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序章


 俺は真夏の夜が大嫌いだ。

 まとわりつく生温い風、耳に響く虫の声、鼻につく土混じりの独特な夜の匂い。

 夏自体は好きなのだが、どうも夜出歩くのは昔から好きではなかった。昼間の賑やかさをどこかに忘れてしまったような静かな夜は特にそうだ。


 俺はエアコンの効いたコンビニから出て、いつまで経っても暑さの抜け切らない夏の夜へと戻っていく。

 さっきまでサークルの前期納会に参加していて、馬鹿な飲み方をしていたからこの暑さが気分の悪さを引き立てる。コンビニで買った酔い覚ましの数百円のアイス片手に重い足取りで帰路へと着いた。


 深夜2時。

 いくら東京と言えども、都心から離れた比較的人の少ないこの街では人っ子一人見かけなかった。いたとしても、帰る家のないニートか俺と同じような酔っ払いだけだ。

 手に持っているアイスがダラダラと溶け始める中、俺はさっきの飲み会で言われた言葉を思い出す。


『おめぇはとんだ幸せもんだなぁ!』


 グラスを乱暴に叩きつけながら向いに座る男は舌足らずにそう言った。

 こいつは竹田雅之(たけだ まさゆき)。竹田は文学部で俺は理学部なのでほぼ一緒の授業になることはないが気が合うので、サークルの行事以外でもよく飲みに行ったりしている。

 髪の毛を金に染めているが、根本から黒髪が見えており眉毛も自の黒色を貫き通している。本人曰くこのスタイルがズボラ風オシャレなんだそうだ。


『俺だってかわいー彼女と一緒にくらしてぇよ!』


 そういうと竹田の隣に座っていた目のくりっとした後輩が身を乗り出してきた。


『え! 先輩、彼女さんと同棲してるんですか?』

『おうよ! しかも高校の時にミスコン出るくらいの美人と付き合ってんだぜ? こいつ!』


 いけ好かねぇよと竹田はまた酒を煽った。

 後輩は面白い話題だと目をぎらつかせながら体をこちらに向けて更に話を、とねだってきた。


『写真とかないんですか?』


 ここで見せないのも変なので俺はスマホの写真フォルダーから適当な写真を見せた。

 たしかこの写真は最近デートで行った水族館で撮ったものだ。待ち受けにしてねと彼女から送られたが面倒で変えていなかった。


 俺が微妙な顔で撮られてる中、相変わらず完璧な笑顔で写真に写る彼女を見て、すごい綺麗な方ですねと後輩は楽しそうだ。

 一方で竹田は更に拗ねた顔をした。そんなに話がつまらないなら他のところへ行けばいいのにやつはずっとここに居座った。


『付き合ってたしか二年だったか?』

『まあ、だいたい』


 正確にはまだ二年経っていないがまあ大体それぐらいだ。同じ予備校で知り合って、三年の夏休みに付き合い、同じ大学を受けて彼女も心理学部に無事受かった。サークルも最初は同じところに入っていたが彼女は合わなかったのか次第に来なくなり、今では数に数えられていない。


『いいよなぁ、お前の人生円満で! どこかに俺を慰めてくれる可愛い女の子いないかなぁ』


 そう言いながら横に座る後輩を露骨に見るが、それに気がついた後輩はまるで虫を見るような目を一瞬したのちに『お手洗い行ってきます』と席を外した。

 きっと彼女がこの席に戻ってくることはないだろう。


『今日も家で待ってくれてるんだろ? いいよなぁー独りじゃないって』


 俺は曖昧な相槌を打ちながら酒を流し込む。

 俺と彼女は実家から通うには大学が遠かったために二人とも一人暮らしを始めた。しかし、それも最初のうちだけで気がついたら彼女は俺の家にほぼ毎日いた。学校は彼女の家の方が近いが部屋の広さは俺の家の方が広いから二人で暮らすには確かにこちらの方が都合がいい。

