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 彼女の死は自殺だと警察は断定し、俺は無事に病院から夜が明ける前の街へと放り出された。


 財布もなければスマホもなく、全て家に置いてきたので寄り道することもできずに帰らなければならない。病院から家まで歩けば1時間ぐらいかかるだろうが今はその距離が有難かった。


 家に辿り着いたとしてもあの部屋ではもう生活はできない。彼女との思い出が首を絞めてくるようだ。

 今だってどこかで足を止めようかと思ったのだが、どこもかしこも彼女との記憶が蘇る場所ばかりで休める所などなかった。


 空が赤らみ始め、明け方の街を俺は部屋着のまま歩く。この時間がこんなに肌寒いとは知らず俺は腕をさすりながら歩いた。

 人とすれ違う事もなく、時たまトラックが横を通らずきて行く。臭い排気ガスを吸いながら俺は一歩ずつ進んでいく。

 家に近づくほどに重くなる足取りのおかげでアパートには1時間どころか太陽が登り切るまで時間がかかってしまった。

 じわじわと蒸し暑くなり、気がつけば俺も汗を垂らしていた。水もろくに飲んでいなかったので意識が朦朧とし始めている。くらくらする世界の中で俺はゆっくりと二階へ続く階段を登り始め、天辺に着く前に声をかけられた。


「ようやく帰ってきたのかい」


 振り返るとアパート大家の婆さんが階段下から見上げていた。いつも綺麗な髪の毛をしているわけではなかったが、今日は一段とボサボサに見える。服装も部屋着そのもので今まさに家からすぐに出てきたように見えた。


「待ってたよ、あんたの部屋で自殺があったらしいじゃないか。あのいつも喧嘩してた女だろう?」


 荒々しい足音をたてながら大家は階段を登ってきた。

 俺達は喧嘩が絶えず近隣から苦情がよく来ていた。それは大家の耳にも勿論届いており、その件でよく思われていなかったのに更に部屋が事故物件になったのだ。怒るのも当然のことだ。


「さっさとクリーニング要請して欲しいんだ。汚れが落ちなくなったりしたらどうしてくれるんだい」


 俺は汚れという言葉にまた真っ赤に染まった浴槽を思い出した。底が見えないほど黒い赤。落ちたらそのまま戻って来れないような深い深い、紅の水溜り。

 俺はまた吐きそうになったので慌てて口元を手で覆った。もう二日酔いなんてとうに覚めたし、胃には何もないはずなのに気持ち悪さが喉を競り上がってくる。


 そんな様子に気づいていないのか大家は何か捲し立てながらこちらへ近づいてくる。声が頭の中で乱反射してさらに吐き気を増した。

 視界が揺らいで倒れそうになった時、誰かが俺の背中をそっと支えた。


「大家さん、少しの間そっとしておいてあげてくれませんか? 昨日今日で彼もだいぶ疲れてるはずです」


 少しハスキーな女性の声だった。背中を支える腕も男の太い腕ではなく、細く少し頼りない腕だったが耳に馴染む落ち着いた声は霞がかかった頭の中を晴らしていった。


「仲山さん」

「清掃については彼が落ち着いたらまた連絡させていただきますので、一度失礼してもよろしいですか?」


 大家は俺の隣に立つ女性に視線を向けている。少し威圧的に話す女性に大家は口籠もり、仲山さんが言うならと引き下がった。

 女性はご理解ありがとうございますと言うとゆっくりと俺を誘導し、俺の部屋の隣のドアの前で立ち止まると、鍵をかけていなかったのかそのままドアを開けた。


「お茶出すから座ってて」


 隣人はそう言って俺を部屋へ通した。同じ1Kの間取りだが彼女が捨てられない癖があるのでごちゃごちゃした俺達の部屋とは違い、すっきりして物が整然と納まっている部屋は広く見えた。

 俺は細長いキッチン付きの廊下を通り、部屋の真ん中に置かれたテーブルの椅子に腰掛けた。俺達の部屋にはソファーもあったので机は片付け可能な小さな物しか置かず、彼女はしきりに大きい机が欲しいとぼやいていた。


