つよくて よわい ちいさなライオン
今やあちこちから追われているわたしを塔に匿うと誓ってくれたはずなのに、その誓約を一日も経たぬうちに破り、グノーシスはわたしを裏切った。かれとお父さまのあいだには絆があるが、娘のわたしはかれにとっては他人でしかないということなのか。
ジェフとチェスで賭けをしたり、ルーファウスがわたしの怪我の手当てをしてくれている間に、あたりは暗くなってしまった。ーーガラスで足や手を切っただけのわたしより、矢が刺さったり剣で斬りつけられたルーファウスのほうが重傷のはずだったのに、不思議なことにかれは何事もなかったかのようにふるまってぴんぴんしている。でもわたしはかれの体から鮮血が飛び散るのを見た。わたしはかれの腹の傷口を確認しようとしたが、強く拒まれてしまった。竜の子孫は治癒力が異常に高いというのは本当なのか?
ジェフの告げ口のとおりにルーファウスは竜の子孫なのかという問題は、しかし今は後回しにしなければならない。
「フォッブスとノットはどこにいるの? すでに知の塔を去ってしまったのかしら?」
わたしたちは塔から出て夜のノースフォレストをさまよい歩いていた。正直に言ってピンチだ。あの梟のせいで『サード・フォース』とやらに居場所を知られてしまったから、すぐにここから離れなくては。朝を待っている場合ではない。
「どうやらそのようですね。どうしましょう、またいつ敵がやってくるか......」
「じゃあもう歩きでいいわ。とにかくここを離れましょう」
そびえ立つ白亜の塔をふりかえって、そこでのうのうと生きているであろう管理人を睨みつけてやったときだった。
「むすめよ。別れの挨拶をしに来た」
暗闇のなかで梟がホホウと鳴いた。その声のしたほうをふり向けば、満月のように浮かびあがる白くて小さな体が、ヤドリギで羽を休ませている。
「あなたと話す気はないわ。どうかわたしを追ってこないで」
わたしはそう吐き捨てて歩みを進めようとしたが、グノーシスの言葉がそれを止めた。
「きみはまだ知らなくてはいけないことがある。そうでないと、この時代の歴史が面白くならない」
「......どういうことよ」
ついついそう聞いてしまう。好奇心のありすぎる自分がいやだ。
「姫さま、この鳥にもう関わらないでください」
ルーファウスが先に行って手を招きながら「早く」と急かしている。でも、わたしの足は動かず、目は木にとまるメンフクロウを見つめていた。ーーするとかれは、まるで笑っているかのように奇妙に目を細めた。
「クク、きみはその性格で損をしているよ」
「余計なお世話よ」
鳥におちょくられている暇はない。
「つまり、わたしが知らなきゃいけないことって?」
「これはいち研究者の見解として聞いてほしいんだが......。ちょうどつぎの新月の夜のことになるだろう。あのむごい戦争が終わり、両国に和平が結ばれてから現在に至るまで、我々は幾度となく開戦の危機を乗りこえてきた。......しかしその新月の夜、両国間でいわゆる『第二次大陸戦争』が勃発する」
「......あなたの言うことなんて当てにならないわ」
「私はきみとの約束を破った。信じるか信じないかはきみ次第だ。年寄りの戯言と思っても構わない」
ーー当てにならないと言い切っても、胸騒ぎが止まらないのはなぜ? 恐れながら、その予感を感じていたから?
「......何故つぎの新月の夜だと?」
「その夜、竜がその正体を現すからだ」
「竜......」
「姫よ、きみはどこかで聞いたはずだ。『サード・フォース』のことを」
その嘴は、例の言葉を紡いだ。
「かれの思想は興味深い。そして共感できる。かれが目指すのは、『MISFIT』のための国だ」
「今なんて?」
わたしはその言葉が聞き取れなかったが、グノーシスは話を続けてしまう。
「そもそもの話だが、我々をその種で分けるなど、もはやナンセンスだと思わないかい? ヒトと動物、この二種類に我々をふり分けるなど。自分の属す国の社会に、うまく順応することのできないものはどうすればいい。その国の社会に、疑問を感じるものは。その国の社会の仕組みに、押し潰されそうになっている弱者は。ヒトのための国とケモノのための国、この二国しか存在しないこの大陸に、そのどちらにも属さない『不適合者』たちのための国があったなら面白いと思っただけのことだ。もしそんな国が誕生すれば、二国を凌駕する大国になるやもしれぬ」
「......竜は、新しい国をつくろうとしているのね」
「かれには確かに邪念もあるがな。竜の子孫である自己を神聖視し、ヒトを見下して、かれらを下に位置付ける国をつくろうという邪念が」
つまり、かれはヒトを蔑視していると。
ふとわたしは夜空を見上げた。月や無数の星の光は、わたしたちがどんな姿をしていようと、分け隔てなく平等にふりそそぐ。
「かれは千年もの年月、ヒトの国で苦痛と、憂鬱のなかにいた。ヒトの親から捨てられた、ヒトとうまく交われない不適合者であり、異端者だ。......しかし、やろうとしていること自体が面白い」
わたしはグノーシスの書室で読んだ絵本を思い出していた。かれの言うとおり、昔話は現実なのか。
「姫よ、この大陸はもうすでに戦争への道を歩みはじめている。サード・フォースは、ヒトの王家の軍隊を偽装してレオポルド城を占拠した。そしてすでにかの国の報道機関を手中に収め、かの国の王子は獣に殺されたのだと偽の情報を流している。かの国の王子が行方不明になったことを利用してな。かれは、着実に二国間の溝を深めているぞ。......まあ、かの国はハナから開戦のきっかけを欲していたがな」
ーー戦争の兆しがあるのは、認めざるをえない。
「じきにここにもきみを捕らえるためヒトの軍隊が来るだろう。サードフォースはかの国にきみの居場所を教えたはずだ」
「......何故そんなことをわたしに教えてくれるの?」
グノーシスはサード・フォース側の者ということではないのか? わたしにそんな情報を教えて何の得がある?
