見つめるだけでいい④
「やば。行くよ」
少年たちの返事を待たずに、少女は駆けだした。その後を、痩せた少年がついていく。太めも慌てて立ち上がり、二人のあとを追った。
「ぼっちゃん、どうしました?」
中年の男性が、走り去る三人の後ろ姿をにらみながら訊ねた。
「別に、どうってことないよ」
「ケガは……ないっすね」
まだ十代に見える若い男性が、健の身体を心配そうに眺めまわす。
「だから、平気だって。ちょっと話していただけだし。ね?」
急に同意を求められた真緒は驚き、反射的に頷いた。視線を下に向けたとき、中年の男性が持っている紙袋に「夏目庵」と書いてあるのが見えて、
「あ……それ……」
と小さくつぶやいた。
「夏目さんちの嬢ちゃんですよね? こんにちは。ぼっちゃんがお宅の水ようかんが大好きで――」
中年男性の言葉を、健がさえぎった。
「よけいなことを言うなよ」
甘味が好きだと知られたのが恥ずかしいのか、にきび一つない滑らかな肌に、ほんのり朱が混じっている。
「あの……ありがとうございました」
健の意外な一面に驚きながら、真緒は助けてもらった礼を言った。すると健は表情を消し、
「なにが?」
と尋ねた。
話をしていただけだと説明したのだから、余計な事は言うな――と、冷ややかな視線が語っている。
「いえ、あの……水ようかんを気に入っていただけて」
すると若い男性が笑顔になる。
「俺も好きなんすよ! ちょっとお高いから、個人的には買えなくて残念なん……」
言葉の途中で、中年男性に肩を殴られた。
「失礼なことを言うな! 良いものはそれなりの値段なんだ」
「す、すんません!」
そんな二人のやりとりを呆れたように眺めていた健だったが、どう反応したら良いのか分からず困った表情の真緒に気づき、背を向けた。
「くだらないこと言ってないで、早く帰ろう」
返事を待たずにすたすた歩き始めた彼の後ろに、大人二人はついていった。
その後ろ姿を眺める真緒の瞳はとろんとして、頬も上気している。
――真緒が、恋に落ちた瞬間だった。
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これまで何度、恋に落ちた瞬間を振り返ったことだろう。今では回想シーンの健の背中にキラキラ輝く光の効果までついている。
(あれからもうすぐ10年。我ながら、一途にもほどがあると思うけど)
あの頃よりずいぶん背が高くなり、顔も大人のものへと変わった健だが、相変わらずその美貌は健在だ。
(仕方ない。今夜は窓から姿を見るまで寝ないでおこう)
しょんぼりしながら、真緒は通勤電車を降りた。
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大学に進学してなかなか健の姿を見ることができなくなって以来、彼の姿を見るために窓に張り付くようになった真緒に対し、中学生以来の親友である笹川由子は辛辣だ。
「それってストーカー入ってない? ちょっと怖いよ」
「だって。会えないんだから仕方ないじゃん」
「いや普通に話しかけなよ。同級生だったんだし、『久しぶり! 元気? うちの水ようかん、最近食べてる?』とかさ」
「む、りー! 噛む。絶対に噛みまくって、あの冷たい目で軽く見降ろし、なんの反応も見せないまま通り過ぎてしまうに違いない。そしたら立ち直れないじゃん!」
「だから意識しすぎなんだって。あいつだって普通の人間だよ。ちょっと冷たいだけで」
「冷たく見えて、ハートは温かいんだってば」
いつまでも恋に恋してる乙女といった様子の真緒を見て、友人はさじを投げたようにため息をついた。
「好きにすれば?」
このやり取りを、何度繰り返してきたことだろう。
最近の由子はいい加減面倒になってきたのか、真緒の恋バナには口を出さなくなっている。社会人になって仕事が生活の中心になっているせいもあり、学生時代のように気軽につるむこともできないし、堂々巡りの恋に入れあげている真緒に付き合いきれないのだろう。
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ある程度の枷となっていた由子が近くにいないせいか、真緒の恋心はこのところさらに暴走しかけている。
仕事中もぼんやり健のことばかり考えていたせいで、その日、真緒はミスを頻発させていた。
「いい加減にしないさい。周りにも迷惑がかかるし、こんなにミスプリントを繰り返したら経費も無駄にしてることになるでしょう? もっと集中して」
呆れ顔の上司を見て、真緒は慌てて具合が悪いフリをした。
「すみません……。なんか、熱っぽいというか……調子が悪くて」
「そうなの? 朝からぼんやりしてたしね……。じゃあ、今日は無理しないで帰って」
わざとらしく額に手を当てて苦しそうな表情を浮かべる真緒を多少怪しく思いながらも、上司は早退を促した。
「でも……」
真緒は失敗した書類の山にちらりと視線を向ける。
「具合が悪いせいでこれ以上ミスされても困るから、病院で診察を受けて、体調を整えてから来て」
上司の本音がこぼれ出た。