如月の憂鬱1
寒い。ものすごく寒い。
ビールも飲みかけで、テレビも電気もつけっぱなし、化粧もしたままで眠っていたみたいです。こんなこといつぶりだろう。壁の時計を見ると3時40分。
最後に時計を見たときには日付を越えていなかったはずだから、3,4時間は寝てしまったらしい。
ぬるくなったビールを捨て、煮物の皿を水につけて化粧を落とし携帯を確認する。
寝ぼけた頭に入ってくる視覚情報。
うーん、なんでしょう。今度はなんの罰ゲームでしょう。
《登録してくれないと泣いちゃうし、あの女子2人にこの連絡先を横流ししたらもっと泣いちゃう。
将。》
そんな文章。
将、なんて知り合いいない。脳内ヒットなし。
猫のような笑顔が頭で一瞬フラッシュするけど、そんなはずはないし、そんなことがあっても登録する義理も意味もない。
だけど、この文章を消す勇気も ない。
スウェットに着替えてベッドに潜り込む。悶々と考えている間にカーテンの隙間から朝日が差し込む。どうやら今日もいい天気らしいです。
いつのまにやら眠りにつき、起きたときには昼の1時だった。なんだか学生の時みたい。長時間横になりすぎて背中が痛い。
少しグダグダしてしまったが、昨日決意した通りに部屋を綺麗に掃除し、スーパーへ買い物に出た。時間をかけて作るもの、、何にしましょうか。
ひき肉がとても安かったので、今夜は餃子にでもしましょうか。
家に帰り、ジブリ映画のサウンドトラックをかけながら、小麦粉から餃子の皮を作る。なんて充実した時間でしょうか。ひとりを満喫しています。肉も仕込み、少し寝かせる。
このあいだの時間にあまりの具材で他のおかずを作ったりしたいんだけど、いつものようなやる気が出ない。
寂しさには強くなったつもりだったのに。一体全体どうしたって言うんでしょうか。あの新人類が忘れたはずの過去の記憶の扉を開けてくれちゃったんでしょうか。
どんなに時間をかけて料理をしても、美味しいねと言ってくれる人は隣にはいないのに。
30分ほど、夕焼けを眺めながらぼんやりとした。空が広く見えるこのマンションを借りてよかったと心から思えた。
ピンポーン
滅多にならないドアベルが殺風景な部屋に鳴り響く。
この古いマンションには相手の顔が見えるインターフォンなんてないので、ドアの覗き穴を見ればそこには、昨日から私を悩ませる張本人の姿。いや、なんでですか。居留守使おう。これ以上、心に入ってこないでいただきたいです。いや、心になんか入って来てはないんだけど。
と、途端にエプロンのポケットに入っている携帯が鳴り響く。
「うわっ」
びっくりして声が出てしまった。
「あ、声聞こえた。きさらぎっちー、出てこーい」
古いマンションの壁の薄さを心から恨む。だけど、一度決め込んだら遂行してやる。私はいない。家にいない。
「ねえ、大声出すよー。きさらぎっちー。」
「もう出してるわ、アホ。」
遂行しようと心に決めたものの3秒後に、体は勝手に動いていました。
「お、やっと出て来た!はい、お詫びとお土産。」
ドアが開いたと同時にドカドカと踏み込んでくる葛城将平。職業俳優。わたしはなんでこんなにこいつに振り回されているんでしょうか。
片手には、どこかの手土産風の袋。
もう片方の手には、高級スーパーの袋。
高級スーパーなんてこの近くにはないはずなんだけど。何を買って来たんだか。
中を見ると大ぶりの赤卵の10個パックとゴロゴロと新鮮そうな里芋と鮮やかな色の人参とネギと下処理が済んでいるゴボウ。
自分では買うことのない高そうな食材たちに思わず顔がほころぶ。
「あ、笑ってる顔2回目。」
「は、はぁ?!」
顔を覗かれてすごい勢いで避けてしまった。て言うか、何を見てるんですか。そして何でしょう、このセンスのいい食材たち。
「こないだ、卵たくさん食べちゃったし。煮物もバレない程度につまみ食いしちゃったから、お詫び。あとこれ今日まで静岡で撮影だったから土産。嫌いだったらごめん。」
そう言って、いつのまにやら手洗いうがいを済ませ、ソファに座る。
「ねーねー、お腹すいたー」
「あの、これはとてもとても嬉しいんですが。なぜうちに馴染んでるんでしょう?」
「なんかさ、心地いいから。こないだもすっげぇぐっすり寝れたし。明日休みだし。ご飯も美味しいから。」
「うん、だからなんでしょう」
「だから、いる。」
「うん。理解不能です。」
「うん。わかってもらわなくてもいいよ。あと携帯貸して。」
「は?!」
エプロンの右ポケットに入っていた携帯をさらっと取り上げ、ロックなってかけていない携帯をするすると操作する。
「しっかり登録しといたから。今度から無視したら泣いちゃうよ?夜中にでも訪ねてくるよ?電話しまくるよ?わかった?」
凄まじい圧をかけられる。いや、なんにもわかりません。
「あの、君はおいくつでしたっけ?」
「ありゃ。ほんと俺に興味ないタイプの人なのか。俺はきさらぎっちよりも2つ年下の25歳の学年よ?」
「うん。そっか。はい。」
2歳年下。中学あたりで言うならばすごーい上下関係がはっきりする中1と中3あたりの年の差なわけだ。そんな男子のペースに私は乗せられているわけか。悲しい。コミュニケーション能力が低いって悲しい。
「ねえ、きさらぎっち、もうちょい近く来て」
