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 そこから先はあっという間だった。

 医者を名乗る男から彼女の状態について話をされ、その後は警察を名乗る男達から今度は彼女を発見した時の様子について話を聞かれた。


 何度も繰り返し説明しているうちに昨日最期に見かけた時と同じ安らかな顔で目を閉じる彼女、まるで有名な彫刻家が作った画術作品のような綺麗なまま動かなくなった彼女を思い返した。


「どうやら、睡眠薬を飲んでいたようなのですがこれは彼女のものですか?」


 丁寧に尋ねてくる警察官はまだ若そうな人だった。年もそんなに変わらないように見えたがどうなんだろう。


「はい。不眠症で。病院で処方されてました」

「不眠症ということは何かストレスを抱えていたんですか?」


 警察官の質問に答えず俺はしばらく黙って目の前に置かれた紙コップのコーヒーを見つめた。病院の自販機で入れてくれた黒い液体はずっと前から冷え切って正気のない顔で呆然としている男の顔を写していた。


「昔、自殺しようとしてたことがあるんですよ」


 警察官は何かをメモするが、口をはさむことはなくただ俺の言葉の続きを待った。


 あれは忘れもしない二年前の夏の日だった。

 夕方の通り雨が上がるのを俺は塾の自習室で勉強しながら待っていた。結構な夜遅くまで自習室自体は開いているのだがそんな長く集中力が続かないので俺はいつも夕方ぐらいで切り上げて家に帰っていた。

 高校三年生ということで受験期真っ只中の夏休みをこうして勉強に費やしている。勉強は嫌いだったがどこでもいいから大学に行けという親からのプレッシャーに俺は抗えずにこうしてしぶしぶ勉強をしている。国語がてんでダメで数学のほうが好きだったので、特に何がしたいということもないが志望校は理系にした。担任はこれを聞くと複雑そうな顔をするが進学することに対して特に文句ひとつ言わなかった。

 一区切りついて窓の外を見るとちょうど雨は上がっていた。これ幸いとリュックに勉強道具をつめて自習室を後にする。部屋を出て伸びをしたときだ。


 目の前を黒い髪をなびかせて彼女は颯爽と歩いてきた。名前も知らない彼女に俺は視線を奪われる。

 名前は知らないが彼女の事は知っている。よく自習室で見かける女の子だ。有名なお嬢様学校の制服に身を包み、凛としたその姿は塾の中でもよく目立っている。塾に友達がいない俺にはそれ以上彼女の事を知る術はない。ただ綺麗な子がいる、それぐらいの認識しかなかった。


 後をついてくわけじゃないが、俺も彼女の後ろを追う形で階段に向かう。彼女は急に立ち止まると、階段の入り口で壁に寄りかかりスマホを弄り始めた。

 俺はその横を通り下の階へと降りる。理由もないが彼女の横を通り過ぎる時に少しだけ心臓が高鳴るのを感じた。だが、何も起こらず俺は塾の入り口から外に出た。


 もう辺りは暗くなり、道に光が灯る。夏の独特の土の匂いが強まる雨上がりの空気の中、俺は泣き止んだ空を何気なしに見上げた。


『え?』


 思わずそんな声が出てしまった。

 塾の屋上に誰かがいる、ように見えた。真っ暗な上に7階上の屋上なんてぼやけてよく見えないが確かに人がいるような気配がした。

 そしてその人物もこちらに気づいた。いや、そう俺が思い込んでいるだけなのだが、二人はたしかに目が合った気がしたのだ。


 さっきの光景をふと思い出す。

 綺麗な女の子はわざわざ屋上は続く階段の下で立ち止まった。何故、あんな不自然なところで彼女はスマホを弄り出したのだろう。

 気がついたら俺は凄い勢いで階段を駆け上がっていた。尋常じゃない俺の様子にすれ違う人はみな訝しむがそんなこと気にせずに俺は屋上へと脚を必死に動かす。


 屋上のドアの前で俺は一度息をつく。見間違いであって欲しい。駆け登る時に女の子の姿は見えなかった。どうか、このままドアに鍵かけられていて杞憂だったと一息つけますように。

