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『ねえ、おはよう』


 俺は持ち上がらない瞼をこじ開けようともせずに唸るような返事をした。


『ねぇってば』


 少し苛立ちながら今度は肩を揺さぶられ、それでもまだ寝ていたい俺はうんうんと寝ぼけながら答えて寝返りを打つ。


『本当に君は朝弱いなぁ』


 鼻を軽く摘まれて俺はようやく瞼を開けた。そこにはとっくに朝の準備を終え、完璧な笑みを浮かべる彼女がいた。いつも通りの朝だ。美味しそうな朝ごはんの香りに眠気よりも空腹が勝ったし、カーテンの隙間から漏れた光が眩しくてそろそろ起きなければならないことが嫌でもわかった。


 今日は何曜日だ? 何限から授業だったかを俺はぼんやりする頭で考えながら体を起こした。


『おはよ、私は今日二限だからもう行くね』

『ん、わかっ……』


 俺は欠伸をして、そのまま口が塞がらなくなった。目の前の彼女の顔が右半分黒い泥となって溶けているのだ。

 唖然としている俺を彼女は首を傾げてこちら見つめ返している。左はいつも通りなのに右はドロドロと溶けて落ち、そのまま床を汚していた。


『何? なんかついてる?』

『いや、か、顔が溶けてる……』

『もう、何寝ぼけてんの』


 冗談を言ってると思ったのか肩を軽く小突いてきたその手がまた溶けた。

 肩にへばりついたそれはヘドロのようにこびりついて染み込むようにゆっくりと肌を湿らした。気持ち悪さに俺は思わず手でそれを振り払った。


『なんでよ』


 はっとして彼女を見ると、彼女の顔は全部泥になっていた。溶けながらこちらに詰め寄る彼女に俺はソファーから立ち上がり部屋の隅に逃げようとしたが、足元が急に不安定になりもたついていると、そのまま床が抜けて水音を立てながら俺は暗い海の中へと沈んでいった。


 驚きでぼこぼこと泡を吐き出すが、息苦しくはない。ただ、重い水圧で身動き取れずに胸を締め付けられるような恐怖で俺は瞬きもせずに辺りを見渡す。


『君はいつだって私を助けてくれたじゃない』


 足を力強く引っ張られ見下ろすとそこには黒い泥ーー彼女がいた。水の中で原型を留められていない顔はもう本当に彼女なのかどうかもわからないが声だけは聞き慣れた彼女のものだった。


『なんで君は助けてくれなかったの? なんでなんでなんで……』


 泥が体を覆い始め視界が真っ暗闇で何も見えなくなり、耳元で彼女の囁きが聞こえる。


『なんで君はまだ生きてるの?』

















 目を開けて周りを見渡すと何の変哲もない電車の中だった。大学生になってからはあまり見かけない四人向かい合う席が並ぶ電車は俺にとって馴染み深いものだった。

 窓の外を見るとぱっとしない住宅地が立ち並び、その合間に時折畑が見える。懐かしさに安堵感を覚え大きな溜息を吐きながら俺は一口ペットボトルのお茶を飲んだ。


 昨日は結局あのまま仲山さんの家に泊まった。夢にうなされてなかなか眠れない俺に仲山さんはお茶を入れて眠れるまでくだらない話を聞いてくれた。あまり睡眠も取れない中、俺は朝早くから電車に乗り込み、実家に戻ることにした。

 戻ると言っても一日だけ、彼女の葬式のために帰ることにした。彼女の実家はそんなに離れておらず、葬式に出てからそのまま実家に寄ろうと思う。親には理由も告げず一日だけ泊まらせてほしいとお願いした。

 電話越しに話したとて上手く話せる自信がなく、親には会ってから全て話そうと思った。

 無駄な心配をかけたくないので話すのをやめようかとも思ったが、仲山さんにそれは怒られた。

 それにあの大家のことだ、最悪親に連絡する可能性もある。一応昨日の夕方に仲山さんに付き添ってもらいながら大家も納得ないく特殊清掃の依頼をしたつもりだったが、清掃を終えてから文句を言ってくる事も十二分にあり得え、学生じゃ話にならんと親に連絡をするのも想像つく。


 俺は慣れないスーツを見下ろす。親が便利だから一つは待っとけと言って高校の卒業の時に買ってくれた全く似合わないスーツ。電車の中でも浮いてるみたいだ。

 視線を感じて顔を上げると、一つ奥の席からこちらを見てくる男がいた。悪夢でうなされていたので、それでこちらを見ていたのだろう。

 向こうも俺と同じ様にスーツを着ているが俺とは違って着こなしている。なんだかそれが恥ずかしく思えて俺はすぐに視線を逸らした。


「次は〇〇駅、〇〇駅」


 アナウンスの声が流れ、目的地についたことを知らせる。彼女を家まで送るために何度も降りた駅だ。けれど家までは送らせてもらえず、いつも途中で断られてしまった。理由を聞けば親が厳しいから受験の大事な時に男と遊んでいたのを知られたくないそうだ。

