第11話 冬香の行きたい所
御堂家の朝は、穏やかな光とともに始まる。
ダイニングの窓から差し込む朝日が、食卓の上に並んだ味噌汁の湯気をやわらかく照らしていた。向かい合って座る拓也と冬香は、静かに箸を動かしている。
夏香はすでに家を出ていた。バスケットボール部の朝練に向かうためだ。
「ねえ、兄さん……」
ふいに、冬香が箸を止める。
「ん? どうした?」
拓也が顔を上げると、冬香は少しだけ間を置いてから口を開いた。
「もうすぐ……ゴールデンウィーク……」
「ああ、そうだな」
納得したように頷きつつ、拓也は味噌汁を一口すする。
「で、どうした? どこか行きたい場所でもあるのか?」
問いかけに、冬香はこくりと小さく頷いた。
「温泉に……入りたい……」
「おお、温泉か」
思わず表情が緩む。
「いいじゃないか。たまにはそういうのも。夏香にも話して、予定立てるか?」
「うん……」
控えめながらも、どこか嬉しそうな気配がその返事に混じる。
「じゃあ、この話は夕飯のときに三人でだな」
「うん……分かった……」
短いやり取りのあと、再び静かな朝食の時間が戻ってくる。
やがて食事を終えると、二人はそれぞれの部屋へ戻り、支度を整えた。しばらくして、冬香を迎えに来た秋穂とともに彼女は家を出る。拓也は玄関先でその背中を見送り、小さく手を振った。
それから間もなくして、今度は春菜がやってくる。
「拓ちゃん、おはよう」
「おう、春菜。おはよう」
軽く手を挙げて応えた拓也は、そのまま外へ出ようとして、ふと足を止めた。
「……と、その前にやることがあったな」
「え? やることって?」
きょとんとする春菜に、拓也は少しだけ悪戯っぽく笑う。
「昨日言っただろ。毎朝、春菜を抱きしめるって」
「え……?」
一瞬、時間が止まったかのように春菜の動きが固まる。
「えっ? ええっ!? た、拓ちゃんが……私を……毎朝、だ、抱きしめるの?」
みるみるうちに顔が赤くなり、視線が泳ぐ。
「で、でも……急にそんな……わ、私、心の準備が……」
そう言って、くるりと背を向け、俯いてしまう。
その様子を見て、拓也は肩をすくめた。
「……悪い、春菜。今の、冗談だ」
「え?」
ゆっくりと振り返る春菜の表情は、まだ戸惑いに満ちている。
「冗談……なの?」
「ああ。まさかそんなに動揺するとは思ってなかった。ほんと、ごめん」
一転して真面目に頭を下げる拓也に、春菜は頬を膨らませる。
「もう~、酷いよ拓ちゃん!」
ぷん、とした声のあと、少しだけ視線を逸らす。
「私は……てっきり……」
「ん? どうした?」
「な、何でもないの!」
慌てて言葉を打ち消すと、春菜はいつもの調子を取り戻したように笑った。
「いいよ。拓ちゃんだから、許してあげる」
「おお、サンキューな」
その屈託のない笑顔に、拓也もつられて笑う。
「じゃあ、昨日の約束どおり鞄の中、見せてくれるか?」
「え? 鞄の中?」
再び首を傾げる春菜に、拓也は苦笑した。
「弁当ちゃんと持ってきてるか、毎朝チェックするって言っただろ?」
「あっ……!」
思い出したように声を上げ、慌てて鞄を開く。
「ごめんなさい、忘れてた……」
「いいよいいよ。時間もないし、さっと確認するぞ」
「う、うん……」
中を覗き込むと、今日はちゃんと弁当が入っている。
「よし、合格」
そう言うと、拓也は軽く頷いた。
「それじゃ、急いで行くか」
「うん」
二人は並んで歩き出し、朝の空気を切り裂くようにバス停へと急いだ。
少し慌ただしくも、どこか心地よい。そんな、いつも通りの朝だった。