「私には、きみの未来が手に取るように分かる。すべては歴史のためだ。......それと付け足すなら、この国の史学の大家たちが書いた新刊を、わけ知り顔で読むためさ」
わたしがこれからどうするかなんて、わたしでさえ分かっていないのに。
「あなたにわたしの未来が分かるなら、どうか教えて。わたしはこれからどうすればいいの?」
わたしは追手から逃げることしかしていない。サード・フォースのことを知った今、わたしにもケモノの国のために何かできることがあるのではないか。
「きみはきみのしたいことをすればいい。自分を大切にするんだよ」
梟はそれだけ言うと、夜空へ飛んでいってしまった。
残されたわたしはルーファウスの後を追い、知の塔を去った。
◯
足が痛むほどずいぶん歩いた。塔から距離を取ることができたので、わたしたちはここで休むことにした。つまり森の中で野宿だ。
夜更けは少し冷える。わたしたちはルーファウスの起こしてくれた火を囲んで暖をとっている。パチパチと焚火の爆ぜる音以外何も聞こえない。静寂と、冷たい霧が森を支配している。
「レオナさま。私が寝ずの番をしますから、そろそろお休みください」
ルーファウスはいつ何時も頼りになる。ーーそれに比べて、わたしは。
「もう何も解らない。自分がどうすべきか。......お父さまとお母さまに会いたい......」
わたしは涙を堪えていた。歩き疲れたからなのか、第3勢力や竜の話を聞いて何か底知れぬ恐怖や不安のようなものを感じていたからなのか。今までは我慢できていたものが溢れ出す。
「もういつ捕まってもおかしくないわ。逃げても逃げても、追ってくる。どこへ逃げたって、敵はわたしを見つけるでしょう。......怖いの。わたしには背負っているものが大きすぎるわ。プレッシャーに押し潰されそう......」
わたしが歴史の中心だなんて、そんなの嘘。敵が来たらあちこちへ逃げ惑って、まるで手のひらの上で転がされているよう。
ーーもう、疲れた。
苦痛がわたしを支配していたとき、夜霧の中から護衛が言った。
「......姫さま、私は敵の攻撃からあなたを守れます。けれど最後の最後にあなたを救えるのは、あなたしかいません」
わたしは顔をあげた。ルーファウスの表情は、白い靄に埋もれてよく見えない。
「あなたが塔から落ちたとき、そう痛感しました。私たちは互いに依存しすぎているのかもしれないとも、思いました」
そのとき突風が吹いて、夜霧を消し飛ばしてゆく。
「......弱気なあなたは、らしくないです。いつものように、強くあろうとするレオナさまでいてください。私はそんなあなたが好きです」
ーー大好きなルーファウス。愛の告白だって今は何百回としてしまっているけど、この気持ちに気付いたときは、気持ちを殺そうとしたこともあった。わたしのせいで仕事をうしなってほしくなくて。
「......もう逃げるのは嫌」
わたしは決断をする。ピンチやトラブルから自分を守れるのは、自分だけだ。
「ルー、攻撃に転じるときよ。わたしはかの国へ行くわ。かの国の王に会って、話をしてくる」
サード・フォースという我々二国共通の脅威のことを伝えて、互いに協力し合うため。そして、戦争を未然に防ぐため。
「人質になりに行くようなものかもしれない。これは賭けよ。もう逃げるのには飽きたの」
ルーファウスはわたしをまっすぐ見つめて言った。
「......かの国の属国に成り下がろうとしているわが国にとっては、あなたが最後の希望なのだと私が言ってもですか」
そうだ、わが国の中枢であるレオポルド城はいまだ占拠されている。ーーかの国ではなくサード・フォースによって、であるらしいのだが。
「それでもわたしは行くわ。かの国の王宮へ。......武力による占領統治は絶対にやめさせる」
新月の夜までに、王と話をつけなくては。
「......私は、レオナさまに従うだけですが......」
「ありがとう、ルー。そう言ってくれて」
それでもルーファウスはどこかすっきりしないような顔をしていたが、わたしは明日からの旅にそなえ寝ることにした。
◯
森の奥深くにてすやすやとねむりについていたわたしだが、何だか、こそばゆい感覚に襲われてゆっくりと覚醒した。
ーー何だこれは? わたしは今、何をされている?
