時計の精霊
青年は大きなホールクロックを買った。
童謡にも出てくるような、大きなノッポの古時計だ。
アンティークの大きな時計は無垢材を使い、重厚かつ繊細な印象を与える見事な彫刻ときらびやかでエレガントな時計版を有している。
何故、青年がこの古時計を買いたくなったのかは定かではない。
古家具屋で異彩を放つこの時計を見た瞬間、無性にほしくなった。
店主の話では、前の持ち主である博士が突然失踪したため古家具屋に引き取られたものらしい。
前の持ち主が失踪したといういわくつきの物ではあったが、それもまた青年にとって魅力的にも思えた。
一目ぼれのような衝動買いである。
値段は張ったが、青年にはそれを払えるぐらいの所得に応じた資産は十分にあった。
青年はこの時計を買った時からこの時計を宝物のように扱った。
人に触らせないことはもちろんのこと、毎日埃をはたき、柔らかい布で優しく拭いた。
ある晩のこと。
青年は酒を飲みながら、この時計をながめていた。
眺めれば眺めるほど、この時計には不思議な魅力を感じていた。
振り子は一定の速度で、左右に揺れ、チクタクと音を奏でている。
それは青年の心臓の鼓動のリズムとピタリと一致し、なんともいえぬ心地良さを与えてくれる。
振り子をながめ、音を聞いていると青年はリラックスし、だんだんと眠くなってきた。
青年はソファに身をうずめ、目を閉じる。
目の前が暗くなり、意識が遠くなる。
青年は夢を見た。
将来、青年と婚約者の間に子供ができ、幸せそうに暮らす夢。
特別な存在である我が子……。
……どれぐらいの時間がたっただろうか?
しばらく眠った後、青年は目覚める。
夢の途中で目覚めてしまったので、意識がぼんやりしている。
ソファに体を預けたまま、時計をじっと眺める。
「おや?」
青年はあることに気づく。
寝る前に見た時計の長針と短針の位置が変わっていない。
つまり、青年が眠りにつく前の時刻と、今の時刻が同じだった。
時計が故障したのだろうか?
青年は少し不安になる。
青年はソファから起き上がり、時計の細部を見てみる。
しかし、歯車は正常に動いており、問題なさそうに見える。
青年はテレビのリモコンを手に取り、電源のボタンを押す。
テレビ画面で、時刻を把握しようと思ったのだ。
テレビの画面は時計と同じ時刻をさしていた。
「おや?おかしいな。私は先ほどしばらくの時間、眠っていたような気がするのだが……」
青年は首を傾げ、テレビ画面の時刻と時計を見比べる。
「その通りでございます」
時計を置いているあたりから声がした。
「なんだ?」
青年はびっくりして声がした辺りを見てみるが何もない。
「空耳か?」
「いえ、空耳ではございません。こちらです」
先ほどと同じ声、とても紳士的な話し方だ。
しかし、声の主が見当たらない。
大きな時計の影に身を隠しているのだろうか。
話しかけたくせに隠れているなんて変わった人物だ。
青年は警戒しながらも、近づいてみる。
時計の死角をゆっくりのぞいてみる。
しかし、人影どころかネズミ一匹もいない。
「こちらです」
「うわぁぁぁっ!!」
突然、耳元で声がしたので、びっくりして叫びながら飛び上がってしまう。
確かにこの時計から声がした。
「間違いなく、この時計から声がしたぞ。一体、どういう仕掛けなのだ?」
「仕掛けなどございません。私はあなたと話せる日が来ることをずっと待ち望んできました」
「待ち望んでいただと?お前は誰なのだ?」
すると、時計の中から、カメのような生き物が出てきた。
背中の甲羅には時計の針と数字が並んだような模様が入っている。
「私は時の管理者。時計の精霊とも言うべきでしょうか」
青年は事態を飲み込めないでいた。
「……その時計の精霊が私に何の用だ?」
