日記
お久しぶりです。
一日を72時間くらいにする方法を教えてください。時間がどこにも足らん。
どれだけ技術が発展し生活が豊かになったところで、人間の欲というものは減衰することはない。技術の多様化とともに、欲望の満たし方も変化する。空腹を満たしたいという欲求一つとっても、ただ腹を満たしたいのか、美味なものを食したいのかによって取る方法も変わる。そのために必要な金額も大きく変わる。金銭を手に入れる手段も多様化する。労働という形をとるのであれば、雇用する側なのか経営する側なのか、また何を商品とするのか。食料品や日用品、家電、家具などの製品、製品の部品や原材料、はたまた労働力そのものや情報という商品もある。さらに同じ製品であってもブランド化をすることで差をつけることができる。安全性が高いかわりに価格も高い製品と、品質は劣るが大量生産できる安価な製品とでは求める層が異なる。その製品がバッグや車などであれば、所有欲や自己顕示欲に訴えかけた開発も可能である。
このように、人間の生活には、人間の欲が深く関わっている。欲望は、技術が発展したり、謎が解明されたりすると一時的に満たされるが、すぐに渇望するようになる。加えて、一度欲求が満たされ次のステージへと進んだ場合、前のステージへと戻ることは困難を極める。携帯電話のない時代、車のない時代、電気がない時代……現代の暮らしからしてみれば『ありえない』とも言えてしまう。さらに厄介なのは、同じものでは欲求を満たし続けることができないということにある。「限界効用逓減の法則」といい、同じ財から得られる効用は、財が増加するとともに減少する法則に基づく。例えば空腹を感じた際、一つのリンゴを食べ、そのときの満足度を百とする。続けて二個目のリンゴを食べたとき、得られる満足度は百よりも小さくなる。つまるところ、同じ欲求の満たし方を続けていると飽きがきてしまうのである。
「最後の飽きるってことだけでいーじゃん……。 なんでこんな小難しい内容なのよ……」
「しょうがないでしょ、背景を知っとかないと解説しろーって問題出た時に答えらんないんだから。 数学の公式と一緒、暗記するだけじゃなく理解してないと意味がないの」
「あ゛あ゛あ゛あ゛数学の話はやめて日和~……。 朝イチの数学の小テスト爆死したのよぉ……」
「身をもって理解できてよかったじゃないの、陽菜」
社会の授業中での大学入試の二次試験の解説であるが、経済学を専攻していたらしい先生にちょっと熱が入ったらしく、おそらく本人は分かりやすく説明しようとしているのであろうが、かえってごちゃごちゃした内容になっていた。要約すると、欲求を満たすためには新規性や付加価値が必要、でも同じものだと飽きる、ということである。考えてみれば当然ではあるが、いざ言葉や文字に起こすとなると途端に分かりにくくなる。
季節は冬のはじめ。受験までもう数えるほどもない時期である。日和たちの通う高校は、この時期三年生は自由登校であった。授業の内容も教科書を追う通常のものから、受験のみを意識したものに変わる。主に過去問の解説や特定の分野に絞った実践および小テスト、模擬試験の様な形式などの授業となる。この期間は、受験で使う科目の解説が行われる授業だけに出るなり、苦手な分野を洗い出すために授業に出るなり、図書館で自習するなりと、とことん自由な期間として設定されている。日和は、先生の脱線する話がためになるかどうかは別として面白く、息抜きになるという理由で社会の授業のみ、陽菜は半ば強制でないと勉強ができそうにないし、わからないところがわからないという部分が多いため一日の授業全部にそれぞれ出ている。家が近く仲がいいこともあり、二人はこの自由登校期間も一緒に登下校している。日和は参加しない社会以外の授業中は図書館で勉強し、陽菜を待つ。志望校が異なるため取る対策と内容も違うが、陽菜の勉強指導兼日和の知識の定着具合の確認のために放課後は少し一緒に勉強した後に下校する。なんてことのない雑談や授業の話などをしながら歩き、別れる。なんの変哲もない、いたって普通の受験生といったところであろう。
一見普通にしてはいるが、日和の内面はそうではなかった。受験期ということで気を張っているためか、いままでよりさらに既視感を覚えることが増えてきていた。予知と見紛うほど正確なデジャヴは不安を抱かせる。得体のしれない力が働いているのかもしれないと言えば多少ファンタジー感があるが、その力を受けている本人は楽観的にはとても捉えられない。高校生であるために事例は可愛らしくあるが、試験や模試を受けるたびに「自分は不正を犯しているのではないか」という思いに苛まされている。思いのままに未来を見ることができたのであればいっそ割り切れただろうが、デジャヴがくるタイミングは不定期であるし、自力で起こすことはできない。このわけのわからなさが恐ろしさに拍車をかけている。
最近では、デジャヴで知覚する内容にも振れ幅があることがわかってきた。一日の出来事をまるまる知ることもあれば、数秒の出来事のみの知覚であることもある。条件も一貫性もなく、ましてや起こらない日もある。陽菜をはじめ、クラスメイトや知り合い、教師や親との会話の内容は、それが果たしてその人物が初めて話した内容なのか、数回話した内容なのかも分からないくらいに会話に既視感を覚える。
「ただいま」
「おかえりなさい、晩御飯できてるけどすぐ食べる?」
「んー……、先にお風呂入るね」
最近日和たちは、入試までの大詰めということもあり、だいぶ遅くまで図書館等で勉強をするため、春日井家では帰宅すると既に晩御飯と風呂の用意がされていることが多い。この寒い時期に帰宅後すぐに風呂に入れるのはありがたいと思いつつ、入浴と食事を済ませる。
就寝の準備が整うと、日和は机に向かう。勉強のためではなく、日記をつけるためだ。内容はその日の授業内容や人との会話、出来事を、可能な限り具体的に、というもの。一通り書き起こした後に、今日の授業は聞き覚えがあるものだったか、友達との会話に既視感は覚えなかったかどうかを記し、過去の日記と照らし合わせる。そして次の日の朝に読み返すために、既に交わした会話の内容を箇条書きにしてまとめておく。
なぜこんなにも熱心に日記を書いているのか。こうでもしなければ、何が既に経験したことであり、次の日以降にデジャヴを感じた時に、それが本当に既に起こったことについて既視感を感じているのか、あるいは初めて経験することなのにもかかわらず既視感を覚えているのかが分からなくなってしまうからである。丸一日中、事あるごとに神経をすり減らす日常。体験見聞きした物事の前後関係が分からなくなる。日和の精神は、日記に記しでもしなければ発狂してしまいそうな、ギリギリの綱渡りの真っただ中にあった。