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先輩の絵

作者: 雉白書屋

 大学生、二度目の春だった。時折吹く、やや強い風は彼らの髪や服に動きを与え、照らす陽光はまるで舞台役者のように、笑う自分、喋る自分、髪を押さえる自分、と彼らの所作をこの世界に表す手伝いをしているようだった。


「おいっす、何見てんの?」


「ん、先輩。……普通に普通の人を見ていました」


「ふーん……あ、ふはは、残酷なことを言うのねーん、おにいさーん」


「なんですかそれ……。あと、冷たかったんですけど」


「アイス。やるよ」


 そう言って先輩は背もたれを乗り越えて僕の隣に座り、さっき首筋に当ててきた包装されたアイスを差し出した。僕は手で空を、受け取った素振りだけし、お礼を言った。


「いや、なにそのノリ。パントマイム?」


「いえ、歯医者が怖いので甘い液体の類は禁止しているんです。だから今、お気持ちだけ全力で受け取りました」


「いや、そんな笑顔されてもな。大体、アイスは、ああ、まあ溶けりゃ液体か。じゃあチョコも禁止?」


「…………はい」


「間があったな」


「受け取って、あとで見えないところで捨てようかとも思ったんですけど、また買って来られるのもアレだし、捨てるのは少し不義理かな、と。どちらがよかったですか?」


「はははっ、あー、いいよいいよこっちで。お前のそういう正直なところがいい。んで、だ。これ」


「なんですそれ? チラシ?」


「そう、おれの個展。ああ、まあ自費でだけどな。作品溜まってきたし、ここらで一度な」


 そう言って先輩は鼻の穴を広げ、笑った。

 ここは美大でもないのに先輩は画家を目指しているらしかった。


「みーんな、何者かになりたくてここにいるんだろーなぁ」


 先輩はさっき僕が見ていた方を向き、そう呟いた。


「……チラシ、いただきます。楽しみにしてますね」


「おう……ってまたエアー! 気持ちだけじゃなく受け取れ受け取れ!」


 僕らは笑った。何人かがこっちを見ていた。多分きっと、さっきの僕と同じ気持ちで見ていると、僕は思った。




「……おっ、よく来たな! 正直な感想くれよな」


 遊びの約束でも、予定の日が近づくと面倒になる性分だ。先輩の晴れの舞台であってもその例に漏れず、自分は義理堅い人間だと自己肯定感を高め、その日を迎えた。


「はい。正直言うとわかりません」


「わからない? いや、それはまだ一枚も見てないからだろうがいっ!」


 そう言って先輩は笑った。がらんとした室内によく響いた。繁華街からやや歩き、動物病院と空きテナントの間にあるこじんまりとしたスタジオ。先輩の個展。開始時から結構時間が経っているが、これからどかどかと人が押し寄せるということはないだろう。そして僕が来る前はたくさん人がいたとも思えなかった。


「いえ、絵はあまりわからないんです。ベクシンスキーやオディロンルドンは好きなんですけど、他の絵は普通というか、見分けがつかないというか……」


「おほぉ……中二病拗らせてんなぁ。まあいいんだけども」


「そうなんですかね。あと『死の島』も好きです」


「タイトルに惹かれたろ、それ」


「つまり、肉が好きでレタスとキャベツの見分けがつかない人に自家製野菜の品評を頼むようなものですよ」


「わかるような、わからんような。まあ、でもいい絵ってのはジャンルだなんだ関係ない。心に響くというかさ、熱だよ熱! まあ、見てくれや。ああ、人物画が多めだぞ。普段、人を見ているお前ならなんか感じるかもな」


「関係ありますそれ?」


 来たのだから見て回るのは当然だし、楽しみにもなっていたけど、でも、困ったことに先輩の絵からは特に何も感じられなかった。もちろん、僕は素人。だからこそ、その僕が胸を打つ絵とここで出会うことを期待していることは、僕が集中できるよう離れている先輩がチラチラと向けてくるその視線からわかる。

 なので、僕はどうにか先輩を喜ばせる言葉が浮かばないかと結構、必死になって考えた。


「……あ」


「おお、どうしたどうした!」


「これ、いいですね」


 嘘をつかなくて良かったことに僕はほっとした。そして、それ以上に実際に良い絵に出会えて、少しだけだが感動のようなもの抱いていた。


「お、おお、そうか! うんうん、そうか!」


 でも、嘘をついたのは先輩だった。先輩は一瞬、悲しげな顔をして、またすぐに笑顔を作ったのだ。


 結局先輩の絵は一枚も売れなかったらしい。そもそも何人見に来たのかは知らないし聞けなかった。あの絵の話を詳しく聞くこともなかった。訊ねる気もなかったけど。


『あの絵。あの絵だけ、パクリだったんだ』


 大学を辞める。飲み屋で僕にそう告げた日の別れ際。先輩はそう言った。じゃあなと言って離れていく先輩の背中は何者でもなく、すぐに周りと見分けがつかなくなった。

 僕はその後、そのまま普通に大学に通い、普通に卒業した。そして普通に就職。

 またそれから何年か経ち、退屈と物足りなさを感じていた頃、先輩から連絡が入り、駅構内で待ち合わせをした。



「おいっす」


「あ、先輩。どうもお久しぶりです。お元気でしたか?」


「おう。もう先輩じゃ、いや、まあ、先輩か。で、さっそく見てもらいたいものがあるんだけど」


「え、何ですか? 絵ですか?」


「ああ、絵だな」


 そう言って先輩はポケットの中に手を入れた。僕は少しほっとしていた。先輩は大学を辞めても絵をやめたわけじゃなかった。むしろ本格的に絵の道に進んだのではないか、と。


「これだけどさ」


「えっ、これって……」


「どうだ?」


「どうって、普通ですけど」


「そうか! 普通か! はははははっ! ありがとな! 自信がついたよ!」


 そう言って先輩は僕の手のひらに乗せたお札を摘まむと、旗を掲げるようにして雑踏の中へ消えていった。


 その背中は周りとは違う、何者かになった人に見えた。

 それが良いか悪いか、僕には評せない。

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