 そんな俺の願いも虚しくゆっくりとドアは抵抗なく開いた。


 夏の夜空の空気を肺いっぱいに溜め込みながら俺は屋上へと歩き出す。


『やっぱり、君だったんだ』


 突然声をかけられて俺は体を飛び上がらせた。

 声をする方へ振り返るとそこには先程見かけた女の子がフェンスの向こう側に立ち、こちらを見ていた。

 屋上のフェンスの手前には綺麗にロファーが並べられており、その隣には学校の紋章が入った鞄が置かれていた。


『な、何してるの?』


 ひりつく喉を我慢して俺はそう聞いた。ぜいぜいと呼吸を乱してる俺に彼女はふと笑いかけた。


『見ればわかるでしょ。飛び降り自殺』

『な、なんでそんなこと……』


 必死に彼女を引き留める方法を考えるが、頭に酸素が届かずありきたりな言葉しか口から出なかった。

 そんな俺を彼女は愉快そうに見つめ返す。


『いろいろあったから、嫌になっちゃったの。わかってくれる?』

『わ、わかる! わかるけど!』


 俺はゆっくりと一歩ずつ彼女に近づく。

 それを見た彼女は一歩後ろへ、屋上の縁へと一歩下がった。


『わかってくれるなら止めないで欲しいなぁ。私早く飛び降りなきゃいけないの。そもそも何で君は見ず知らずの私の自殺を止めようとするの? もしかして』


 一歩も進めず、かと言ってこの場を去るわけにもいかず間抜けな顔で引き留めようとする俺に彼女はまた声をかける。


『君は私が死んだら悲しんでくれる?』


 名前も知らない彼女は夜の中に落ちていきそうなほど儚く呟いた。俺はその言葉に首が引きちぎれるほど激しく頷いた。頭空っぽの俺にはもっといい言葉で説得ができる気がしなかった。


『ふふ、そっかぁ。じゃあ辞めよっかな』


 彼女は振り返って街を見下ろす。風に靡く髪がサラサラと揺れ、横顔に夜の光が反射してとても神秘的だった。

 俺は再びゆっくりと彼女に近づいた。きっとその事に彼女も気づいてるだろうが彼女は背を向けてそのまま動こうとしなかった。


『ねえ、手を貸して』


 ようやくフェンスの前に辿り着くと同時に彼女はそう言った。


『飛び降りるのやめたらやめたで、ここから足動かなくなっちゃった』


 下の街を魅入るように見ている彼女の足は確かに震えていた。俺はフェンスをよじ登り、上から彼女に向け手を差し出した。


『捕まって』


 それでも彼女は下を見続ける。早くこっちを見て手を取って欲しい。必死に手を伸ばすが俺独りが手を伸ばしたところで彼女には届かない。

 嫌な予感がする。手汗でフェンスを掴む手も滑り落ちそうだ。


 突然強い風が吹いた。ゴウと音を立てて吹く風は二人の体を煽り、そして彼女の背中を押した。

 落ちる瞬間彼女振り返り、少し驚いた表情をしてこちらに手を伸ばした。悲鳴もあげる暇もなく俺はフェンスから飛び降りてその彼女の腕を引き寄せ、勢いで彼女は俺の腕の中に収まりそのまま二人してフェンスに倒れ込んだ。


 驚きのあまり呼吸を乱している俺と、何がおかしいのか笑い出す彼女。まるで楽しいアトラクションにでも乗った後のように目を輝かせていた。

 冷や汗で身体中が気持ち悪さと酷い脱力感に、俺は彼女に質問する気も起きずそのまましばらく座っていた。


『ありがとう。名前も知らない君』


 ひとしきり笑った後彼女はそう言った。

 ここでようやく彼女の顔がすごく近いところにあるのに気がつき、俺は慌てて立ち上がった。

 顔が焼けるように熱い。男とは違う柔らかさと甘い匂いに今度は違う意味で心臓が痛いほど打ち鳴らされ、緊張で体が強張る。


『ど、どういたしまして』


 彼女の顔も見れずに声を裏返してそう返す俺はとても不恰好だろう。なんとかカッコつけたいがどうすればいいかわからない。情けないなと自己嫌悪していると彼女はフェンスを登り始め、今度は俺に手を差し出した。


