7
『海、全然見えないね』
退屈そうな声だ。
時計の針は天辺を指している。海辺には全く人がいないと予想していたのに思いの外チラホラと見えた。
大学一年の夏。
地元では車で何時間もかけていた海が、今ではバイクで30分の距離にあるので俺達は何度かこの海岸に来ていた。
今日も大学の夏休み中に花火でもしようと海に来ていた。しかし花火は持ってきたのはいいのだが肝心の火種を持ってくるのを忘れ、真っ暗で何にも見えない海をただぼけっと眺めていた。
『さて、朝焼けまで何しましょうかねー』
『いや、それまでには帰ろうよ。眠いし、明日バイトだし』
『えー! 何しにここに来たのさ』
『それは本当にごめんって』
他愛のない会話で二人は笑っていた。
彼女は朝まで居たいと言ったが、それはまた今度にしようと宥めるための約束をする。しぶしぶだが、彼女は頷いて、絶対だからねと指切りをした。
砂浜をただぼんやり座っているのも飽きた頃、そろそろ帰ろうかと提言すると、彼女は海に向かって走り出した。
『海、入ろうよ!』
そう笑いながら足元の寄せては返す波をばしゃばしゃと蹴り飛ばし、今までにないほどの無邪気な笑顔でこちらを振り返る。
頷きたいのは山々だが、俺は濡れた後のことを考えて首を振った。
『楽しいのに』
唇を窄める姿が愛らしい彼女。しかし何を思ったのかどんどんと海岸から離れていく。足元だけじゃなく腰まで浸かり始めたところで俺は流石に危ないからと声をかけた。
『大丈夫だよ、泳ぎは得意だから』
昔スイミングスクールに通っていたとは言っていたが、そんなことはどうだっていい。こんな真っ暗な海で溺れられたりしたら助けることなんて無理だ。
波すら見えない黒い闇の中に彼女が沈んでいきそうで俺は波打ち際まで近づいた。
『ほら、気持ちいいよ! 暗いから月もよく見えるし』
白いワンピースが月明かりに光る。
黒い髪がサラサラ流れる。
闇の中で空に手を伸ばす。
こちらを振り返る彼女の顔は、影で見えない。
『あっ……』
足を滑らしたのか、彼女は小さい悲鳴をあげて姿を消した。予想通りの展開に真っ青になって俺は海の中へ飛び込む。暗い海の中では目を開けるのも閉じるのも変わらず、彼女がいたあたりを必死に探す。
どこだ、どこにいるんだ。
息継ぎしている時間などない。今ならまだ間に合うはずだ。
目を必死に凝らすが見えるのは結局、何にもない暗闇。空気を求めて肺が悲鳴を上げる。それでも辞めるわけにはいかない。
どこに行くっていうんだ。俺を置いてどこに行ってしまったんだ。お願いだ、お願いだ。こんな所で独りにしないで欲しい。
「ねえ、君は」
目も効かない中で手当たり次第探っていた時だ。突然明るくなっだと思ったら、彼女は目の前にいて穏やかな表情を浮かべ、俺の顔に手を置いた。不思議なことに彼女の手が触れた瞬間、感じていた息苦しさはすっと引いていった。
「私といて辛かった? 私といて楽しかった?」
さっきまで必死だったから気がつかなかったが、海の中は想像以上に穏やかだった。
彼女の声以外に音はない。暗い海の底には二人きりしかいない。寂しさなどなかった、むしろどこか満たされたような足りなかった物がぴったりとハマったような、充足感があった。
「楽しかった。でもそれ以上に辛かった、凄く辛かった」
俺も彼女の顔に手を置いた。
俺の言葉に悲しそうに顔を歪め、彼女は目を閉じた。
「そうだよね、ごめんね。君を不幸にしちゃって。ごめんね、私と出会わなければ君はもっと素敵な女の子と付き合えてたし、君はもっと笑えてた。君の人生台無しにしちゃった。ごめんね……ごめんね」
俺は彼女の額に顔を寄せ、抱きしめた。彼女の目から溢れた涙は闇の中でもはっきり見えるほど、綺麗な光を放ってぷかぷかと上に浮かんで行く。
「俺の方こそごめん、ちゃんと好きになるって思ってたのに、ちゃんと幸せにするって決めてたのに。