 彼女は自分の家族のことについて多くは話そうとしなかったが話の端々からもそれは伺えた。それに病院で殴ってきた父親のことを思い返せば想像も容易い。


 俺は電車を降りて茹だる様な暑さの中、アスファルトの道を歩き出した。

 今日の葬式については彼女の母親から連絡があった。昨日スマホに彼女からの連絡があったので何事かと思えば式場と日時の連絡が簡素に書かれてた文章と、来るにあたっての注意事項がかかれていた。

 感謝の文を送り、それ以上は何も連絡していない。前にあった時も無口で感情の起伏が少なく、雰囲気は彼女にそっくりなのに性格は真逆だなと思った記憶がある。しかし彼女が亡くなったと言うことでバタバタしている中、欠かさず俺に連絡してくれる所は気が回る人だ。


 ちなみに、大学で葬式に行くのは俺だけだ。彼女の友達に聞いたのだが、どうやらSNSを通して母親から自殺の事は教えられてはいたものの葬式については来ないでほしいとの旨を言われたらしい。父が彼女が死んだのは都会で悪い環境にいたせいだと、大学のやつらが来たら塩を撒いてやると激怒しているのだという。

 友達達から御香典を預かり、持ってってくれた涙ながらに頼まれた。きっとみんな行きたい気持ちがあったのだが、葬式でことを荒げたくなかったのだろう。


 俺は式場が近くなり、スマホを開いて、母親が送ってきてくれた注意点を改めて見返す。


“葬儀が始まる少し前にお焼香だけでもあげられるようにします。父には会わないようにしてください”


 まだ会場も準備中で受付には誰もおらず、彼女の母親が疲れた顔でこちらを見ていた。俺が会釈すると母親もそれに返す。顔を上げたその顔は彼女の自殺未遂の際、病院で会った時よりもだいぶ老けたように見えた。


「わざわざ遠いところから来てくれてありがとう。あの子もきっと喜んでるわ」

「今日はご連絡ありがとうございました、コレ、大学のみんなからです。あの、この度はご愁傷様でした」


 慣れない言葉に少し口が籠ってしまう。それにまたお礼を口にすると母親はみんなから集めた香典を受け取った。


「こっちよ」


 受付のすぐ奥が会場になっており、白が基調の質素な部屋に入った。整然と並べられた椅子には誰も腰掛けておらず、その正面には立派な祭壇とそれを美しく飾る白い花と、差し色にピンクの花が使われている。

 染み一つない静かさの中、俺は遺影の方へと近づいた。高校の時の写真だろうか? 少し幼く見える彼女はカメラに形のいい歯を見せている。

 俺の知らない彼女の姿の一つだ。いつもの清楚な笑い方よりももっと元気な、夏の花火のようなはつらつとした笑顔を浮かべている。


 視線を下ろし、棺を見た。顔のところの窓は今は閉まっているがその下には彼女がいる。一昨日まで一緒に暮らしていた彼女がそこにいる。


「顔、みる?」


 母親が気遣って俺にそう尋ねた。俺は深く頷くと、静かにその窓を開けてくれた。

 俺は目を閉じて一度深く息を吸い込んだ。最期のお別れなのだ、最期ぐらいしっかりと男らしい所見せてお別れしたい。落ち着いた心で、彼女とお別れをしたかった。


 ゆっくりと目を開け、彼女の顔を見据えた。いや、見据えようと思った。

 しかし、できなかった。

 一瞬だけ彼女の顔を見る事はできたが、すぐに逸らしてしまった。震える手を必死に隠そうとするが、それが返って滑稽で俺はやはりどうしようもない男なのだと思い知らされる。

 思い出の中の彼女とは大分違った。事故にあったわけではないので顔も綺麗なままなのだが、元から透き通るような白だった肌は血の通わない陶器の人形のように虚しく、唇の色は彼女が決して付けることがない紅の色をしていた。頬も心なしか削げて見え、微動だにしない彼女を直視できず俺はもう大丈夫ですと棺から離れた。


 毎晩見ていたあの寝顔はもうない。


 綺麗だった彼女はもういない。


 改めてその現実が俺にのしかかる。頭ではわかっていたことなのに、体は拒絶しどうにも震えが止まらない。

 動揺せず、堂々とした態度で別れを告げることもできない俺は本当にダメな男だ。好きだった女性の最期に向き合えず顔を逸らす俺は、中学のあの時から変わらない、ただ受け入れられないことがあればすぐに逃げてしまう臆病な少年のままなのだ。


