後編
結局、僕は夜の街に消えていったIを見つけることはできなかった。バイト先も辞め、気に入っていたラーメン屋にも姿を現すことはなかった。
十二月の初めに僕は、詔子と彼女の勤め先の近所の喫茶店で会った。あまり気乗りはしなかったが、どうしても話したいことがあるのだとせっつかれ、仕方なくでかけた。洗いざらしたジーンズにジャンパー姿はオフィス街では目立つ。場違いなところに迷い込んだようで、落ち着かなかった。
待ち合わせの店は詔子が務める保険会社のビルの地下にあった。詔子はびしっとしたスーツを着て、同僚らしき男女とお茶を飲んでいた。彼女は僕に気づくと、仲間たちに二言三言、笑顔で言い残すと、席を立ちこちらにやって来た。彼女は目で合図すると、僕を店の外に連れだした。
「なんだいお茶を飲むんじゃなかったのか?」
「ごめん。急に人と会わなければならなくなった」
詔子はそういうと、バックから小さな封筒を取り出した。
「年末は同僚たちとグアムで過ごすことになったの。それでこれはあなたの分のチケット」
「僕も行くことになっているのかい?」
「ええ。他の人も家族や恋人を同伴することになっているから、気を使わなくていいわよ」
「申し訳ないけど、遠慮しとくよ」
「そう。なら別の誰かに回すわ」
彼女は理由すら問いただすことはしなかった。さっきの同僚たちがレジの辺りにいるのがガラス越しに見えた。
「もう行ったほうがいいんじゃない?」
詔子は頷くと、エレベーターのボタンを押した。
「あなたと付き合って五年になるのね。青春の半分は一緒に居た勘定になる」
「そうだな。でももう青春て歳でもないさ」
「そうね。そろそろ精算すべき時期にきてるのかもね」
彼女はエレベーターに乗り込むと、扉が閉まるまで僕の顔をじっと見つめいた。
小説を書く気にもなれず、僕はひたすらバイトに精を出した。肉体労働は性に合っているらしかった。夜は黙々と働き、昼間は死んだように眠る。他には何も考えない。自分の中身が空っぽになっていくうよだった。その空間に宿る神があるならどんな神なんだろうと僕は思った。
修道僧のような暮らしが一月ほど続いた。
Iが僕を訪ねてきたのは、暮れも押し詰まった雨の夜だった。
久しぶりに会ったIはすっかりやつれていた。元々白かった顔色は青白く、肌の張りもなくなっていた。何より、印象的な黒い瞳は以前のような輝きを失っていた。
「随分、お見限りだったじゃないか。それに君、まるで大病して入院していたみたいだぞ」
「すこし体調を崩していたんです」
Iは力なく笑った。
「それでも連絡くらいはするもんだ。これでも心配はしてたんだ」
「申し訳ありません。あんなことがあった後だから、連絡しづらくて。あれから彼女とはどうなりました?」
「相変わらずさ。君が気にすることはなにもないんだ。お互いの意思とは無関係に彼女と僕の縁は強いらしい」
自分でもたいして信じていないことを言うのは心苦しかったが、彼に余計な気を使わせたくはなかった。
「僕が言うのも何ですが、それはよかった」
「それより何か用があったんじゃないのか?」
「実は先輩を旅行に誘いに来たんです」
「なんだい藪から棒に」
「ほら先輩、年末は小説を書くのに集中するって言ってたでしょ。僕の実家の近くに懇意にしている旅館があるんです。あんまり有名じゃない温泉が近くにあるくらいで、寂しい山の中ですが、小説を書くにはちょうどいいかなと思って」
「それは魅力的な提案だけど、なんせ先立つものがなくてね」
「その点はまったく心配ありません。費用は僕が全部持ちます。いままでのお礼の意味を込めて」
「なんだいそれは。まるで別れの挨拶みたいだね」
「大学を辞めることにしたんです。それで貯めたお金も必要なくなりました」
あまりにも唐突な話に僕は言うべきことを失った。
僕は嫌がるIを説得して、旅費の半分は持つということで、同意した。この機会を逃せば、それがIとの永遠の別れになるような気がしたからだ。
翌日の夕方、Iは黒いランドクルーザーに乗って迎えに来た。
年末を海外で過ごす友人から借りたのだと言う。Iにそんな友人がいることが少し意外だった。
「今から高速を走れば夜中には着きます。魔法瓶にコーヒーをいれてきたので、よかったら飲んでください。できるだけ休憩なしで走りたいので」
Iはそういうと車を走らせた。僕たちはほとんど話さなかった。
車はひたすら北を目指した。
魔法瓶のコーヒーがすっかり空になった頃、僕は深い眠りに落ちていた。
Iに揺り起こされて目を覚ました。
「もう着いたのかい?」
まだ意識はぼんやりとしていた。
「申し訳ありません。どうやら道に迷ったようです。下手に動きまわるより、夜が明けるまでここに居たほうがいいでしょう」
外は一面の雪景色だった。僕は車を降りて、煙草に火を付けた。
音もしない青白く浮き上がった世界は時間を止めたようだった。木々の開けた場所に停められた車と僕たち、今では轍すらも消え失せていた。ここに辿り着いた痕跡を見いだせるものはなにもない。
「明るいもんだね」
「ええ、雪はわずかな光でも反射しますから」
「なるほど、しかしそれは誰のために必要な光なんだろうね」
Iは長いまつげを瞬かせて、僕を見ていた。しかし、その黒い瞳にはなにも映しだされてはいなかった。
「ここでは命があることは罪なのです……先輩、このまま僕と消えてしまいませんか?」
詔子と初めて過ごした夜、見上げた天井は真っ白だった。そして今ではそれはすっかり黄ばんでしまった。
「すまない。僕は行けないよ」
Iは小さく笑うと、背を向けて歩き始めた。僕は足跡のないその後姿をじっと見送った。
次に目を覚ましたとき、僕は病院のベッドにいた。
「もうひとりはどうしました?」
僕の質問に看護師は「ここに運ばれたのはあなただけですよ」と答えた。
「そんなはずはない。車の中にもうひとり居たはずです」
「車? あなたは行き倒れてたんですよ。地元の人が通りかからなければ危ないところだったの」
彼女はもう質問は打ち切りだという調子で人差し指を僕の唇に当てた。それから耳元で囁いた。
「あんな素敵な彼女がいるんだから、命を粗末にしてはだめよ」
僕は跳ね起きて、病室の扉を開けて廊下に飛び出した。
薄暗い廊下の突き当たりにある自販機の横に詔子はいた。不機嫌な顔で、長椅子に腰掛け缶コーヒーを飲んでいた。
「来てくれたんだ」
横に座った僕に「まずいわね。これ」といって缶を押し付けた。
「そりゃ缶コーヒーだからね」
「グアムのホテルに電話があったの。あなたがこの病院に入院してるって」
「まさかIから?」
「たったそれだけ言ったきりで、電話を切ったわ」
「いつのこと?」
「あなたが雪山で寝ている頃よ。それですぐに飛行機に乗って、東京に戻り、車でここまで来たわけ。あなたは目を覚まさないし、警察には色々聞かれるし、散々な目にあったわ」
「それでも来てくれたんだ」
「言ったでしょ。私は自分が払ったものは最後まで食べるって」
目を閉じると、詔子は僕の肩にもたれかかった。
了