「カモミール、落ち着くから」


 仲山さんはテーブルにそう言いながら湯気の立つマグカップを置いた。仲山さんもふぅふぅと入れ立てのカモミールを冷ましながら口を窄めて啜っている。

 隣に住んでいたのはこんな人だったのか。何度かすれ違ってるはずだが正直な所覚えていなかった。

 俺は改めて女性を正面からまじまじと見据えた。首の辺りで切り揃えた黒いショートが似合い、中世的な雰囲気の美人な人だった。


「何?」


 視線がかち合い仲山さんは首を傾げると、耳にかけた髪の毛がさらさらと落ちる。


「もしかして救急車呼んでくれたの貴女ですか?」

「そっか、あの時君は混乱してたからあんまり覚えてないか」

「すいません」

「いいよ、隣人同士仲良くしていこう」


 背もたれにもたれかかり、少し疲れた顔をしている仲山さんは伸びをした。そうか、救急車を呼んだと言うことは彼女も現場に居たことになりきっと事情聴取があったはずだ。仲山さんもそれでくたびれているのだろう。


「そういえば君って学生? だよね?」


 はいと俺は頷く。


「ご両親にも連絡しなきゃね。やることいっぱいだ」


 俺ははっとしたが今はスマホも無いのでどうすることもできないので、俺は暇な手をカップへと向けた。

 きっと両親は驚くだろう。バイトはやっているとはいえ親からは仕送りをしてもらっており、まだまだ養っている“子供”の俺が、彼女と同棲していた挙句にその子が自殺したと聞いたらなんて答えるだろうか。まあ、そんなこと考えるのはもっと後でもいいか。


「あなたは、社会人ですか?」

「わかる? 大人の女って」


 仲山さんは笑ってカモミールを啜った。

 大家の対応もだいぶ大人っぽく見えたし、部屋にスーツが掛かってるのでそうだろうと思った。


「あの、ありがとうございました。さっきのことも、昨日のことも」


 仲山さんは俺の感謝に「どういたしまして」とだけ言った。


「あと、毎日、騒がしくしてすいませんでした」

「あはは、自覚はしてたのね」

「大家さんにもよく怒られてましたから」

「まあ、痴情のもつれはどのカップルにもあるってことだね」


 仲山さんはそれ以上深く聞いてはこなかった。

 きっと隣なのだから毎日聞こえてくる騒音を一番鬱陶しく感じていたであろうが、それでもここまで面倒見てくれる仲山さんはまるで仏の心を持っているかのようだ。


 俺はカモミールのカップに口をつけ、ゆっくり傾けた。ふわっと香る匂いはたしかに落ち着いてくる。


「病院、運ばれたんですけど、結局助かりませんでした」

「……そう」

「俺達、二年間付き合ってたんですよ」


 そこからはポロポロと言葉が溢れてきた。先程警官に話したことも、それ以外のことも知らず知らずのうちに話し出していた。

 仲山さんは相槌を打ち、たまに補足で聞き返すだけで余計な事を言わないので俺は話そうと思っていなかった事まで話し出した。


「最近はもう彼女のこと好きかどうかわからなくて……むしろいつ別れようかってことばかり考えてました」

「そうなの?」


 仲山さんはそこで意外そうな顔をした。あれだけ喧嘩していたのだから察しているかと思ったらどうやら違うらしい。


「てっきり君達は好き合ってるのかと思ってた」

「どういうことですか?」


 今度は俺が疑問を持つ番だった。

 俺がいなかったら彼女はもっと早くにこの世から去っていたであろう。おこがましいことかもしれないが、彼女を支えてきたのは俺だった。

 孤独な目で踞る彼女の側にいたのは俺だった。


 それで精神をすり減らしたのは俺の方だった。毎回の喧嘩で怒鳴り散らされる度に、その後まるで責め立てるように泣きながら謝られる度に、昔の感情は色褪せ、綺麗な記憶だってもう二度と思い出せないぐらいに俺は彼女といるのが辛くなっていた。