「あなたはこの時計を大切に扱ってもらったので、何かお礼がしたいと思いまして、とりあえず睡眠時間のプレゼントです。……実はこの時計は、時計の精霊が人間たちの住む世界に行くための出入口になっています。あなた様がこの時計を綺麗にしてくれることで、私たちはどれだけ快適に人間界に行き来できたことか」
「なるほど、そういうことなのか」
青年はこの時計の精霊と名乗った変な生き物が害を与える存在ではないと知り、安心した。
「では、あなた様のお望みを聞かせてください。私たちはできるだけのことはするつもりです」
青年はあらゆる欲望に思考を向けた。
お金がいいかな。いや、今はすでに不自由しないくらいは持っている。
女がいいかな。いや、女は金さえあれば勝手についてくる。
それに今は、婚約中の女性がいるのだ。
ここで、ほかの女性に熱を上げるわけにはいかない。
他にも、名誉、権力、健康、車、友達など色々考えたが、いまひとつピンとくるものがない。
青年は腕組をして考えこんでいると、時計の精霊が話しかけてきた。
「お悩みのようですね……私からの提案なのですが、あなた様はこの時計がいたく気に入っている様子。おそらく、この時計が時の世界につながっているからでございましょう。そこで、あなた様を時の世界にご案内するというのはいかがでしょう?人間が時の世界に行くことはたいそう貴重なことなので、唯一無二の体験となるに違いありません」
時計の精霊の提案は青年が考えたあらゆる欲と比べても、とても魅力的に思えた。
すぐにその提案を受け入れる。
青年は小躍りをしながら、早速身支度を整えた。
「さて、用意はいいですか?」
時計の精霊は青年に声をかける。
「ああ、いつでもいいぞ」
青年は久しぶりに胸が高鳴っていた。
未知の世界への冒険。
誰も経験したことのない希少な体験。
平凡な毎日からの脱却。
まるで、幼少期に戻ったかのようにウキウキしていた。
時計の精霊は青年の体に触れると、時計の中に入っていく。
精霊に引っ張られるように青年もそれに続く。
青年の体も時計の中に抵抗なく入っていった。
すると目の前が、真っ暗になった。
何もみえない。
精霊の姿どころか、自分の体すら見えない。
青年は恐怖に襲われ思わず、声を上げる。
「何も見えない。ここはどこだ」
「ご安心してください。ここはハザマの世界。時の世界にはもう到着いたします」
精霊の言った通り、それからすぐに目の前に明かりが見えた。
暗闇を抜けると、そこには不思議な空間が浮かんでいた。
まず一番に目に飛び込んできたのは、天を覆う巨大な時計。
長針と短針が何百、何千と重なり合いあった時計は見方によって様々な時刻をさしている。
針の奥では、様々な歯車がそれぞれの周期で規則的に回転し、“チクタクチクタク”とこの世界の音を作っていた。
「おや、あれはなんだ?」
天を覆う時計より手前の位置に、雲のような物体がぷかぷかと浮いている。
しかし、雲のように白ではなく、そこには映像が見える。
「あれは、時の断片の浮雲でございます。星が爆発するようなとてつもないエネルギーを放出、ブラックホールの中のような光すら脱出不可能なくらいの超重力の中では、“時間”という概念がねじれてしまうのです。それで、行き場を失った時間は天に浮かび、雲となって漂っているというわけです」
「……ふむ。私にはよくわかりませんが、時間のカスみたいなものか」
「……まあ、そのようなところです」
時の精霊は少し考えたのち、青年に同意した。
説明するのが面倒だったのかもしれない。
「おや、これは驚いた。こいつは人間じゃないか?」
後ろから声を聞こえた。
青年と精霊が振り返ると、隣にいる精霊と同じような精霊がいる。
「こんにちは。この人は“人間界の出入口の管理者”ですよ」
青年を連れてきた精霊が青年を紹介する。
「ああ、この人が」
もう一匹の精霊が、合点があったかのように納得した。
「あなたは今からどこに?」
