孤独理論
独りであることと、一人でいることは違うという。わかりやすく言うのなら、物理的に一人でいることと孤独であるという事は違うという事だ。
現代人というやつは独りも一人も嫌う。孤立する事を恐れて大勢に迎合する。別にそれが悪いとは言わない。人間はひとりじゃ生きられないという。その割に若者は独り立ちして一人暮らしをしたがるが。まあ結局、それも家の中に人がいないというだけで余所に人との繋がりを作ることを前提としたものだからだろう。
人はひとりでは生きられない。悪くない響きだ。だが、どちらかといえば、他者との繋がりをなくしては生きられない、ということなのだろう。物理的なものであれ、精神的なものであれ。繋がりを無くせば、そこに居るのは人間ではなくなる。何になるかはそいつ次第だろうが。大抵は獣となるのだろうが、中には神になるものもいるのかもしれない。
物理的な繋がりを断って、例えば家に引きこもるなり山籠りするなりしたとして、それで人との繋がりが断てるかは難しいところだ。言葉を操るのは人と繋がる為で、見てくれを気にするのは他者の目を意識するからだ。実際他者に見せることはないとしても、それを己の中に居る他者が見ることになる。或いは、それを選んだよりも後の自分かもしれないが。
過去の己と未来の己は同一であり非同一でもある。それをいちいち意識する人間は少ない。そんな事を考えるよりも、夕飯の献立とか、明日の衣装のコーディネイトとか、流行りの音楽だとか、そういう日常を考える方が有意義だとされているからだ。実際、考えずに済んで、思い付きもしない方が生きるに楽だろう。まあ、俺の様な人間は考えざるをえないわけだが。
俺は孤独を恐れない。何故なら既に孤独だからだ。見えているものが違う、意識を共有できないというのも一つの孤独だ。そういう意味では、ルナシーとは皆多かれ少なかれ孤独を背負っているのだろう。似たような孤独の持ち主が、寄り集まって慰め合う。そういう側面が例の組織にはあるのかもしれない。
共感は孤独を癒してくれる。己は独りではないのだと思わせてくれる。なら、誰にも共感できない人間は孤独なのだろうか?俺はそうは思わない。どちらかといえば、孤独なのは共感されない側の人間の方だろう。自分から、自分独りで完結していることと、人との繋がりが築けないことは、表面上は同じに見えても、内実は全く違う。自己完結できる人間は寧ろ、孤独ではなく孤高と呼ぶ。しかしまあ、俺は孤高ではない。
俺は独りは平気だが一人は苦手だ。俺は物語の中で一人称で語ることを許されていない。主人公に、視点主になることができない。常に誰かの視界の中でしか己の存在を示す事が出来ない。誰にも観測されていない時の俺の存在は匣の中の猫と同じだ。生死のわからない、あやふやな存在になる。こうして文書を残すのも、ある意味己の痕跡を世界に残しておきたいからなのかもしれない。悪あがきにも等しいだろうが。読まれない文章など、存在しないのとそう変わらない。
俺が一人が苦手なのは、一人でいると己の実在があやふやになるからだ。俺が一人いるだけでは、物語は成り立たない。世には三人称視点なるものもあるらしいが、それも結局は"その場に居る人間の"視点ではないというだけだ。要するに物語を綴る神の視点なのだろう。内心を明かすには喋る他ないが、神相手に持論を展開しても虚しいし、虚空に向けて話しかけていては、それはただの狂人だろう。俺は大抵の人間に狂人と見做されているが、それでも俺なりに狂人としての誇りみたいなものがある。俺は、筋の通らないことはしない。その筋を他者に理解されないのが俺の狂人たる由縁な訳だが、まあ、俺はそういうものとして作られたのだから仕方ないと言えば仕方ない。
他者の目を通してしか己の姿を確かめられないというのがどういうことなのか、神はわかっていないのだろう。だからこのように残酷な事が出来るのだ。(以下塗りつぶされた様な跡が紙を埋めている)