『ほら、行こう』


 俺は手汗をズボンで軽く拭いて彼女の手を掴んだ。こうして俺は彼女の一度目の自殺は思いとどまらせることができた。


 だが、それは間違いだったのかもしれない。


 その後、俺と彼女は仲良くなり順調に付き合う事になった。まるで川が重力に従って下に流れていくしかないように、俺達は当然付き合うことになった。

 学生のくせに「付き合おう」の一言もなく、ただ二人で毎日塾で待ち合わせして帰る時にどこかへ寄り道がてらデートしに行く。

 受験生なので遠出することはなかったが、俺は満足はしていたし彼女も近場が好きと言って不満なところはないように見えた。


 好きだった。初めて出来た彼女に浮かれていたし、彼女を幸せにしたいと考えたりもした。俺は不純な気持ちで付き合っていたわけではなく、本気で好きだと思った。

 恋愛などとは縁のない人生だったが誰かが言うように本当に世界が輝いて見えた。彼女もきっとそうであってほしいと俺はたまに儚げな顔をする少女に願わずにはいられなかった。


 彼女が二回目の自殺を図ろうとしたのは受験後の大学入学前だった。


 進学する者も就職した者も、未来が希望に溢れている者もそうでない者もその限りあるひと時を楽しんでいた。

 俺も彼女と初めての遠出を約束していた。

 彼女との旅行に俺は小学生みたいに内心はしゃいでいた。何度も旅行中の行程をシュミレーションし、その度に思わず頬が緩んでいた。家族に気味悪がられたがそんなのどうだっていいことだった。


 当日の待ち合わせに俺は早めに着いた。待ち合わせは行っていた塾のある駅でここから乗り継いで目的地へ向かう。

 地元駅よりも人が多く行き交う中、俺はそわそわとしながら彼女を待ち続けた。やがて待ち合わせ時間になりそれが過ぎ、そして1時間経った。

 俺は心配になり彼女に連絡を取った。やはり返事は返ってこない。さらに数時間が過ぎどうしたものかと途方に暮れていると、彼女の方から電話がかかってきた。

 開口一番に『どうした?』と尋ねると、それは彼女ではなく彼女の母親を名乗る女からの電話だった。


 落ち着いた声で彼女の母親はこう言った。

 彼女は多量の薬を飲み意識不明で病院にいる。幸い、家族が彼女が起きないことに気がつくのが早く病院で胃の洗浄も終わり、命に別状はないそうだ。

 彼女が今日旅行へ行くのも知っていたし、いくつもの連絡が来ていたのでわざわざ電話してくれたそうだ。


『なんで……?』


 俺は思わず声に出していた。だが、そう思うのは母親だってそうだろう。

 しかし言葉が勝手に出てくる。あまりにも冷静な母親、まるで何度も同じ目にあっているかのようだ。


『前にも、同じことが、あったんですか?』

『……あなたは、今、あの子と付き合っているの?』


 母親は俺の問いに答えずそう聞いてきた。俺は電話越しに頷き、掠れた声ではいと答えた。


『そう、ありがとう』


 母親はそれだけ言うと、彼女がいる病院の名前を告げ電話を終えた。


 俺はしばらく呆然と行き交う人々を眺めていたが、病院へ向かう電車に乗ろうと足を動かした。

 足取りが重い。頭の中であの夏の夜の日が繰り返される。あの日の匂いが、あの日の温度が、あの日の消えそうな横顔が、何度も何度も何度も。


 彼女はなぜ自殺しようとするのだろう。


 俺は彼女を幸せにしてあげられないのだろうか。

 俺では彼女の支えにはなれないのだろうか。

 帰り道に笑っていた彼女は嘘だったのだろうか。

 楽しそうにはしゃぐ彼女は同じ気持ちではなかったのだろうか。

 わからない。何がいけなかったのだろう。

 夢でも見ているような現実味のない世界で俺は病院に辿り着いた。


『旅行、いけなくなっちゃった。ごめんね』


 病室では目が覚め、いつも通り明るく冗談が好きな彼女がベッドで横たわっていた。

 いつか埋め合わせするからと笑う彼女。

 普段と変わらない彼女の手を握る。いつもよりも冷たい指先に俺の震えが伝わったのか、彼女は少し困った顔をしてごめんねとまた呟いた。


「それから退院して、しばらくは普通だったんですけどその後も何度か自殺しようとしてました」


 俺はそこまで話し合えるとおかれていたコーヒーにようやく口をつけた。苦い味が口内に広がる。いつもはミルクをいれて飲んでいるが、ブラックコーヒーも別に飲めない訳じゃない。