 生活に必要な物は大抵こちらに揃っているので彼女は自分の家に戻るのは、実家からの仕送りを受け取る時ぐらいだ。


 家事なんてほとんどしてこなかったので料理や洗濯をこなしてくれるところも、竹田が言うように家に帰って一人でないことに心細さを感じずに済んでいるところも、感謝はしている。してはのだが、それでも俺は家に帰るのを渋っていた。

 納会の二次会にも参加し、竹田に煽られるままに酒を飲む。盛り上がる場の雰囲気に頭がぼっとして何も考えられなくなる。何も考えたくない俺は更に酒を飲む。

 そうこうしているうちに終電の時間はとうに過ぎ、終電を無くした者は徹夜のために三次会へと、帰れる者は暗い夜道を陽気に歩き始めた。


 三次会へ参加しようとしたら竹田に『早く彼女が待つ家に帰りやがれ、しっしっ』と手を振られ、俺は仕方なく歩き出した。

 俺の家は飲んでた駅の隣駅にある。地元では隣駅なんてとてもじゃないが歩けなかったが都会の隣駅はとんでもなく近い。とは言うものの、ほどほどに都心から離れた所なので歩いて20分ぐらいかかる。女子なら深夜にこの道を変えるのは危ないだろうが、野郎の俺ならまあ大丈夫だろう。


 こうして俺は寄り道をしつつ、夏の夜に独りで帰っている。なんとか溶けたアイスが手にかからないように努力をするが、急いで食べる気にもなれずに手がベタベタになっていった。

 酒は強い方だったのか俺はどんなに飲んでも酔い潰れることはなく、今だってだらだらと歩いているうちに頭が段々と回り始め、その代わりに気持ち悪さが胃の底から込み上げてきた。


 彼女は飲み会が大嫌いだ。

 俺が飲み会に参加するとあからさまに不機嫌になる。付き合いだからと毎回説得するが、快く頷くことは決してなかった。最初こそなるべく早く帰れるように一次会までの参加にしていたが、どれだけ早く帰ろうが彼女は不機嫌に家で待っていた。

 ある日、帰宅後にちくちくと嫌味を言う彼女に俺がうんざりして少しだけ反論すると彼女は激昂し机の上に置かれていた花瓶を投げつけてきた。

 箱根に旅行しに行った時、一目惚れしたと言ってせがまれた花瓶だ。綺麗な青を基調としたガラスで作られていて値段も可愛くなかったが、目を潤ませて上目遣いでねだる彼女に俺は負けてしまった。

 間一髪で避けると花瓶は壁に叩きつけられた。青色の破片が床に飛び散り、中の水と枯れかけた花がそこから溢れ出す。


 彼女はただ泣いた。床に蹲り、手で目を覆い、口をパクパクと開けながら泣いた。彼女は泣く時に声を出さない。近所迷惑を気にしているわけではなく、それが彼女の泣き方なのだ。唇から漏れる息遣いはとても辛そうで俺の中のさっきまであった感情は鎮火していった。

 花瓶の事など無視して俺は彼女をそっと抱きしめると彼女はそれに応じて抱きついてくる。俺はごめんと謝罪の言葉を何度も呟きながら彼女の背中をさすった。泣き止まない彼女を見るのは何度目だろうか。その度に俺はどうしようもない無力感に苛まされる。彼女の肩の震えがゆっくりと収まる頃に彼女はようやく声を取り戻した。


『ごめんね』


 いつも泣く度に彼女はそう謝る。

 いつだって彼女は俺にしがみつきながら、泣き終わった最初にそう言うのだ。

 何に謝ってるのだろう、花瓶のことではないのは確かだ。わかってる、彼女が謝るのはそんな下らないことではない。

 俺は大丈夫だよと返す。他にどう返事をすればいいのか、俺は知らない。どう返すのが正解なのか俺にはわからない。

 ただこれが俺と彼女の喧嘩の終わり方なのだ。飲み会帰りだけではない、他の些細な事での言い争い、例えば皿を片付けなかったやレポートが忙しくて彼女に構えなかった等でも、結局彼女が泣き始めて俺が先に謝罪して慰める。ほぼ毎日のように繰り返さられるコレに俺は最近、呆れと諦めを覚えた。