何も分かってなかった、ただ弱みに漬け込んで、蔑ろにしてた。俺の方がもっと最低だ、本当にごめん」
「そんなことないよ。そんなことない」
慰めるように撫でる彼女の手に俺も自然と涙が出た。二人分の涙が砕けた宝石のようにキラキラとあたりに散らばる。
「君を不幸にしといてなんだけど、私は楽しかった。私の事で笑ったり、泣いたりしてくれる君を見て、私の事を想ってくれる人がいる人生も悪くないかなって思ったよ」
「じゃあなんで、自殺なんかしたんだよ!」
俺の怒気を含んだ問いかけに彼女は困った顔をするだけだった。
「身勝手な女でごめんね」
小さく呟くその姿に俺は二度と離さないようにしがみついた。今離したらこの先永遠に彼女とまた会えることはないという現実に俺は耐えられない。
それが依存なんだとまた言われてしまうだろう。
だけど、俺はこれが愛だと叫びたい。
彼女は一度ぎゅっと俺の体を抱きしめた後、願いも虚しく腕の中で押し潰れた泡になって海の中に溶けていった。
必死にそれを掴み取ろうとするが手の隙間からすり抜けて、手の届かない遠い、遠い空の方へと浮かび上がっていく。
行かないでくれ。そう叫ぼうとした声はボコボコと泡になって消えていく。彼女が消えた瞬間にまた息苦しさが甦り、俺は空気欲しさに水が肺を満たし、体は重くなるばかりだ。もう手足を動かすことさえできない。もう抵抗する気力もない。ゆっくりと意識が遠のく。
ああ、そうだ、これでいい。
これで、きっとーー
「ゲホッ、ゲホッ」
俺は意識を取り戻すと同時に大量の水を吐き出した。どれだけ咽せても水が抜け切る感覚はなく、何が起きてるのか確認するためにも俺は涙ぐみながら体を起こした。
「何やってんのよ!? 馬鹿!!」
ピシャリと顔を強く叩かれ、ぼやけていた意識がはっきりした。
俺が横たわっていたのは花火ができなかったあの海辺だ。砂浜の上にびしょ濡れになっている俺の隣にはさっき頬を殴ってきた仲山さんが同じようにびしょ濡れの状態で座っていた。
「な、仲山さん、なんで……?」
「君が真夜中にバイクなんて走らすから、心配で追いかけてきたのよ。最近、様子がおかしかったから」
仲山さんも息を切らしてぐっだりとしている。服装も俺にとっては見慣れた部屋着のままだし、もちろんメイクだってなんもしていない。余程慌ててついてきたのだろう。
「……なんで、なんで助けたんですか?」
まだ混乱している俺は思わずそう言った。
竹田と仲山さんに連れられて、遊園地に向かったのは一ヶ月ほど前。大学の夏休みはそろそろ終わるが残暑はまだまだ辛かった。
俺はあれからまともな生活に戻った。きちんと自炊し、家事をこなし、友達と遊びに行って家族にも心配しないでと連絡をした。何もかもが上手くいっている。竹田といつも通り馬鹿な事で笑い合ったし、仲山さんはたまに手作りのご飯をご馳走してくれる。全てが順調に回っていた。
でもそれは表向きだけだ。
俺の中のあの日の孤独は、確実に俺を蝕んだ。何をにても同じような灰色の日々にじわじわと着実に死んでいく心が導き出した答えは単純明快だった。
俺はあの海で入水自殺をしようとした。
理由は何個もあげられるが、どれもはっきり言葉にすることはできなかった。だから遺書なんて書けなかったし、誰にも言わずここに来たつもりだった。
なのによりにもよって仲山さんに助けられるとは。
「なんで……ですって!?」
また、ピシャリと頬を平手打ちされた。鋭い痛みに思わず、仲山さんに反感の視線を送るとそれすらも気に食わなかったのか今度は胸ぐらを掴んできた。
「君こそなんで自殺しようとしたの? わかってるはずでしょ、残された人がどんな気持ちになるのか!」