 俺はお焼香をあげようと、祭壇の前に置かれている机の前に移動しようとした時だ。


「何をやっている!」


 出口の方から怒鳴り声が聞こえ、見るとそこには父親が青筋を浮かべて鬼の形相でこちらに向け走ってきた。


 殴られる、と思い咄嗟に頭を腕で覆う。

 しかしいくら経っても痛みは来ずに俺はゆっくりと顔を上げた。


「親父、落ち着けって」


 そこには先程電車で視線があった男がいた。彼が父親を後ろから抑えていた。身長の高い父親を独りで難なく抑える彼はみかけ騙しの筋肉というわけではなかったらしい。


「こいつだ! 殺したんだ! 俺の娘を! こいつだ! この人殺し!」


 支離滅裂なことを叫びながら唾を飛ばし、シワ一つなかったスーツを乱してもがく父親に母親が駆け寄るが、そんな彼女にも殴りかかりそうな勢いだったので羽交い締めにしていた男はさらに力を強める。


「俺が追い出すから、親父はここで待ってろ。君ももういいだろう、早くここから出るんだ」


 騒ぎを聞きつけた人が駆けつけ、男の代わりに父親を抑えゆっくりと座らせた。どうやら殴ることは諦めたらしく荒い呼吸をしながらこちらを睨みつけ、叫んだ時に出た口元の涎の泡を手の甲で拭き取った。


 俺はその様子を茫然と見ていたが、先程の男に腕を掴まれ強引に出口へと引っ張られて行った。


「一体、何を考えているんだ君は」


 ぶつぶつと聞こえる音量でそう彼は愚痴りながら会場の外を出て、そのまま駐車場へと進んだ。

 そこまで来ると彼は腕から手を離し、ポケットからタバコの箱を取り出すと一本咥えて吸い始めた。

 俺は吸ったことがないし、この煙の臭いが苦手だった。顔を少ししかめて彼を見ていると徐にタバコの箱を差し出してきた。


「吸う?」

「いえ、大丈夫……いや、やっぱり貰ってもいいですか?」


 単なる思いつきで俺は手を伸ばして一本タバコを取った。

 男は慣れた手つきで火を差し出してくれたので、俺はタバコにその火をつけ、咥えた。

 吸い方など分からなかったので、思いっきり吸ってみる。肺に煙が入り、うまく溜めこめず咽せ返ってしまった。涙目で咳き込む俺を横目に男は涼しい顔をしてタバコを吸い続ける。


「ケホッ……肺に入れるって難しいですね」

「まあ、初めはそうだろ」

「彼女が、昔吸ってたんです」


 あれは彼女が二十歳になってすぐのことだ。四月に誕生日が来た彼女は俺よりも先にタバコやら酒やらを楽しんだ。しかしどちらも好きにはなれなかったらしく二つとも継続はしなかった。

 だが、タバコの方は時たま思い出したようにベランダで吸っていた。風呂上がりの彼女は吸いなれない初心者特有の咳き込みをしながら夜の月を見上げていた。


「……そう」


 男は短く答えると煙を吐き出し、そのまま夏の青い空を見上げた。


「君は、彼氏だったの?」


 唐突に男は聞いてきた。頷くと男は再びそうと短く答えた。


「俺は兄の……っつても、あいつは母親の連れ子で俺は父親の子だから全く血は繋がってないんだけどな」


 男はこちらを見ずに嫌になる程清々しい青空を見上げて言った。


 親が再婚であるとは聞いていたが、兄がいるとは知らず驚きで男の顔を凝視した。短く切り揃えられた黒髪と奥二重の瞳、ガッチリとした骨格から少し怖い印象もあった。血が繋がっていないからだろう、彼女とは似ても似つかない顔立ちだった。しかし均整が取れていて整っている、タバコを吸うその姿もとても様になっていた。

 何故、話してくれなかったのだろう。仲が悪かったのだろうか、そういえば家族写真は一枚も見たことがないし家庭については親が厳しいことぐらいしか聞いていなかった。


 俺はこの顔をどこかで見た気がした。思い出そうとするが、今はそんなことどうでもいいかと頭を振った。


「さっきはありがとう」


 振り返ると彼女の母親がこちらに小走りで来た。


「いえ。親父の方は?」

「ええ、だいぶ落ち着いてきたみたい。

 あなたもごめんなさい、お父さんあの子のこと大事にしてたから参ってるの。だから許してあげてね」


 母親はそう言い、隣にいる俺にくたびれた笑みを向ける。俺は首を振り気にしないでくださいと言った。


「そろそろだから、尚樹君もゆっくり戻ってきなさい」


 母親は男にそう告げるとまた式場へと戻って行った。


『ナオキ……』


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