2 なんで僕は
突然ふと我に返った。
今なんで僕はここにいるんだろう。そんなことを考えていたのだ。
たまに無意識にそう考えることがあり、なんだかふわふわした気持ちになることがある。
目の前にはたくさんのスイッチやツマミ、フェーダー、明るい画面が並んだまるで宇宙船の操縦席のような大きなミキサーがある。
もう少し遠くに目線をやると、絵画の額縁のような綺麗なステージの中にピカピカと光る照明機材と、動き回る俳優学科の学生たちがいた。
そうだった、専門学校の活動の一環のミュージカル制作でとある市民会館の大ホールに来ていたのだった。今はそのミュージカルのリハーサル中。
僕がいるのは客席後方にあるミキサーなどの音響機材のある場所、PAの心臓部、「FOH」と呼ばれているところだ。
そうやって自分のおかれている状況をゆっくりと思い出していたその時、ステージの両サイドに置かれたスピーカーから大きな声が出た。
「じゃあ第二幕の十四場から!」
僕はその声を聞いた瞬間、慌てて手元にあったシワだらけの台本をパラパラとめくり、その第二幕の十四場のページを探しつつ、ミュージカルの曲の音源が入ったパソコンのカーソルを動かす。
そしてミキサーのフェーダーに指を置く。
「ちょっと中田、大丈夫?間違った場面で曲流さないでよ?あの演出の先生怒らせると怖いんだから。」
準備が終わり僕が、よし、いつでも来い、と構えていると隣にいた小柄な女子が話しかけてきた。
僕と同じ学科に所属していて、このミュージカルの同じ音響チームの宮田だった。
「今すごく集中してるから話しかけないで、宮田の時にも話しかけるよ?」
「はいはい、すみませーん」
彼女は本当に謝っているのか?宮田の番になったら、話しかけてやろうと、僕は心に決めた。
少しすると、客席が暗くなり、ステージの照明に色が付き、様々な人が前方に注目する。
そして、演出の先生が「よーい、はい!」と叫ぶと役者たちは自分の言葉かのようにセリフを次々と口に出し始めた。
役者ってすごいな。まだ学生とはいえ、あそこまで役に入り込めるなんて、いつも学校で会うやつらが別人のようだ。
などと思いながら、手元の台本を目で追っていく。
芝居は台本通り進んで行く。もう少しで僕が音楽を流す場面だ。
主人公のあのセリフ、あれをきっかけに音楽を流す。
ドキドキする。緊張はしているが、別に悪い意味ではない。
この音楽を流す直前のこの独特な感じ、何度やっても慣れない。でも嫌いじゃない。
そしてついに、例のセリフが出た。
それを聞いた僕は、この場面に適したタイミングを見計らって心を込めてパソコンのエンターキーを押した。
するとスピーカーからはストリングス調の静かで寂しげな音楽が流れた。
気持ちいいタイミングだ。自分の中では良いタイミングで音が出せたと思う。この瞬間がたまらない。
なんだか中毒者の気持ちが少し理解できたような気がした。
まあ、演出の先生がこのタイミングをどう思っているかは知らないが。
曲も終盤に差し掛かった頃、
「そうじゃないでしょ!」
と生声で叫ぶ声が聞こえた。
大音量で音楽が流れているので最初は何て言ってるのかわからなかったがようやく聞き取れた。
頼むからマイクを使ってくれと、その場にいた人は全員思っただろうが、そんなこと言える人はあいにく今は誰もいない。せっかくマイクを準備したのに。
演出の先生によるダメ出しに入ったところでその場はいったん休憩に入った。
僕が、ふぅと緊張から解放されると今まで黙っていてくれた宮田が喋り出した。
「あの先生いつになったらマイク使ってくれるんだろうねー」
おいおい宮田、聞こえるぞ。と思いつつ、
「まあ色々あるんじゃない?」
僕は曖昧にそう答えた。
「そうなのかな?言いたいことをそのまま出してるようにしか見えないけど。」
これ以上はマズイぞ、と思った時、
「それにしても、田中さんの音を出すタイミングいつも良いです!」
宮田の危険な発言を止めるかのように、後ろから声がした。
このミュージカルの僕と同じ音響チームの大杉だ。
大杉は宮田と同じくらい小柄な女子で普段の実習でも関わることが多い後輩だ。
僕のことを田中と呼ぶが、何故なのかは…今はどうでもいいか。
「そう?ありがと。」
僕は心の中でガッツポーズをするも、いつも通りの口調で答えた。
「私も負けてないと思うけどなー」
「なんでそこで張り合おうとするんだよ、大杉も困ってるだろ。」
「えー、困ってないよね?大杉ちゃん?」
「あ、はい!宮田さんもとても良いと思ってました!」
完全に言わされてるな、と思いながら、「次は宮田の番ね。」と僕は音源出しの役割を宮田と交代する。
「ちょっと、ステージ裏の他音響チームの様子も見てくる。」
「はーい、リハーサル再開までには戻って来てね。」
「わかった。」
そして僕はFOHを駆け下り、ステージ裏へと向かった。
ステージ裏は薄暗く、役者や、スタッフなど、様々な人でいっぱいだった。
別の音響チームが役者にマイクを付けているのを横目で見つつ、僕はその隅にいる一人の男子に声をかけた。
「どう?調子は?」
「お、中田、お疲れー。まあ別に問題無しって感じ。」
ヘッドホンを被りながら僕に反応してきたのは小川。同じ学科に所属しているが、このミュージカルでは別の音響チームだ。
「良いことじゃん。でもこの役割飽きるでしょ?」
「んー、面白くは無いけど大事なポジションだからね。」
小川がやっていることは「検聴」といって役者に付けているマイクが正常かどうかをひたすら聞く仕事だ。
「よく耐えられるね。」
「俺はこれが似合ってると思ってこれを選んだからね。」
そんな何でも無い会話をしながら僕はこのステージ裏で慌ただしく動く人々を見ながら、思っていた。
この光景、普通の人はなかなか見れないものだよなーと。
衣装を着てセリフの練習をしている人、その人にマイクを付けている人、重そうな機材をもって走りまわっている人、次の場面で使う小道具を用意してる人。
そうこうしているうちに僕はこんなことを考えていた。
なんで僕はここにいるんだろう。