「いや、違うかな、好きってよりは依存なのかな。まあそうじゃなきゃ二年間も付き合ってらんないよ」

「それは、彼女が独りじゃダメだったから」

「うーん、それはどうかな」


 仲山さんは首を傾げる。


「女の子は案外逞しいもんだよ、君じゃなくても彼女はきっと大丈夫だった」

「……何も彼女のこと知らないくせに」

「そうだね、毎日隣で喧嘩してるの聞いてただけで、君達のことは何も知らなかったね、ごめん」


 穏やかな表情で仲山さんは温くなったカモミールを飲み干した。

 皮肉たっぷりの言葉に俺は沸々と込み上げてくる感情があったが、それを仲山さんにぶつけられず視線を逸らした。


 シンプルな部屋だった。

 そんな女性の部屋に入ることなんて無いのでよくわからないが、それにしても物が少ない気がした。唯一気になったのは空のコルクボードだった。穴がたくさん空いているのでたぶん元は何か貼ってあったのだとは思うが今は何もなくただ壁の真ん中を飾っている。

 何が貼ってあったのだろう。旅行写真だろうか、家族写真だろうか、それとも恋人との思い出だったのだろうか。

 何故、全部剥がしてしまったのだろう。

 それを問いかけるほど俺には勇気がない。


「さて、そろそろ落ち着いたかな? 一旦部屋に戻れそう?」

「あ、いや……」


 俺は言い淀んでしまった。

 たしかに落ち着きはしたがあの部屋に入るにはまだ足が竦んでしまう。あの部屋にもう誰もいないことが怖いのでは無く、逆にあの部屋にいつも通り彼女が待っているような気がしてどうしても家には戻りたくなかった。


「そう、なら君がいいなら私が部屋から必要な物取ってくるよ。スマホと財布かな? とりあえずは」

「でも」

「あーいいよいいよ、乗りかかった船だし。それにその調子だと家に帰って寝るなんて今日はできないだろうし、泊まる場所探す必要あるでしょ?」


 顔色が良く無いのを見て、仲山さんはそう言った。

 たしかに今、あの部屋に行くことすら躊躇われる中で寝れるわけがない。どこか泊まるのにその二つがなければ無理だ。スマホさえあれば竹田にでも連絡して泊めてもらえるはずだ。

 俺は「すいません」と言いつつ感謝を伝えると、仲山さんは手を振りながらいいのいいのと笑った。


 仲山さんに場所を教え、スマホやら財布やらを取りに行ってもらってる間に俺はカップの片付けをすることにした。律儀だなぁと言われたが、さすがにここまでして貰ったので何もせずにいるわけにもいかないだろう。

 俺はいつものようにスポンジを泡立てて、カップを洗い始める。


『食器洗うのは手伝ってたの?』


 同棲して間もない頃だった。

 彼女は後ろからひょこっと顔を出して訊ねた。

 たぶん料理が全くダメだったので、家事全般やったことないと思っていたのだろう。慣れた手つきで食器を洗う姿に彼女は目を丸くしていた。


『あー食べたら洗うがうちの家訓だったから』


 中学の時にコレを言ったらダサいと笑われた記憶があるが、小さい頃から疑問も持たずにやってきたことだったので自然と体が動いてしまうのだ。

 笑われるかなと彼女を振り返るが、よしよしと頭を撫でられて、気恥ずかしくなった俺はすぐ正面を向き直った。


『家族のこと大事?』

『まあ、人並みには』


 少し怒りっぽい母と多くを語らない父、我儘ばかりの妹でお互い愚痴をこぼしつつも御正月には必ず集まって年を越す一般的なごく普通の家庭だ。まあ、人並みに大事に思っている。


『反抗期ってきたの?』

『まあ、控えめなやつが』

『控えめって。どんなやつだったの?』


 興味津々に聞いてくる彼女に俺はしぶしぶ話す。


 あれは確か高校2年の事だ。

 宿題に嘆き、部活とエッチな事で頭いっぱいだったあの頃に俺は足を怪我した。陸上部だった俺は部活中の不注意で全治2ヶ月の骨折を負った。たった、それだけのことだか、俺にとってはそれはそれは大変なことだった。

 それまでは真面目に取り組んでいた部活への熱が急激に冷めると同時に、持っていたはずの目標や自信がめっきりなくなってしまった。

 そんな俺は骨折が直りまた走れるようになっても、部活に戻らず放課後はふらふらと遠回りして帰る日々が続いた。それは勉学にも影響し、みるみる成績は下がっていった。親にも一度注意されたが改善する気もなく親も諦めたのか何も言わなくなった。

