第14話 ゴールデンウィーク、旅行の話し合い
授業の終わりを告げるチャイムが、どこか遠くの出来事のように響いていた。人の波に紛れながら、拓也はいつもの帰り道を歩き、やがて家の玄関の扉を開ける。
しかし、そこでふと足が止まった。
あるはずのものが、ない。
いつもなら自分より先に帰っているはずの冬香の靴が、きれいに並ぶはずの場所に見当たらなかった。
「……あれ? 冬香のやつ、まだ帰って来てないのか?」
小さく呟きながら、家の中を一通り見て回る。だが、返ってくるのは静けさだけだった。人の気配のない空間は、どこか冷たく感じられる。
拓也は自室に入り、制服を脱ぎ捨てるようにして部屋着へと着替えると、そのままベッドへと身を投げ出した。
「それにしても佐伯のやつ……思いっきり殴りやがったな」
右頬に触れると、じんと鈍い痛みが蘇る。指先で軽く擦りながら、ぼんやりと天井を見つめた。
やがて、抗えない眠気がじわじわと広がってくる。
「……少し、寝るか」
そのまま瞼を閉じると、意識はゆっくりと沈んでいった。
――どれくらい眠っていたのか。
「……兄さん」
柔らかな声が、夢と現実の境界を揺らす。
拓也が目を開けると、そこには制服姿のままの冬香が立っていた。昨日と同じように、静かにこちらを見下ろしている。
「冬香……帰ってたのか?」
「うん……ただいま……」
「おう、お帰り。今日は図書館にでも寄ってたのか?」
冬香は小さく首を横に振る。
「違う……古書店に寄って……本、探してた……」
「へえ。で、いいの見つかったのか?」
「うん……色々……」
その言葉と一緒に、ほんの少しだけ表情が緩む。控えめながらも、確かな喜びが滲んでいた。
「そりゃ良かったな」
「……うん」
短い頷きのあと、冬香は少しだけ間を置いてから口を開く。
「ねえ、兄さん」
「ん? どうした」
「もうすぐ……夏香が帰って来る……」
その言葉に、拓也ははっとして時計へ視線を向けた。
「うわ、マジか。風呂、まだだったな……起こしてくれて助かった」
「……うん」
拓也は慌ててベッドから起き上がると、そのまま風呂の準備へと向かう。
やがて夏香も帰宅し、ダイニングには三人分の夕食が並んだ。いつものように食卓を囲み、箸が進み始めてしばらくした頃――拓也は、ふと思い出したように口を開いた。
「なあ、夏香」
「なに?」
返事はするものの、夏香の手は止まらない。
「今朝さ、ゴールデンウィークのことで冬香と話しててさ」
「ゴールデンウィーク? それがどうしたの?」
「一泊二日で温泉旅行、行かないかって思ってるんだけど」
その瞬間、夏香の箸がぴたりと止まった。
「……温泉旅行?」
ゆっくりと顔を上げ、興味を隠そうともしない視線を向けてくる。
「ああ。冬香が温泉入りたいって言っててさ。で、お前の意見も聞こうと思って」
「いい! めっちゃいいじゃん温泉!」
ぱっと顔を輝かせたかと思うと、勢いよく冬香の手を掴んで上下に振る。
「冬香、ナイスアイデア!」
「……ん……」
「ちょうど部活も休みだしさ~。温泉とか最高すぎるでしょ。疲れも全部吹っ飛びそう!」
そのはしゃぎように、拓也は思わず苦笑する。
「じゃあ、一泊二日で決定ってことでいいな?」
「オッケー! 賛成~」
「私も……それでいい……」
二人の了承を得て、拓也は軽く頷いた。
「よし。旅館は俺が探しとくから」
「ねえ、料理が美味しいとこにしてよ?」
「私は……温泉が広い所……」
「はいはい、できるだけ両方叶えられるとこ探すよ」
「お願いね」
「兄さんを……信じてる……」
「はいはい、任せとけ」
食事を終えると、それぞれが自分の部屋へと戻っていく。いつもと変わらない、穏やかな夜の流れ。
拓也は風呂で一日の疲れを流したあと、自室で少しだけゲームに興じる。やがて眠気に負けてベッドに横たわると、今日の出来事がゆっくりと遠ざかっていった。
静かな夜が、またひとつ更けていく。




