一首目
1 いとはやも高根の霞さき立て櫻さくへき春は来にけり
木原の解釈
たいそう早く、高嶺に霞が立ち込めてきた。桜が咲く春が来たのだ。
この日、宣長様はいつものように、早朝より散歩をなさっていたので、そのお帰りをお待ちして、この和歌についてお尋ねをしたところである。すると、宣長様は仰ることには、「桜花はな、長い長い時間をかけて、厳しい冬を乗り越える。そして、暖かくなる春を今か今かと待ち望んでいるのだよ」と。私は尋ねる、「いとはやも」という言葉に、宣長様の開花を待ち望む気持ちが込められている気がする、と。宣長様は、「この歌を最初に詠んだのには、理由がある。初句の『いとはやも』の『はや』には、前もって事を行うさま、あらかじめ、事前に、などの意味がある。桜花はな、季節を肌で感じとっているのだよ。」宣長様の桜花への思いが、さっそく伝わってくる。でも、ここでふと思う。しかし、「はや」にそのような意味があるのに、それをどうして、「高嶺の霞」という言葉を挟んで、桜花の咲く季節と詠んだのか。その私の疑問を晴らすかのように、宣長様は仰る。「でもな、桜花が今か今かと待ち望むというよりも、その周りの情景を描くことで、桜花の美しさや開花への期待が膨らむ、そう思わないか」。ああ、そうか、桜花は人間や動物ではない、だけども宣長様はそこに意思なるものを感じ取っていらっしゃる。でも、直接的に表現すると少し違和感がある。だから、そこに春の風物詩である霞を持ってこられた。合点がいった。一年の中でわずか数週間しか咲かない桜花、それを待ち望む宣長様の思いが伝わってくる、そんな歌であった。