 おかげで都心にあるとは言っても名前も聞いたことないような底辺の大学に通っている。


 これが俺の小さな反抗期だ。おかげで俺は気がついたらこんなに冴えないやつになってしまった。


『あははは、なんか可愛らしいね』


 案の定彼女はそう笑った。

 親を殴ったわけでも家出したわけでもない。ただ無気力になっただけの、くだらない反抗期。

 彼女はよく俺のことを可愛いと連呼した。俺はそれがとても嫌だったがあんまりにも楽しそうに目を細めるのでむすっとした顔でいつも黙ったままだった。


「大丈夫?」


 流しっぱなしの水を止めて仲山さんが心配そうな顔でこちらを覗いていた。


「すいません、ぼっとしてました。スマホと財布ありがとうございます」


 俺はそう言って二つを受け取ると早速竹田に連絡した。あいつはすぐに連絡を返すタイプなので、返信は5分と待たずに帰ってきた。


“わりぃ、今日ははなちゃんとデートだから無理”


 あいつらしい返答に誰だよと話を突っ込む気もなれなかった。俺は素っ気ない返事一つするとため息をついて他に宛を探すが中々いい返事がもらえなかった。

 これは仕方ない、最悪ネットカフェにでも泊まるかと半ば諦めていた。


「大丈夫?」

「友達がみんな今日都合悪いらしくて。でもダメなら一日ぐらいその辺のネカフェにでも泊まろうかなって思ってるんで大丈夫です」

「ふーん、泊まってく?」

「……え?」


 思わず何かの聞き間違いだと思って聞き返してしまった。


「ベッドは譲らないよ。床にうっすいマットレス敷く感じになるけど、それでいいなら泊めてあげる」

「いや、そうじゃなくて、流石に泊まるのは……」

「はは、もしかして見ず知らずの男女が一つ屋根の下でうんぬんとか気にしてるの? 大丈夫だよ、君はそんなことができるタイプじゃないから」


 たしかに俺は無闇矢鱈に手を出すタイプではないし、今の状況でそういう気持ちにもなれない。仲山さんもそれを理解して全く警戒していないようだが、仮にも俺は男であるし、そこまで信頼されるほどの仲でもない。これは面倒見のいいこの人なりの社交辞令の延長線上みたいなものだろう。


 断りを入れようと再度口を開いた時、ピコンと手の中のスマホが鳴る。見ると最後の友人からの返事で、やはり無理だと書かれていた。


「無理にとは言わないけど、ネカフェ代浮くよ」


 画面の返事を覗き込んで仲山さんは言った。


「それに、こういう時は独りでいない方がいいよ。色々考えちゃうから」


 仲山さんが一瞬寂しそうな顔をしたのを俺は見逃さなかった。すぐに顔を逸らして、奥の部屋へと入って行き、押し入れからごそごそとマットレスを取り出しているのが見えた。


「仲山さんは……」


 振り返った仲山さんの笑顔を見て、こういう経験あるんですかと言う言葉を俺は飲み込んだ。

 仲山さんの表情にふとした瞬間に彼女の物憂げな横顔を思い出した。この顔を見た時の正解がどうしても俺にはわからなかった。どうしたのと聞いても多くを語ろうとしないので次第に聞くことは無くなったが、本当はもっと親身になって聞いてあげるべきだったのかもしれない。今更、どうすることもできないのだが。


「さ、まずは寝た方がいいよ、ひっどい顔してるから。シャワー入りたかったら適当に使っていいし、疲れてたらもうここで寝てていいよ。

 私は一回買い物行ってくるから」


 俺は続きの言葉をなんてかけるべきか迷っている間に仲山さんは俺の寝床の準備をし終わった。と言ってもマットレスにシーツを簡単につけた安易なものだったがいつもソファーで寝ている俺にとっては充分なものだった。


 それを見たら急激な眠気に襲われた。昨日から全く眠れておらず、その疲れがどっと体に降ってきた。


「そしたら、お言葉に甘えていいですか」

「もちのろんよ」


 バシバシとマットを叩き、豪快な笑顔を浮かべる仲山さんを横目に俺はマットレスに横たわる。

 目を瞑るとエアコンがガタガタと鳴る音と仲山さんが準備しながら鼻歌を歌っているのが聞こえてくる。

 彼女もよく独りで歌っていたが、それよりもだいぶ音程を外していてそれが返って心を和ませた。


 そう思ったのも束の間、すぐに俺は深い眠りについた。

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