 そういえば彼女はブラックが嫌いで沢山の砂糖を入れていた。甘党でもないのに、コーヒーだけはすごく甘くしていた。


「詳しい回数は覚えていますか?」


 警官の問いに俺は視線を右上に向けて考え込む。

 病院へ運ばれたのはその一度ぐらいだった。あとは大学生になり俺と同棲するようになってからはすぐに彼女の異変に気がつき事前に阻止していた。

 それで喧嘩することもあれば、彼女が泣き出して一晩中騒ぎ立てることもあったがそれでも病院沙汰になるよりはマシだと思った。

 回数なんて覚えていない。包丁をじっと見ているだけの時もあればデート中にふらっと高い建物の縁へ近づいて行くことだってある。全部が全部、自殺するためとは思わないが彼女はいつだって不安定だった。


 俺が静かに首を振ると、そうですかと警官はまたメモを取った。


 ふと廊下が騒がしいことに気がついた。

 病院の小さな休憩室のようなところにいるのだが、開け放たれた扉の外から怒鳴り声が聞こえてくる。段々と近づいてくるようだ。


「お前か!!」


 部屋にそう言いながら入ってきたのは少し頭の寂しくなった中肉中背の眼鏡の男だった。身長は高めで180ぐらいはあるのではないだろうか。

 青筋を浮かべ、目が真っ赤に腫れ上がった男は真っ直ぐと俺の方へズカズカと歩き出すと、歩みを止めることなくそのまま拳で俺の顔を殴った。


 突然の事でガードも出来ずに椅子と一緒に床に叩きつけられ、頭を打った。

 チカチカする視界が再び揺れ、目の前に男の顔が現れる。胸ぐらを掴まれ、そしてまた拳を握るのが見えた。


「お、落ち着いてください!」


 警官が男を取り押さえ、俺から引き剥がす。男の後から先程見かけた医者が入ってきて、その後に警備員も続く。


「ぶさけんな!! 娘はこいつに殺されたんだ!」


 男は唾を飛ばしながら俺を睨みつける。暴れながら叫ぶ姿に俺は既視感があった。


「その検証はこちらでするので、落ち着いて下さい!」


 警官はそう男に言うが全く耳に入っていないようだった。


「こんなやつのために娘はレベルの低い大学に入った挙句に不幸になって死んだんだ! 家から出ずに国立行ってれば娘は死なずに済んだんだ!! お前だ! お前のせいだ!!」


 男はそう叫びながら男数名がかりで部屋から連れて行かれた。


 黙ってそれを眺めていた俺は男の言葉がナイフのように胸に刺さった。

 彼女の人生を俺はもしかして潰してしまったのだろうか。彼女の希望になれなかった俺は、彼女を殺してしまったと言えてしまうのではないだろうか。

 いや、そんなことはない。俺は精一杯彼女を支えてきたじゃないか。俺のせいではない、はずた。


「氷持ってきますね」


 嵐のような男が立ち去った後、どこから来たのか看護師が俺の頬を見てそう言った。

 そう言われて俺はようやく頬の痛みを感じた。少し触るとピリッとした痛みが顔に広がりそれに顔を歪めるとさらに痛みが強くなった。


 すぐに持ってきてくれた氷嚢を頬に当て、俺は部屋の椅子に座り直した。

 警官は「ここで待っていてください」と一度席を離れた。今ここに居るのは俺だけだ。

 窓の外は気がついたらもう暗かった。

 窓には明かりに引き寄せられた虫たちと、情けない顔でそれを眺める惨めな男がいるだけだった。

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