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彼女がふと呟いた名前を俺は思い出した。
はっとして男の顔を見つめる。男は怪訝そうな顔をしながらこちらを一瞥すると持ち歩き用の灰皿をポケットから取り出した。
『ナオキ……』
同棲するほんの少し前のまだそんなに喧嘩も多くなかった頃。
親元から離れ、上京したての俺達は目まぐるしい環境変化に期待を募らせ、無限に思える時間を甘ったるい生活に費やしていた。
あの頃はまだ幸せだった。自殺騒動で揺らいだ俺の心は、常に一緒にいてあげなきゃと脅迫概念のような思い込みで俺は彼女に構ったし、彼女もそれに応えてくれているように幸せそうに笑っていた。大丈夫、きっと彼女を幸せにしてあげられると思ったある日のこと。
甘い時間を終え、眠る彼女を起こさないように飲み物を取りに行こうとした時に彼女は呟いたのだ、彼の名を。
今でもあの時のことはよく覚えている。切なげに、何よりも愛おしそうにその名前を呟く彼女の声は泣いているかのようだった。彼女が寝ぼけて男の名前を口走ったのはそれが最初で最後だったからだ。その時は浮気を疑って血の気が引いたし、一晩中眠れることができずに朝目を覚ました彼女に驚かれた。
しかし俺にはそれが誰なのか聞く勇気がなかった。次の日も、その次の日も変わらず接する彼女を白々しい目で見てしまうにも関わらず、俺は真実を聞くのが怖くて必死に平静を装った。
だが、それは次第にただの小さな棘になって俺の心に少しの違和感を残すだけにとどまった。なぜなら、彼女は一日中俺にべったりで浮気している様子もない。もしかしたら、昔飼っていたペットだったりするのかもしれない、いつか聞いてみよう、などと俺は見て見ぬ振りをして臭いものに蓋をする論理で無かったことにした。
あの時の名前をここで聞くとは思わず、俺は去り際の彼の腕を掴んだ。
「何?」
少し不機嫌そうな彼を俺は見上げる。頭一つ分違う彼から見下ろされると気持ちが縮こまる思いだがおれは確認したいことがもう一つあった。
思い出したのだ、彼をみかけた場所を。
「尚樹さんは塾で働いてるんですか?」
「いや、今は違う。大学四年までは近くの塾でバイトしてはいたけど」
その言葉で蘇る彼女との出会い。
屋上の鍵を持っていた彼女。
魅入ったように下を見下ろし、誰かが来るのを待っていた彼女。
早く降りなきゃとタイミングを見計らっていた彼女。
そういうことだったのか。
タバコがするりと手から落ちた。
理解すると同時に俺は男の顔を殴っていた。
ど素人の拳が頬に刺さりはしたが、よろめくこともなく彼は驚きと怒りで目を見開いた。
「何するんだ!」
拳が今までにないほど痛かったがそれでも俺はもう一度力を込めて男の顔を殴ろうとした。そう簡単に男も殴らせてくれるわけもなく、気がついたら先程の父親と同様男に取り押さえられていた。
「お前の! お前のせいで彼女が!」
俺は必死に暴れ回るが、体格差を考えると何をしても勝てないだろう。わかってはいたが、頭に血が上った俺は考え無しに男に敵意をむき出しにする。
「彼女は塾で飛び降り自殺しようとしてたんだ! お前だろう!? お前が彼女にそうさせたんだろう!!」
男が後ろで息を飲むのがわかった。
知らないはずだ、アレは俺と彼女の秘密なんだから。
力が緩んだその隙を狙い俺は男の腕を振り払い、振り返った先の呆然として佇んでいたその顔にもう一度拳を入れた。
「彼女が、彼女がどんな気持ちであの夜自殺しようとしたのかわかるか?」
彼女が塾の屋上の鍵を持っていたのは、きっとこの男と付き合っていたからだろう。塾で働いていたのなら鍵の場所だってわかるはずだ。それをこっそり取って彼女に渡すこともできるだろう。
兄妹である二人は家では会うことはできてもそれ以上はできなかった。だから屋上で会っていたのだろう、付き合ってはいけない相手を、好きになってはいけない相手を彼女は好きになってしまったのだ。
「君に何がわかるんだ」
「……何も知らない」
そう全部妄想かもしれない。鍵もたまたま預かってただけかもしれないし、彼女は別の理由であの夜を迎えていたのかもしれない。
だが一つだけ確かなことがある。
男の名前を呟いた彼女の顔は見たことがないほど苦しげで、その声は今でも頭の中に残るほど愛情に満たされていた。いつもの好きだよと明るく笑う彼女ではない。深く心に根付いたそれを痛ましげに、そして狂おしく、一生の宝物のように抱えているその記憶の中に俺はいない。
二回目の自殺未遂で過った俺の考えは間違いじゃない。勘違いではなく、俺ではダメだったのだ。