「え、無理です。」
「いや、即断りすぎでしょ」
「いや、無理です。」
「あっそ。じゃあ俺が近づく。」
「げ」
急に忍者レベルの反射神経を発揮して捉えられた。葛城将平の腕の中にすっぽりと収まる。
計算され尽くされているんではないかと思うほど、すっぽりと。
ずっとずっとこの腕を探していたんじゃないかと思うほどすっぽりと収まった。なんだ、こりゃ。
彼の肩に私のおでこが当たる。彼の顎を耳に感じる。
「だめ」
「うおっ」
ふいに押されてバランスを崩す葛城将平は、聞いたこともないような変な声を出した。
「ぶっ」
「なんだよ、急にー、俺様が怪我したら大変よ?!」
「はいはい。じゃあお土産はありがたく頂いておきますね。」
突き飛ばされたことを怒っているらしく、少しむすっとしながら再びソファに座った新人類。
「餃子食べますか?」
「食べる!」
「じゃあ包むの手伝ってください。」
「え、やったことない」
「は?!」
餃子の皮に餡を包むところから教え込み、餃子を焼くまでに小一時間かかった。私の大事な大事なビールストックをいたしかたなく分けてやり、餃子とビール、作り置きの煮物とナムル、オイキムチで休日の夕飯完成。
驚くほど自然に、驚くほどイレギュラーな客とともに食卓を囲む。
「ほんときさらぎっちって料理上手な。全部うまい!」
演技が上手いのか、本当にそう思ってくれているのか、すごい勢いで食べすすんでいく。
「本当にお腹すいてたんだ、」
「お!初めて敬語じゃない。」
「あ。」
心の声、漏れた。
完全にイレギュラーの客人のペースに乗せられてる。
「今度、俺が買って来たお土産のほうとうで夕飯作って」
また無邪気に猫のような笑顔で笑う。ああ、心がざわざわする。なんなんだろう。荒手のファン獲得工作?なんでこの人はここにいるの?なぜ、私の生活に関与してくるの?
「ぷっふぇ」
ぐるぐると考えながら食べていたら、餃子につけた酢と胡椒を喉に詰まらせた。急いでビールで酸っぱいものを流し込む。
「はぁ。」
心の底からのため息が出る。
「だいじょぶ?」
「はい。うん。はい。酸っぱかった。」
「うん。お酢つけてたし。」
「うん。はっは」
なんか、人と話して自然に笑うの久しぶりなきがする。あーあ、なんで。
なんで私に近づくのでしょう。人が遠ざかっていくのはもうこりごりだから、自分から距離を置いてきたというのに。
なんでよりにもよって、猫みたいにふわりと消えてしまいそうなこんな人といて心から楽しいと感じてしまっているのでしょう。
夕飯を食べ終わると当たり前のように食器を流しに運び、洗い物をこなしてくれる。非常に意外。
「なんか、すごい目線を感じるんだけど。俺に惚れた?」
「いや、意外すぎて。」
「なにが?!」
「食器とか洗うんですね。」
「いや、洗うでしょ。人間だもの」
「あ、はい。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうごちそうさまの印だよ。
でも、これは意外だなぁ。」
そう言って、葛城将平は自分が使っていた透明のビールグラスを手に取る。その動作だけでも映画のワンシーンのようだ。
「きさらぎっちにもペアガラスを使う相手がいたんだね。」
ああ、使わなければよかった。
3年ぶりに取り出したそのグラスは、引越しでも捨てられず、もう使うことはないだろうと食器棚の肥やしになっていたビールグラス。
私のマイグラスと色違いの食器。
だって、それしかなかったんだもの。人様に出すビールグラスが。
その一言の反論がどうしてもできなくて。思い出したくもない顔が頭にチラつきそうになる。あれは、事故だ。恋愛なんかじゃない。
「元カレ?」
「違う。」
「今彼いたりして?そんな悪女には見えないけど。ま、俺には関係ないか。」
そう言い捨ててまた食器洗いを再開する。なんで、ここにいるの?これ以上、私の中に入ってこないで。
「出て行って」
「え?」
「ごめん。帰ってくれない?」
「なに?俺、きさらぎっちの機嫌悪くさせること言った?言ったか。ふふ。」
落ち着け。私はクールで、冷静で、感情になんか流されない。誰に対してだって、能面を被って生活できる。そう、ひとりぼっちで生きていける卑屈女。
「やだよ。今夜はきさらぎっちの側にいる。」
「迷惑、です。」
「俺は迷惑じゃない。」
「なんなの?!私の人生に踏み込んでこないでって言ってるの。人をからかいたいなら、よそでやって。私に近寄らないで。、お願い。
お願い、します。」
ボロボロと、何年ぶりかわからない涙が溢れ出てくる。
なにがこんなにも悲しいんだろう。自分で自分を抱くように体を丸め、みっともない顔を膝につけておいおいと涙を流す。
なんだ、これ。恥ずかしすぎる。
「なーんだ、鉄仮面も案外脆いね」
鉄仮面。
なんども言われ慣れた言葉だ。今更傷つくこともない。わかってた。
わかってたはずなのに。
心がひとりぼっちなのは、とても寂しい。
「でも、俺はきさらぎっちをからかいたいんだ。だから他所へは行かない。」
ねえ、意味がわからないです。
なんで、この新人類はなぜ私の側へ舞い降りたんでしょうか。
なぜ私は、1人の世界を無理やり破壊されなければ行けないんでしょうか。涙の止め方さえもわからなくなってしまったよ。