気配や触感や温度のおかげで、誰かがわたしに覆いかぶさっているのと、腕や指を絡められているのが分かった。相手の息遣いも感じる。こわいので、とりあえず寝たふりで誤魔化す。
そして、無視できない感触。それは湿っぽくてあたたかい何かで、わたしのおでこにくっつくと、またすぐ離れていった。おでこの次はまぶたで、次はほっぺたで、次は唇に。さすがに分かった。ーーわたしは、誰かにキスされてる。
キスはだんだんと下へ降りてゆき、顎へ、首筋へ。鎖骨へキスを受けたとき、わたしはこっそり目を開けた。ーーくせっ毛の黒髪だ。やっぱりルーファウスだ。
わたしはかれの首に両腕を回し、かれに身を委ねることにした。
「!?」
けれどルーファウスの動きは一瞬で止まり、かれはわたしを見上げるとパッと離れてしまった。
「こっ、こここここれは、その......」
「いいから、続きを」
そう言ってわたしはルーファウスの軍服の襟元のボタンを外し、白い首筋にキスをした。
「なっ! なな何してんですか! ってか何言ってんですか! 私は今、れれ、レオナさまに......」
「みなまで言わずとも、もちろん分かっているわ。夜這いでしょ? 寝こみを襲ったんでしょ? つまりそういう気分なんでしょ? わたしはあなたが好きなんだから、そりゃあ大歓迎よ」
「だっ......! 私は『そういう気分』だからあなたにこっそりキスしたわけじゃありませんから!!」
焚火は、茹でだこのように赤面しているルーファウスの顔を照らしだす。
「そういう気分以外に何があるのよ」
「わ、私があなたにキスしたのは、つまり、その......」
「?」
「......けっ、敬愛の情です。そういうので位のある方にキスすることってあるじゃないですか? それが今溢れ出してですね......」
「わたしが寝ているときに? その嘘はさすがに無理があるわよ、ルー」
ルーファウスは眉をハの字に下げる。すごく困ってて可愛い。ルーファウスはぼそぼそと口の中でものを言っている。
「いつもは起きないのに......今日はやりすぎた.......」
「え? 何て?」
そう聞き返すと、ルーファウスは逆ギレしはじめた。
「だっ、だってレオナさまが悪いんですよ!!」
「は?」
ーー何を言うかと思えば。
「私を心配させるから! これからかの国へ行って、王さまに謁見するなんて......危険すぎます! 幽閉されるか、下手したら殺されて......」
話が戻ってしまった。
「そう思ったのならそのとき言いなさいよ」
「......結局自分を救えるのは自分しかいないとか、かっこつけたあとで言えますか? そうは言ったけどやっぱり、あなたを失うかもしれないのはいやだと」
ーーどうしよう。ルーファウスが愛おしい。
「......つまり、本当のキスの意味は?」
そう聞くと、ルーファウスは目をあからさまに泳がせる。
「それは、その.......」
こんなに戸惑っているルーファウスは、見たことがないかもしれない。
「今まで、あなたが私のそばにいることが、当たり前のように感じていました。けれど、もうすぐあなたを失うと思ったら......今すぐ、あ......愛したいと思って!」
「だからこっそりキスしたの? 額と目と頬と、それから口にも? 首と鎖骨にされたときは、さすがにいやらしさを感じたわ」
「全部言わなくていいじゃないですか......」
ルーファウスは本当に困っている。ちょっと可哀想になってきた。
「ルーファウスもわたしのことが好きなのね。......ふふ」
「さっきそう言ったじゃないですか? 確かにあなたを励ますという名目でどさくさに紛れて好きって言いましたけど、それに何も反応がなかったから勝手に落ちこみました」
あれはそういう「好き」で捉えてよかったのね。
ーーうれしい。わたしたち心が通ってる。
わたしはルーファウスが逃げられないようにかれの顎をつかみ、鼻先をずいと近付ける。面白いほど不安定に揺れまくる瞳の奥をのぞきこんで、誘惑のため息を吐く。
「じゃああなたの好きなようにしたらいいわ。......わたしを愛したいんでしょ?」
あたりは静寂だ。ごくり、と生唾をのみこむ音さえも聞こえた。
ノースフォレストの木々たちは、風に揺れてその夜の噂話を囁く。