「わかってます、わかってますよ! でもそれなら彼女の気持ちはどうなるんです? 独り報われることなく死んでいった彼女にどうやったら償えるんですか? 俺は彼女に、あの子に……何もわかってあげられなかった……何もしてあげられなかった、もう二度と寂しい思いさせないように、まだ二度と死にたくならないように、一緒にいてあげようと決めてたのに。
もう、こうするしかないんです。こうするしかもう、俺は……俺は……」
男なのにみっともないだとかそんなことはもうどうでもよかった。ボロボロと涙をこぼし咽び泣く俺を見て、仲山さんは胸ぐらから手を離した。
俺はその目が見れなかった。きっと同情の目でこちらを見ているはずだ、彼女と同じ道を歩み始めてる俺はもうきっと救えない。
「もう、ほっといてください。俺のことなんて」
仲山さんが少し迷っている気配を感じた。ここで間違えるわけにはいかないと、かける言葉を必死に探すのは痛いほど分かった。
だが、どんな言葉も無意味だ。今なら分かる。どんな言葉ももう死んでしまった俺の心に響くことはきっとないのだ。
どれぐらい泣いていたのかわからない。
心優しい仲山さんにまで迷惑をかけてしまったと俺は自嘲気味に笑うと、今またここで海に入るわけにもいかず、どうしたものかと途方に暮れ、真っ暗な海原を眺めた。
波の音だけが心地よく響くが、不安を煽る深い暗さに何故だが心を強く惹かれた。まるで彼女が早くこっちに来てと手を招いているようだ。
「君が言いたいことは、わかるつもりだよ」
沈黙を守っていた仲山さんはそう呟くと、同時に何かゴソゴソと布切れが擦れる音がした。
何をしているのかと視線をやると、そこにはズボンを太腿の真ん中辺りまで下ろし、下着が見えるのもお構いなしにこちらに右脚の内側を見せるように少し広げている仲山さんがいた。
俺は慌てて視線を晒すがはっきりとそれが見えた。太腿の付け根あたりに彼女の手首にあった傷と同じ、刃物で何度も切りつけた痛々しい傷跡が。
「私も昔、耐えらないことがあって死のうとしたんだ。君が死にたい理由はよくわかるつもり」
また布が擦れる音がして、隣に座った気配がした。こんな事をさせて申し訳ない気持ちで一杯だった。
普段の仲山さんからは考えられない出来事に俺は動揺したのは確かだった。しかしこんな時、なんて返せばいいのか正解など俺にはわからなかった。“どうして?”なんて今更心の傷を抉るだけだし“生きててよかった”なんて今の俺が言えることでもない。きっとこういう肝心な時の正解をわかっていたのならこんな悲惨な結末にはなっていなかった。
そんな事を考えていると突然、仲山さんに頬をがっつり掴まれ、無理矢理顔を向き合わせられた。
「だからこそ、はっきり言わせて」
その目には同情なんかではなく、真っ直ぐと向けられた怒りがあった。
「君のその後悔は一生報われることはない。君のその罪の意識は一生消えることないし、君は永遠に彼女のことで苦しみ続けることになる」
容赦のない言葉が俺の胸に突き刺さる。息もできないほど深い痛みに今すぐにでも死ねたらどれだけ楽だろうと思った。
「だけど、君が死んだって彼女は喜ばない、いやもう喜ぶことはできない。彼女の気持ちを理解しようと足掻いたところで、結局のところ真実はわからないし、いくら彼女の幸せを願ったってそれに答えることはもうできない。
彼女が君に何かを求めることはもう無いように、君が彼女に何かを求めることは無駄なことだよ。ましてや彼女に赦しもらおうなんてお門違いだ。
だって君の彼女は、もうこの世界のどこにもいないんだから」
仲山さんの鋭い瞳は涙で震えていたが、はっきりと淀みなく放つそれは凛とした雫のように心を穿つ。
この世界にいない、それはわかってる。
わかっているからこそ、俺はーー
「じゃあ、どうすればいいんですか」
どうすればこの苦しみが、終わるというのだ。
どうすればこの痛みから、逃れられるというのだ。
「忘れるしかない」