「ある時代にまた人間がタイムマシンを作ろうとしているから、それをぶっ壊して、開発者も抹殺してくるつもりだ」
「それは大変だ。私にできることがあれば、言ってください」
「ああ、ありがとう。でも僕一人でも大丈夫だよ。開発者の幼少期に行って殺してくるだけだから」
「そうですか、お気を付けて」
精霊は少し会話をした後、もう一匹の精霊と別れた。
「……タイムマシンを開発する人間は殺されるのか?」
「さようでございます。未来に行くためだけのタイムマシンは問題ございません。しかし過去に行けるタイムマシンは時間の流れが歪んでしまいます。つまり、先ほどの浮雲が大量に産生され、天が雲で覆われてしまうのです」
「そうだったのか……だから、いまだにタイムマシンはできないのだな」
「これも私たちの勤め。人間には申し訳ないですが、時の流れには従っていただければなりません。これは神といえ、絶対なのです」
「神?」
有神論者である青年は神という言葉に反応し、精霊に問いただした。
「神様もこの世界に住んでいるのか?」
「いえ、神は私達に時間の管理を任せた後、どこかに行ってしまわれました。時間の管理は面倒だったのでしょうね……。今頃は、また面白い生き物を、こねくり回して製作しているのではないでしょうか?」
精霊はまるで神様が粘土で生き物を作っているかのように言った。
青年はその後も時の世界の様々なものを見て回った。
楽しい日々が続く。
時の世界では、空腹も感じず、睡眠も不要だった。
どれだけの時間がたったのか分からない。
時の世界は何もかも新鮮で驚きの連続で面白かったのだが、青年はフッと自分の家にある時計のことが気にかかる。
「色々、案内してくれてありがとう。とても面白かった。そろそろ帰りたいと思ったのだが……」
「そうですか。もっと案内したい場所があったのですが……仕方ありませんね。ではこちらへ……」
精霊は男の手をひき、真っ暗なハザマの世界を通って、再び人間界へと戻った。
青年の時計から人間界に戻ると、何か様子がおかしい。
男は見知らぬ家の中にいた。
出た場所が青年の部屋でないことはいいとして、何故、自分の時計が他人の家の中に置いてあるのだ。
いや、それ以上に驚いたのは、この家に置いている家具や家電製品が見たことがないほど未来的な形になっている。
「これはどういうことだ……?」
「おや、どうやら人間の世界では時間が進んでいたようですね……」
カメに似た精霊はけろりとした表情で言ってのける。
男は浦島太郎のお話を思い出していた。
青年は傍に置いてあった新聞の日付を見てみる。
2×××年×月×日。
何ということだ。前いた日よりも50年近く立っているではないか。
「おい、元の時代に戻してくれ」
「残念ながら、過去に時間を巻き戻すことは私達には出来ないのです。時の世界でも言ったように過去に時間を戻すことは神でも許されません」
「そんな、あんまりだ。私には婚約者がいたのだぞ。それに私の財産も。もうダメだ。私には何も残っていない」
「……そう気を落とさないでください。あなたならこの時代でも再び成功することは間違いありません。私には未来がわかります」
精霊は男を慰める。
男はしばらく黙った後、トボトボと時計から離れ、家から出て行った。
「……やれやれ。あの青年には気の毒だが、これで一件落着だな」
精霊は呟く。
「……神め。様々な生物を作るのは勝手だが、今度はタイムトラベルが出来る人間をつくろうとしやがった。あの青年と婚約者の間の子供にその能力を持った子供を作らせないようにするのに、どれだけ私たちが大変な思いをしたか……。しかし何故かな……以前タイムマシンを作り、それが原因で私達に始末された博士もそうだが……人間は何故それほどに時間を操りたいのだろう……?どうせ同じ過ちを繰り返すだけなのに……」