんな彼の様子に気づいているのかいないのか、夏香は何も言わず、ベッドのそばまで歩み寄ると、くるりと背を向けてその端に腰を下ろした。


 そのまま、動かない。


 俯いたまま、言葉もなく。


 いつもなら騒がしいほどに明るい彼女が、今はまるで別人のように静かだった。


 やがて、見かねた拓也はそっと手を伸ばし、後ろから彼女の体を包み込む。


 一瞬、夏香の体が小さく震えた。


 だが、抵抗はなかった。殴ることも、突き放すこともなく、ただそのまま身を委ねてくる。


「……夏香、殴らないのか?」


 耳元で、冗談めかして囁く。


「今は……いいの」


 小さな声が返ってくる。


「今は、このままで……。あたしが、そうしてほしいって思ってるから」


 その言葉に、拓也の腕に込める力がわずかに強くなる。


「……何かあったのか?」


「……」


「悩みでもあるならさ、俺に話せよ。なんだっていい。全部まとめて、俺がどうにかしてやる」


 少し大げさに言ってみせると、夏香は小さく吹き出した。


「……くすっ」


 かすかな笑い声が、夜の静けさに溶ける。


「兄貴ってさ……すごいよね。あたしのヒーローか何かなの?」


「当たり前だろ。兄貴で、しかもヒーローだぞ? 今さら気づいたのかよ」


「ふふ……調子いいんだから」


 肩越しに、わずかな笑みが伝わってくる。


「ヒーローのくせに、いつもあたしに殴られてるじゃん」


「ば、ばか。あれはな、わざとだ。わざと殴らせてるんだよ」


「はいはい」


 くすくすと笑う声は、ほんの少しだけ、いつもの夏香に戻っていた。


 だが――再び、沈黙が降りる。


 拓也は静かに問いかけた。


「……それで、本当はどうしたんだ?」


 しばらくの間のあと、夏香はぽつりと呟く。


「あたしね……時々、すごく寂しくなるの」


「……寂しい?」


「うん。本当に、時々なんだけど……どうしようもなくなるの。今みたいに」


 背中越しに伝わる体温が、どこか心細く感じられた。


「……意外だな。お前がそんなふうに思うなんて」


「でしょ?」


 少しだけ自嘲気味に笑う。


「兄貴、驚いた?」


「ああ……正直、ちょっとな。でも……理由があるんだろ?」


 その問いに、夏香はすぐには答えなかった。


 やがて、小さく息を吸って――ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。


「あたしたちが生まれて……。少しして、母さん、いなくなったんでしょ?」


「ああ……そうらしいな。俺も詳しくは、親父から聞いた話くらいだけど」


「……あたしね」


 声が、わずかに震える。


「写真でしか知らない母さんのこと……すごく考える時があるの」


 静かな夜に、その言葉はやけに重く響いた。


「どんな人だったのかなって。どんな声で、どんなふうに笑って……あたしたちのこと、どう思ってくれてたのかなって」


 拓也は何も言わず、ただ耳を傾ける。


「あたしね……一度だけでいいから」


 言葉が途切れ、かすかに息を呑む音がした。


「名前、呼んでほしい。抱きしめてほしい。一緒に……」


 続きは、言葉にならなかった。


「……叶うわけないのにね」


 ぽつりと零れたその一言が、やけに静かで、やけに深かった。


「そんなこと考えてると……なんか、すごく切なくなって……寂しくなって……」


 その瞬間、腕の中の体が小さく震えた。


 ぽたり、と。


 温かいものが、拓也の手の甲に落ちる。


 月明かりの中で、夏香の頬を伝う涙が、かすかに光っていた。


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