そう臆せずに言う仲山さんは相変わらず迷いのない眼差しでこちらを見ているが無責任で、期待外れな言葉に絶句した。仲山は更に続ける。
「君はきっと許せないと思うけど、忘れるしかない。君を唯一、責めていい彼女はもういない。ならそれ君はその苦しみを、その痛みをゆっくり、時間をかけて忘れて生きていくしかないんだよ。そりゃ、もちろん完全には忘れられないだろうけどね」
「そんなの、そんなの……ズルじゃないですか」
理解できないと、俺は頭を振った。そんなの認められるわけがない。彼女にした事、俺が彼女にできなかった事、忘れて生きていけなんて卑怯なことしていいはずがない。
そんな俺の頭に手を置いて、優しく微笑みかけると泣きじゃくる子供を宥めるように撫でた。
「そうだね。でも正しいことだけが正解だとは限らないって大人になれば君だって分かる。
感じたこと全てを抱えて生きていける程、人間は強くできてないし完璧じゃないから、忘れることができるんだ。それはズルだったとしても、間違いじゃないよ」
「それって大人の都合のいい解釈ですよね」
「ふふ、いいよ、そう思いながら生きてくのも悪くない。でも一度でいい。一度でいいから悪い大人に騙されたと思って信じてみてよ。
みんなだって何かに絶望して、何かに希望を抱いて生きてるんだ。全てを大事にしなきゃいけないわけじゃない。ちょっとズルくても何かを捨ててながら生きていく。生きていかなきゃいけないんだ」
この人は一体何を捨ててきたのだろうか。
救いようのないこんな男の為に涙を堪えて、こんなにも善人に見える仲山さんも過去に何かあって、辛い思いをして、何を切り捨てて生きているのだろう。
生きていかなきゃいけないんだと呟くその姿は、その身に降り注いだ悲劇の全てを忘れられたようには見えなかった。ただ、自殺志願者を助けるだけの方便とは思えないほど、その瞳は真っ直ぐに俺を貫いた。
「それでも生きていくのが難しい時があるかもしれない。ただ覚えといて、君が死んだら少なくとも私は君を絶対に許さない。こんなに心配して、助ける為に手を差し伸べて、それでも死にたいなんてほざく君を私は許さないんだから」
自分を責めるな、と彼女の兄は言った。彼女を救えなかったのは彼女自身が救われようとしなかったからだと。
なら、俺もここで仲山さんの手をただじっと見つめるだけなら彼女と同じ結果を辿るだろう。信じたくないと頭を抱え、聞きたくないと耳を塞げばこの先に待っているのは彼女と同じ答え。
彼女にできなかったことができるだろうか。
この人のように強く生きていけるだろうか。
それはまだわからない。
わからない、けどーー
波の音が二人の間を埋める。
気がつけば、遠くの海が白く明らみそろそろ夜明けがやったから事を知らせた。
初めて見た朝焼けの海に俺は息を呑んだ。
ゆっくりと空が赤く染まる。それはあのバスタブで見た喉の奥にへばりつくような赤ではなく、別の意味で心に刻まれる今まで見たことのないような鮮やかで、全てを染め上げる穏やかな赤色。
「……こんなに綺麗なら朝まで残ってればよかったな」
ぽつりと呟いた。
わからないけど、あきらめるのにはまだ早い気がした。
目の前の景色を見て大きく揺り動かされた心を死んだと決めつけるのは早い気がした。もしかしたらこの先また日常に彩が戻り、また誰かのことを愛せるのようになるのかもしれない。
『帰ろっか』
ふとそんな声が聞こえた気がした。
だから言ったのに、と眩しさのあまり目を細めながら嬉しそうに彼女は言っただろう。あの日の白いワンピースを着て、朝日に向けて指差す彼女はいつだって正しく思えた。
俺は名残惜しくその姿に手を伸ばす。届きやしない指先は淡く消えるその輪郭をなぞる。
「……そうだね、帰ろう」
俺は彼女の名前を噛みしめるようにそっと呟いた。
静かに登る太陽の中、まだ誰も浴びていない波風に凪いだその名前を呼ぶのは、きっとこれが最後だ。