「もう、ダメなのかもしれないな」


 思わず声に出してしまった。

 周りには誰もいない。真夜中の静かさに俺の言葉は虚しく溶けていった。


 昔の熱はもう冷めていた。

 義務感で一緒にいるような毎日に息苦しさを感じていた。

 そんな俺の感情に気付いているのか、喧嘩は更に激しい物になっていき毎日のように彼女は綺麗な顔を歪ませて物を投げつけてくる。

 もうどんな顔で笑って、何が好きだったのか、なぜ二人でいるのかも思い出せない。

 いつ切り出そうかと考えているうちにまた夏が来てしまった。ドロドロに溶けたアイスはただ気持ち悪く手にこびりついて俺はどうしようもなく途方に暮れた。


 そうこうしているうちに俺はようやくアパートに辿り着いた。

 築40年近いアパートだが、数年前に改装したために比較的綺麗に見える。しかし所詮安い物件で階段を上がれば音が聞こえるし隣の部屋の声なんてダダ漏れだ。毎日のように俺達が喧嘩しているのなんてアパート中が知っているだろう。

 俺は忍足で二階へと登り、一番端の部屋の前へと辿り着いた。廊下の電気が頼りなく手元を照らしてくれる中で俺は鍵を開けて扉を開いた。


 中は案の定、電気がついていた。

 彼女はどんなに遅く帰ってこようが俺を待っている。例え、机の上で寝てしまっていても俺の帰宅音に目を覚まし詰め寄ってくる。

 俺は覚悟を決めて部屋の中へと足を踏み入れた。

 エアコンは極力付けずにしているので、部屋の中は外と同じで蒸し暑かった。


「おかえり」


 キッチン付きの廊下の奥から彼女が顔を出す。

 触り心地の良さそうなもこもこの寝巻きにさらさらと動く度に流れる黒い髪。メイクをしていなくても長い睫毛と赤い唇はいつ見ても完璧だった。


「……ただいま」


 今日は何が飛んでくるのだろうと、俺はやや緊張気味に返事をした。一昨日はついに俺が毎日やっていたゲーム機を投げられ、今修理に出しているがしばらくは戻ってこないだろう。

 俺は荷物を下ろして手のベタベタを取るために洗面所へと向かう。いつもならこのタイミングで彼女は何かしら声をかけてくるのだが今日は無言でこちらの背中を眺めるだけだった。


「もう夜遅いから寝た方がいいよ」


 耐えられなくなった俺はそう声をかけた。タオルで手を拭き鏡越しに彼女を見る。

 彼女はどこかぼっとした様子で鏡の中の俺を見つめ返した。壁に寄りかかり気怠げな視線を送る彼女は竹田なら鼻息を荒くしそうなほど色っぽかった。しかし、今の俺にはそれはただ嵐の前の静けさの様に不気味なだけだった。


「ねえ」


 ようやく彼女が口を開く。


「今日の飲み会楽しかった?」


 どんな意図で聞いてきたのだろう。

 俺はじっと鏡の中の彼女を見つめた。表情一つ変えない彼女は同じように視線を逸らさずにこちらを見返した。

 しばらくの沈黙が続いた後、視線を先に逸らしたのは俺だった。


「……いや、そんなに」


 こんな時間に帰ってきてるのだから見え透いた嘘だ。だが、楽しかったと言っても彼女は怒り出すに決まっている。八方塞がりな質問に俺はそう返すしかなかった。

 彼女はそう、とだけ答えた。

 俺は鏡を見る勇気がなく、彼女の方を振り返ると「シャワー浴びるから先寝てて」と言って追い出した。

 抵抗することもなく彼女は言われるがままに背中を押されて洗面所から出ていく。俺はすぐさまドアを閉めた。


「おやすみ」


 扉越しに彼女はそう言うと、廊下を遠ざかっていく音が聞こえた。

 珍しいこともあるもんだ。俺は服を乱雑に洗濯機に入れながら安堵のため息をついた。いつもこれぐらい怒らないでいてくれたら楽なのにな。いや、でも毎回これだと気味が悪いかもしれない。

