第10話 緊迫の夕食
「……起きて」
夕暮れの光が、カーテンの隙間から細く差し込み、部屋の中にやわらかな橙色を落としていた。静まり返った空気の中で、冬香はベッドに横たわる拓也の肩へ、そっと手を添える。
「兄さん……起きて……」
かすかな声とともに揺らされた体は、けれど反応を示さない。深い眠りに沈んでいるのだろう、拓也の寝息は規則正しく続いていた。
「兄さん……起きて……」
諦める様子もなく、冬香は同じ言葉を繰り返す。小さな手で、今度は少しだけ強く揺する。
「兄さん……起きて……」
何度目かの呼びかけのあと、ようやく拓也の瞼がわずかに動いた。
「ん……? どうしたんだ、冬香……」
ぼんやりとした声で問い返す兄を見て、冬香はほっとしたように息をついた。
「もうすぐ……夏香が帰って来る……」
「え? ああ……もうそんな時間か」
寝ぼけ眼のまま、拓也はゆっくりと上体を起こす。
「お風呂……沸かしておかないと……怒るから……」
「ああ、そうだったな。すぐやるよ。起こしてくれてサンキューな」
「うん……」
小さく頷くと、冬香は静かに部屋を後にした。
残された拓也は、ぼさぼさの髪をかきながら苦笑する。
「ベッドに横になったまま寝ちまったのか……」
身体を伸ばし、重たい瞼をこじ開けるようにして立ち上がる。
「さてと……まずは風呂だな。あいつ、沸いてなかったら本気で怒るし」
急ぎ足で風呂の準備を済ませ、部屋へ戻った頃、玄関の開く音が家の中に響いた。
「お、帰ってきたか」
一階へ降りると、そこには靴を脱ぎながら大きく息をつく夏香の姿があった。
「お帰り、夏香」
「ただいま。お風呂、沸いてる? 部活で汗だくだよ……」
「ちゃんと準備してあるぞ。すぐ入れる」
「さすが。ありがと」
ぱっと表情を明るくすると、夏香はそのまま階段を駆け上がっていく。
「俺は晩飯の準備してるからな」
「はーい」
軽やかな返事を残して、姿は消えた。
やがて三人は、ダイニングテーブルを囲んで夕食を摂っていた。忙しくても、食事はできるだけ一緒に??それがこの家のささやかな決まりだった。
「ねえ冬香、聞いてよ。今朝のことなんだけどさ」
箸を動かしながら、夏香が思い出したように口を開く。
「朝、時間ないのに兄貴が全然起きてこないから、わざわざ起こしに行ったんだけど」
「起こしに……行って……?」
冬香が首を傾げる。
「ゴホッ、ゴホッ」
その横で、拓也が急にむせ返った。
「いきなり抱きしめられてさ、しかもキスしようとしてきたんだよ?」
「抱きしめて……キス……?」
「そう、キス。妹相手にそれってどうなの? 普通じゃないよね?」
「ゲホッ!」
拓也の咳はさらに激しくなる。顔には明らかな動揺が浮かんでいた。
「それは……良くない……」
静かに、しかしはっきりと冬香が言う。
「でしょ? 冬香からも言ってやってよ、このエロ兄貴に」
「ゲフンッ、ゲフンッ!」
「ねえ、兄さん……」
「は、はいっ!」
びくりと背筋を伸ばし、拓也は半ば涙目で冬香を見つめる。
「兄さんの……ド変態……」
「おっしゃる通りです!」
即座に頭を下げる勢いで答えるその姿に、夏香が呆れたように息をつく。
「今度……同じことをしたら……」
冬香の言葉に、拓也はごくりと唾を飲み込んだ。
「私は……許さない……」
「分かりました! 二度としません!」
「うん……」
「えー、もう終わり? もっと締めてもよかったのに」
「ま、まあまあ。この話はここまでにして、飯食おうぜ」
「……まあ、いいけど」
不満げではあったが、夏香はそれ以上追及することはなかった。
その後は学校の話題で盛り上がり、食卓にはいつもの賑やかな空気が戻る。拓也だけは、余計なことを言って再び話題が蒸し返されないよう、黙々と食事を続けていた。
やがて食事も終わり、それぞれが自分の部屋へと戻る。
ベッドに身を投げ出し、拓也は深く息をついた。
「はあ……今日は妙に疲れたな……」
天井を見上げながら、ぽつりと呟く。
「風呂入って、ゲームして……さっさと寝るか」
棚に並ぶゲームソフトを眺めながら、いつもの日常へと意識を戻していく。
やがて風呂を済ませ、ゲームに没頭し、そして再びベッドへ。
静かな夜の中、拓也はほどなくして深い眠りへと落ちていった。




