episode2. 祖父の味
「すごくいい匂いがするな。こんなに朝早くからご苦労なこったね」
深緑色の渋い寝巻き着た男が、眠そうな目を擦りながら階段を降りてきた。金色の混じった髪はサイド短めのグラデーションで、刈り上げを入れたスパイキーなベリーショートスタイル。イケてるおじさんというような風貌なその男が、カウンター内のキッチンで鍋をかき回す老人に労いの言葉をかける。
「もうすぐできる。あんたも食うか?」
青い着物を着た老人は、鍋から目も離さずにイケてるおじさんに問いかけた。
「今日の営業で客に出すやつじゃないのか?」
「どうせ余る」
「それじゃあ、もらうわ」
イケてるおじさんは頭を掻きながら、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。
ここは『カフェ陰陽』。陰陽師の子孫である老人、安倍明宏とその孫であるイケてるおじさん、安倍春明が営む、昔ながらの飲食店である。
店内の壁には着物や呪符、形代など陰陽師を彷彿とさせる様々な品が飾り付けられている。
「ったく、毎日毎日よくそんなに凝ったものを作ろうと思うよな。それでたったの二百円で提供してるんだから。商売あがったりだ」
「まあ、この店自体、趣味でやってるようなもんだ。あんただって別に利益は考えてないだろ」
「そうだな」
右手の甲で頬杖をつく春明は、ふんと鼻を鳴らした明宏の言葉を聞いて笑みを溢した。
明宏が作るカレーは本格的なもので、様々なスパイスが使われている。そのブレンドは明宏の完全オリジナルなもので、この店でしか食べられない幻のカレーとして一部のお客さんから熱烈な支持を受けているほどだ。
「はいよ」
春明の目の前には、黄金に輝くカレーライスが差し出された。牛肉や玉ねぎの旨みを溶け込ませたカレーからは、食欲を刺激する芳醇な匂いを漂わせている。ふっくらと炊き上げられたご飯も艶々していて、まるで光を放っているようだ。
春明はスプーンでカレーとご飯をひとすくいすると、口へと運び入れる。
「やっぱり、うまいな」
春明は目を見開いた。
「当たり前だ。わしが作ったもんだからな」
明宏はカレーライスを頬張る春明の姿を見て口角を上げた。
すると、春明はカレーライスを頬張りながら今度は目を閉じて首を傾げた。
「使ってるスパイス、具材、分量は完璧なはずなんだ。だけど、どうしても俺が作ったカレーと祖父さんの作ったカレーとじゃ味が少しだけ違うんだよな……。なあ、いい加減にちゃんとしたレシピを教えてくれよ」
コーヒー豆を挽く明宏に向かって春明は懇願した。
「だめだ。料理は何度も試作して辿り着いた高みにこそ、価値がある。このカレーのレシピはそう易々と教えられるもんじゃない」
そう言ながらゆっくりと首を横に振る明宏に、春明はさらに畳み掛ける。
「そうは言うが、客から文句を言われたり茶化されたりするのはもう懲り懲りなんだよ。『なんだ、今日は坊が作ったのか』って、あいつらいじってくるんだぞ」
「それでもいいじゃねーか」
「よかねぇーよ。祖父さんの味を再現できなきゃだめなんだよ。もし祖父さんがくたばっちまったらこの店はどうするんだよ」
「死期を悟ったらその時は教えてやる。……まあ、それまでは試行錯誤で頑張るんだな」
明宏は台にセットしたフラスコへお湯を注ぎ入れると、アルコールランプに火をつけてフラスコの下に滑り込ませた。フラスコの下で小さな炎がゆらゆらと揺らめいている。
「そういえば、今日もあいつは来るのか?」
「あいつ? ……ああ、天池なら今日も来るはずだ。 昨日の晩もレイたちが張り切ってたからな。学校が終わったら来るんじゃないか?」
明宏からの質問に、春明は一人のメガネの青年を思い起こした。
天池達海は最近、カフェ陰陽に通うようになった大学生の青年だ。彼はここで暮らしている幽霊たちと体づくりのトレーニングに励んでいる。
