三首目
3 春霞たつより花もいつかはと山端のみそなかめられける
木原の解釈
春霞が立つやいなや、花(桜)もいつになったらと、山の端だけを眺めるのであるなぁ。
「春霞」、以前の和歌を思い出す。霞と桜花を一緒に詠むのは、宣長様の詠み方の一つの形なのであろうか。並ぶ言葉を見ると、それ以外に際立って気を付ける言葉は無いように思われる。もちろん、言うまでもなく、ここでの「花」も「桜花」を指している。この和歌について、宣長様のお答えは、「お前が感じた通りに解釈するとよい。私は桜の季節になると、山の端を眺め、今か今かと開花を待ち望んでいるのだよ」と。
宣長様は、待っていらっしゃるのだ、桜花の開花を。その「待つ」という状態を、和歌の様々な言葉を用いて、己の気持ちを表現なさっているのだ。同じ春霞の和歌であっても、詠み方次第で何通りもの、桜花の開花を待つ心情を表現なさっている。その言葉の豊富さに頭が下がる思いである。私自身は「いつかはと」との言葉に、「桜花」の咲こうとしている様子が描かれているように思われた。宣長様は、「いつ咲くのか、それを待つ時間が心躍る時間なのだよ」とお答えなさる。この和歌からも、宣長様が野山を眺めながら、開花を待ち望まれる様子が伺える、そう感じたのであった。