先輩という存在②
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音響の話し合いは定霜と濃染達に任せ、睦子に着替えを手伝ってもらったこのめは美術棟へと向かった。
繋がる廊下を進み、美術棟に一番近い階段を下りていく。
ガラス窓から射し込むオレンジ色の陽射しが、静かな踊り場を一枚の絵画にしている。
「このめくん」
柔らかく響いた声に振り返ると、雛嘉と読み合わせをしていた筈の杪谷が下りてきた。
普段、ゆったりを好む杪谷にしては珍しく早足で来たらしい。微かに息が乱れている。
「何かありました?」
「ううん、そうじゃなくてね」
杪谷は首を振りながら微苦笑する。
「琉斗くんも言ってたけど、本当、変に考えすぎなくていいから。壮って隠し事が下手だから、何かを誤魔化そうとすると、言葉が強くなっちゃうんだ」
「!」
どうやら落ち込んでいるのではと気にかけ、追いかけてきてくれたらしい。
心がほわりと浮つくのを感じながら、このめは「平気です」と笑んで見せた。
「ありがたかったです。結局、全部引き受けてもらっちゃいましたし」
「壮のあの顔は張り切ってる顔だね。久しぶりに見た。琉斗くんも琉生くんも楽しんでるみたいだったし。……入部届けは、僕も予想外だったけど、きっと仲間に入りたかったんだろうね」
小さく笑う声が、まるで旋律を辿るように紡ぐ。
「……この部は、すごく居心地がいいから」
流された視線の先を追うと、夕暮れに影をつくる屋根の下で、アクションの練習に励む吹夜と紅咲の姿があった。
練習を初めた頃は中々息が合わず探り探りの練習だったが、時間を重ねた今ではなんとなく、感覚で互いの呼吸が読めるようになってきている。
信頼、というのだろうか。離れた上部から望む今も、微かな仕草で次がわかる。
何度も繰り返し脳に刻み付いた声が鼓膜の内側で響き、湧き出た熱に紡ぎそうになった台詞を、喉元で飲み込んだ。
空から零れ落ちた朱に染まる髪が揺れ、薄い水色の瞳が静かに向けられる。
「誰かを頼るのは、悪い事じゃないよ」
押し込めていた蟠りをそっと包むような声色に、虚をつかれる。
このめは跳ねた心臓を抑えるように、両手を握り込めた。
まっすぐに見つめる瞳はただ優しい。けれど、どこか確認めいた一言が、酷く心を揺さぶった。
だからこそ、だろう。誰にも言えなかった『迷い』が、口をついて出た。
「……俺、ちゃんと深く考えないで成映先輩達にお願いしちゃって、濃染先輩達も、自分の部活があるのに巻き込んじゃって。啓は、昔っからですけど、凛詠達も俺の好きにさせてくれてて……。シゲちゃん先生も、沢山動いてくれてるし。時々、本当に、これでよかったのかなって……」
他の部活のように、全国大会がある訳でもない。損得で言うのなら、『得』をするのはこのめだけだ。
ましてや杪谷達は三年生だ。受験生。このめがこの部に誘わなければ、受験勉強に注ぐでも、友人との思い出作りに費やすでも、時間の使い道は他にもあっただろう。
「……ズルい言い方をするようだけど、入るって決めて署名したのは本人なんだから、このめくんが気に病む必要はないんじゃないかな。イヤになれば『退部』も出来る訳だし、そうしてないって事は、離れない理由があるんだろうし」
杪谷がニコリと笑みを向ける。
「それと、僕も眞弥や壮に頼ってばかりだから、このめくんと一緒だね」
「っ、全然違います! 成映先輩と眞弥先輩がいなかったら、俺、今でも色々アタフタしてたと思うしっ」
「じゃあ僕は、珍しく『頼られた側』になったんだ。ふふっ……うん、悪くないね」
感慨深そうにクスクスと笑った杪谷は、ひと呼吸置いてからこのめの頭を撫でた。
幼子を宥めるような仕草に羞恥が登る。が、相手は先輩だと思うと、振り払う事もできない。
それに、余程心が弱っていたのか、往復する掌には妙な安心感があった。
「大丈夫だよ。皆、それぞれの『意思』があってこの部に集っているんだ。だから、このめくんは演技に集中して。その為に、立ち上げたんでしょ?」
情けない弱音に呆れるでもなく、柔らかく細められた双眸は温かい。
今まで部活動に携わったことのないこのめは、『先輩』という存在に不慣れで、接するには無意識の緊張があった。
だが、なんだろう。両親や同級生に頼るのとは、また違った大きさを感じる。
「僕と眞弥も、動けるようになったら直ぐに合流するね」
最後にポンポンと指先で叩いた杪谷が去って行くのを、このめは不思議な心地で見送った。
このめが美術棟下に辿り着くと、気づいた紅咲が「あ、もう終わったの?」と迎え入れてくれた。
「うん。こっちは任せて、ちゃんと演技の練習してこいって」
「それ、文寛先輩達の通訳でしょ」
「すごい! なんでわかったの?」
「そりゃあ、ね」
「このめ」
歩を進めてきたのは吹夜だ。
襟元にまかれたタオルに、汗が吸い込まれていく。
「杪谷センパイと、なに話してたんだ?」
「え?」
「さっき、あそこで何か話してただろ」
指差された先は、美術棟に一番近い階段だ。杪谷と話していた踊り場。透明な窓にはオレンジ色の夕日が反射している。
思えば今まで、このめのああいった弱音を受け止めてくれていたのは、吹夜だった。昔からそうだったから気に留めた事もなかったが、もしかしたら、それは吹夜にとって『負担』だったのかもしれない。
吐き出した事で胸中に余裕が生まれたからか、そんな考えが過って、このめは無意識に薄く唇を引き結んだ。
「……濃染先輩達も張り切ってるから、頑張ろうって言ってくれただけだよ。それと、この部は居心地がいいって」
「……そうか」
「さ! 練習練習! アクションもだけど、演技の方も力入れないと!」
意気込みながらストレッチを始めたこのめを、吹夜は複雑そうに眉根を寄せながら黙って見ていた。