 そう思ってしまうほどに俺の心はくたびれていた。


 シャワーを浴びて部屋に戻ると彼女はベッドの上で規則正しい寝息を立てていた。静かに眠る彼女はまるで彫刻のように美しくて普段からこうであればいいのにと思ってしまった。

 馬鹿らしいと俺は頭をふりつつ、ソファーの上に寝転がる。寝るためようのソファーではないが1人用のベッドに二人無理矢理入り込むぐらいならこちらで寝るほうが広々としているからマシだ。それにもう慣れているので今更気にしない。

 だいぶ酒は抜けたが夜も遅いし、睡魔はすぐに襲ってきた。明日は日曜で講義もなく、バイトも入れていなかったのでゆっくり休める。本当なら昼過ぎまで寝ていたいのだが彼女がいつまで寝てるのとまた怒るだろうから程々の時間に起きなければならない。

 たまには独りで思う存分寝たいものだと思った所で意識は途切れた。夢も見ないような深い眠りだった。

 またいつものように彼女の声で起きるだろうと思っていたが、違った。俺は周りの家の生活音でようやく意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。


 カーテンは締め切っており部屋は暗いまま。カーテンから漏れる光は太陽がもう完全に登り切ったことを示してる。

 俺は近くに置いてあったスマホを手に取り時間を確認する。14:42。だいぶよく眠っていた。

 俺は寝ぼけ眼でベッドの方を見た。

 綺麗に畳まれた布団が置かれていて彼女の姿はどこにも見当たらない。

 出掛けたのだろうか? 何も言わずに行くなんて珍しい。とにかく居ないものは居ないのだ。俺は欠伸を一つして起き上がると顔を洗いに洗面所に向かった。


 そこで一つの異変に気がつく。

 浴室の電気が付いているのだ。昨日俺が出た時は確かに消したはずだ。おかしいなと思い、俺は何も考えずにドアを開けた。


 そこには、彼女がいた。

 昨日見かけた寝巻きのまま、ぐったりとして座り込む彼女がいた。


「あ」


 二日酔いでモヤがかかる頭の中がすっと冴えていく。

 俺は慌てて彼女に駆け寄り、ぐいっと体を揺さぶる。


 彼女の左手首は水が張られた湯船の中に浸かっていた。湯船の水は彼女の切られた手首から出た血によって真っ赤に染まり底が見えなかった。

 右手にはカッターナイフが握られていてそこにも彼女の血が付いている。

 力の全く入らない彼女は揺さぶらるがまま床に崩れ落ちた。


 そこからはよく覚えていない。

 俺が半狂乱になって叫んだことで隣の部屋の人が異変に気づき、その人が救急車を呼んでくれたらしい。

 気がついたら、病院の椅子で貧乏揺すりをしながら座っていた。頭の中が混沌としていて気持ち悪い、ここまで来るまでのどこかで吐いた記憶があるがそれでもまた先程の光景が過ぎって吐き出しそうになる。


「ーーさんと同棲していたのはあなたですか?」


 誰だろうか。

 気がついたら白衣の男が歩み寄り、こちらに向かって話しかけていた。最後の言葉だけしか聞き取れなかったが俺はなんとか頷く。


「残念ですがーー」


 そこからまたなんて言われたのかわからない。

 残念ですが、の一言が頭の中を消化しきれずに繰り返し反芻する。心臓が止まってしまったかのように息が苦しい。冷え切った指先で俺は口元を抑えまた、その場に胃の中のものをまた吐き出してしまった。


 彼女は死んだ。


 真夏の夜の中、彼女は手首を切って自殺した。

そんなに長くならない予定です。


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