彼女を幸せにしてあげられるのは俺じゃない。
「お前だったんだ、彼女にはお前しかダメだったんだ……」
だけど、それは叶わなかった。
彼女はこいつに捨てられてしまった。
男の左手の薬指には忌々しく光る指輪がある。
捨てられて、砕けた彼女の心は元に戻らず、必死に治そうとすればするほどにその原形は崩れて二度と同じ綺麗な形には戻れなくなってしまった。
そして彼女は、自殺を繰り返した。
「……君が何を知ってるのかは知らないが、あの子が自殺したのは俺達のせいじゃない。元からそういう子だった。
あの子は他人の愛情がわからないし、受け取ることができずに独りで苦しんでるような子だった。いくら俺らがあの子を孤独から守ろうとしたってあの子はそれに気付けずに寂しいと泣くような子だった」
ぶっきらぼうな言い草に俺は男を睨みつけるが、男は涼しい顔をして新しいタバコに火をつけた。
どの口が言ってるんだともう一度殴りかかろうと思ったが、少し動かした指が痛くて見下ろすと青く腫れ上がっており、男の顔よりも痛々しかった。
「それはお前が捨てたからじゃないか、お前が彼女から逃げ出したから誰も信じられずに彼女はずっと苦しんできたんじゃないか?」
「いや、あの子は俺と出会う前から誰も信じてなかった。常に愛情に飢えた悲劇のヒロインだった。
理由はなんであれ一度、人間不信に陥ったらそれを治すには周りの環境と本人の気持ちが必要だ。周りの環境については君が一生懸命に尽くしただろ? 見ず知らずの俺に殴りかかるぐらいだ、本気であの子のこと好きだったんだろ? ならそっから先は本人次第だ。
あの子はどうだった? 君のこと信じてくれたかい? 信じられるように変わろうとしてたかい?
言わなくてもわかるよ、結果は惨敗。無理だったんだ。あの子は人を信じなくていい居心地の良さに浸って変われなかったから報われなかった。注がれてる愛情を疑心で受け取れず、救えない自分に耐えられなくなったんだ。
それは君のせいでもなければましてや俺のせいでもない、あの子自身のせいだ」
煙を吐き出しながら、言った言葉は男の本心に思えた。その台詞が無責任にも思えた俺は飲み込みたくない気持ちと今までのことが救われた気持ちとの狭間で狼狽えていた。
自殺したのは俺のせいじゃない。
自殺したのは、弱い彼女自身のせいだ。
俺は目を細め、自分にそう言い聞かせる男を見る。かつて彼女が愛した人。いや、もしかしたら死ぬ直前も思っていたのはこいつのことだったのかもしれない。
今思うと彼女のアンニュイな表情全てがこいつのためだったのだ。俺に向けてた優しいあの笑顔は全部俺越しにこの男を見ていたのではないかと思い出が全て音を立てて崩れ始めた。
そしたら彼女のことが不憫で居た堪れなくなった。
ここまであっさりと切り捨てられてしまった彼女のことが堪らなく可哀想になった。
臆病だからと、治る見込みがないからと、最愛の人に捨てられた彼女。他人に縋るしかない彼女はこの世界では不幸だと嘆きながら更にその海に沈んでいくしかないのだろうか?
いや、弱い彼女が他に救われる道がないのなら、それは世界の方が間違っていたのではないだろうか?
「尚樹さんは……彼女のこと、愛してたんですか?」
これだけは。せめて、これだけでも報われて欲しい。
男は無言でタバコを吸い続け、その煙を吐き出した。白い煙は独特の臭いだけを残し青い空の中へうっすらと消えていく。その先に浮かぶ太陽が眩しくて直視できずに視線を男に戻した。
彼はずっと空を見続けている。そこに何かを探すように、そこに彼女との思い出があるかのように視線を這わせていた。
「……本気だった。本気だから別れた。あのまま一緒にいたら二人ともダメになってたから」
空を眺め続けるその目に涙が溜まっているのが見えた。
俺はもう何も言えなくなってしまった。大の男が涙を堪えて震える手をタバコで必死に隠すその姿に、俺は責めることができなくなってしまった。
「自分を責めるなよ、少年。俺達はこっからも生きていかなきゃいけないんだから」
短くなったタバコを灰皿で消して、鼻を啜った男は振り返りそのまま会場へと向かった。
俺は黙ってその姿を見送り、熱い日差しの中に一人取り残された。気付かぬうちに汗で全身が濡れていたので、俺は着ていたスーツを脱いでシャツの袖を捲った。
俺はとぼとぼと駅に向け、歩き出した。
さっきまであったはずの熱はとうに冷めたし、宛ての無くした感情は形を成さずに頭の中を漂ってる。言いたかった言葉は全て夏の暑さに溶けてしまった。
ふと右手を見るとさっきよりも腫れ上がっており、少しでも動かそうものなら右腕に鋭い痛みが走った。
帰り道で氷を買おうとぼんやり考えた。