拗れた糸の不協和音②
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この日は雨だった。
このめ達の練習場を覆う屋根の切れ端からは大粒の雫が絶え間なく落ち、レンガ調の床が受け止めた水滴を細かく砕いて弾き返す。
湿気を嫌う雛嘉と紅咲の機嫌はすこぶる悪い。
休憩中のまどろんだ空気の中、首に巻いたタオルで汗を拭いながら、吹夜が鞄を開けた。
「自販機行ってくる。なんかいるか?」
「あ、じゃあ、水欲しい」
「僕はいつものレモンティー」
「かわり映えしないな」
吹夜はくるりと顔だけで振り返る。
「センパイ達は、なんかいるっすか?」
「アラ、いいの?」
座り込む雛嘉の横で、杪谷が立ち上がった。
「じゃあ、僕も行こうかな」
「いっすよ、ついでなんで」
「ありがとう。でも、見て決めたい気分だから。眞弥、何が良い?」
「……そうねぇ。炭酸をグッといきたいトコロだけど、練習終わるまで我慢するわ。コレと同じのでお願い」
「うん、わかった。行こうか、啓くん」
「……はい」
雨を避けるため、屋根のある通路を通っていくのだろう。
本棟側へと並んで歩いていく二人の背を見送りながら、紅咲が「なんか、珍しい組み合わせ」と呟いた。
「え、そう?」
台本上、このめと吹夜と杪谷の三人で連携をとる場面が多い。吹夜と杪谷が二人で立ち回りの話し合いをしているのも、そう珍しい光景ではない筈だ。
首を傾げたこのめに「……うん」と返した紅咲は、話題を転じるように「なんで雨なのに涼しくなんないの! 着物脱ぎたい!」と両腕を放り投げた。
「はいはい、頑張って」
置いていた扇子を使ってこのめが扇ぐも、生暖かい風しか送られてこない。それでも紅咲は猫のように瞳を細めて、涼を求めた。
完全に見えなくなった背を視線で追っていたのは、もうひとり。
「……ったく、仕方ないワね」
薄く零れた雛嘉の声は、雨の音にかき消された。
本棟一階と渡り廊下を使って自動販売機に辿りついた吹夜は、「僕選んでるから、先どうぞ」と杪谷に促された。
「あざす」
軽く会釈して機体の前を陣取り、五百円玉を突っ込む。水のペットボトルを二本と、味見が散々だった見慣れたパッケージのレモンティー缶をひとつ。練習中にあんな甘ったるい飲料を飲めるのだから、人の好みは様々だ。
取り出し口に転がり落ちてきた三つをひとつずつ抱えていると、無数の雨音が包み込む空間にふと、「そういえば、ここでこのめくんに会ったんだよ。懐かしいな」と声がした。
「……勧誘ん時、すか」
「そう。なんかいっぱい買ってる子がいるな、って見てたんだ」
立ち上がり、「どうぞ」と前を明け渡すと、「ありがとう」と杪谷が進む。
「幼馴染って、いいね。僕はそういうのいないから、羨ましい」
「っ」
コインを入れた杪谷が、細長い指先でピッとボタンを押す。
薄暗い通路下にガコリと響いた落下音よりも、『羨ましい』という言葉がやけに耳に焼き付いた。
「……俺は」
向けられた視線が、受け止められない。
「俺は、成映センパイのが羨ましいっす」
「……どうして?」
「……大人だな、って」
「たった二年早く生まれてきただけだよ。僕は吹夜くんの方が、しっかりしてると思うよ。いつも冷静だし、よく見てるし」
ピッ、と押されたもう一本はなんだったのか。
顔を上げると、陳列棚の明かりを受けた杪谷が静かに笑んでいた。
「僕は、大事なモノを大事にすればいいんだって気づくまで、時間がかかっちゃったから。だからその分、ズルくて、頑固なんだと思う。その点、啓くんは真っ直ぐで、優しいよ。……このめくんと一緒だね」
「え?」
「このめくんには啓くんがいたし、啓くんには、このめくんがいたからかな。キミ達はよく似てる」
似ている? このめと?
初めての言葉に、吹夜は衝撃を受けた。
容姿は言うまでもない。かといって性格に似ている部分があるかと問われれば、吹夜自身も即座に首を振るだろう。おそらく、このめも。
『真逆だ』と言われるくらいならまだいい。『どうして一緒に居るんだ』『幼馴染だからって、無理をしなくていいんだぞ』と偽善めいた言葉を浴びせられる事も少なくなかった。こちらの胸中など、知りもしないくせに。
だが杪谷は、『似ている』と言った。深く染み込んでいくような、酷く澄んだ声で。
「……大事なモノを、大切にしたい気持ちはよくわかるけど」
しゃがみこんで取り出されたのは、既に抱える一本と同じスポーツドリンクだった。結局、選ぶも練習時に常飲しているそれに決めたらしい。
氷色の双眸が、吹夜を縫いとめる。
「『慎重』なのと『臆病』なのは、違うと思うよ」
「!」
瞠目する吹夜に瞳を緩めた杪谷は、柔らかく微笑み「さ、戻ろう」と踵を返した。
遠ざかる背に引かれるように、吹夜もまた、当惑を振り切って重い足を動かす。
見頃を迎えた紫陽花が、雨に隠れてないていた。
***
本番のように音響照明付きの通し稽古を始めたのは、六月も二週目になった頃だ。
まだ頭から最後まで通すのではなく、場面毎に区切っての練習だが、とうとう演技、音響、照明が連動する。
舞台に立ち、コントロールルームへと視線を遣ると、定霜と濃染、文寛兄弟の四人が真剣な顔で打ち合わせをしていた。
ああ、本当に演るんだ。言い様のない緊張が、足元から這い上がってくる。
「ねえ、このめ」
強張る身体に深呼吸を繰り返していると、紅咲が寄ってきた。
「折角だからさ。五人のトコから始めない?」
「アラ、いいじゃない」
優美さを感じさせる普段とは正反対の、短髪の男前へと変貌している雛嘉が、「初っ端だし、バーンと行きたいワね」と首肯する。吹夜と杪谷にも異論はないようだ。
このめも緊張はあれど、気持ちは早く動きたくてたまらない。
「じゃあ……迅! 悪いけど、変更していい?」
「アア!? へんこー!?」
「頭っからじゃなくて、五人のアクションから演りたい! ええと、碧寿の登場辺りから!」
「ったく、しゃーねーなあ! 濃染サン、変更っス!」
全体の指揮を取り持っているのは定霜だ。自然とそうなっていた。
「まさか迅がここまで役立つようになるとはね……」
感慨深そうに紅咲が呟く。
「迅がいてくれてよかったよ。広く見てくれるし」
「ただの捨て駒じゃなかったか」
「きっこえてんだよ啓! 凛詠サン! もっと褒めてください!」
「集中しな」
「サーセン!」
コントロールルームに入り変更の指示を出す横顔は、実に頼もしい。
文寛兄弟はスンナリと受け入れてくれたようで、このめ達の立つ舞台に向かって指でオッケーサインを向けると、軽い言葉を交わし合いながら手元の機器を操作してし始めた。濃染は嫌そうな顔をしたあと、諦めたように嘆息し、マイク越しに『もっと早く言え』と苦言を呈してきた。
けど、ちゃんと調整してくれるのだ。このめは苦笑しながら会釈して、演者陣へ「じゃあ、位置について。碧寿の登場シーンから、はけるトコまで」と指示を出す。