……そう、ここ『カフェ陰陽』では迷える幽霊たちの面倒も見てやっているのだ。幽霊たちは自分が成仏することを目指して日々? 活動している。陰陽師の力を持つ春明と明宏はそんな彼らの力になれたらと、ボランティアで幽霊たちに協力したりもしていた。そんなカフェ陰陽の二階には六人の幽霊が住み込んでいる。
「そうか、天池にも、わしのカレーを食わせてやろう」
濾過器に挽きたてのコーヒー豆を入れた明宏は静かに笑った。
「こんにちはー」
「達海が来た!」
空の色がオレンジがかってきた頃、カフェ陰陽の入り口のスライドドアを開かれ、達海がやってきた。ドアのガラガラという音を聞きつけた幽霊たちが二階からと降りてくる。
「さあ! 今日もランニングから始めていくぞ、達海少年!!」
ピチピチの白ティーと短パン姿で、筋肉隆々の幽霊、「マッチョ」が達海にガッツポーズを向けた。
「それじゃあ、私たちは庭園で待ってるから。早く来てよね、達海」
「達海、今日は俺と組み手もやってみようか。早く戻ってくるんだよ」
死装束姿の少女の幽霊、「レイ」と、ネイビー色のジャケットを着こなした爽やかイケメンの幽霊、「アクタ」は、達海にそう言ってカフェ陰陽の庭園へと向かって行った。
「気をつけて行ってこい。あと夕飯用意してあるから、今日はここで食ってけよ」
カウンター内でコーヒーカップを拭く春明が達海に声をかける。春明はこの和風な店の雰囲気には似つかない、いつものチャラチャラとした格好をしていた。
「ありがとうございます。それじゃあ、行ってきます」
達海はトレーニング後の楽しみができたと顔色を明るくさせると、マッチョと共にカフェ陰陽を後にした。
「戻りました」
「ただいまー!!」
しばらくして、トレーニングを終わらせた達海と幽霊たちが庭園から戻ってきた。黒色のジャージ姿の達海は、滴る汗をタオルで拭いながら店内のテーブル席に腰を下ろした。
「お疲れさん。ほら、祖父さん特製のカレーだぞ」
春明が達海の座るテーブルへ、カレーライスを運び込む。
「ありがとうございます。もうお腹ぺこぺこです」
達海はスプーンを春明から受け取ると、カレーライスを口いっぱいに頬張った。その様子を幽霊たちが傍から覗き込む。
「やっぱり美味しいな、明宏さんのカレー」
「それじゃあ、私ももらっちゃおー」
「じゃあ俺も」
「ワタクシも」
幽霊たちは達海が食べるカレーに次々に手を伸ばして味見をした。そんな彼らを春明と明宏はカウンター内から、優しい顔で眺めていた。
「春明さん、今度は春明さんの作ったカレーも食べさせてくださいよ。レイたちが、明宏さんが作ったカレーとはまた一味違って美味しいって言うんで、食べてみたいです」
突然、達海に声をかけられた春明は目を丸くした。すると、明宏が春明に横から声をかける。
「客たちもあんたを茶化すようなことをしているが、あんたのカレーも結構評判いいんだぞ。固定観念に囚われるな。別にわしの味に拘らなくたっていいんだ。試行錯誤して、皆んなから美味しいて言ってもらえる味に辿り着ければそれでいい」
なんだそうか、俺のカレーは皆んなに認められていたのか、と春明は笑みを溢した。
「わかった、今度作ってやるよ」
春明がカレーを食べる達海と騒いでいる幽霊たちが座るテーブルに向かって声をかける。こちらにニカっと笑顔を向けるレイを見て、春明は軽く笑って見せた。
「これで、わしがいつくたばっても大丈夫だな」
「そんなこと言うなよ祖父さん。あんたはいつまでも長生きして、客に最高のカレーを振る舞ってやってくれ」
「ふん、あたり前だ。まだまだ、くたばる気なんてありゃしねーよ」
明宏は満足そうな顔でキッチンの奥へと向かった。
「あっ、それでも祖父さんのレシピは今度教えてくれよな」
「気が向いたらな」
カウンターに置いてあるサイフォンからは水蒸気が立ち昇り、ほろ苦い香りを店内に充満させている。