森の中の魔女と、その始まり
僕の住む山の中にある小さな村には、絶対に足を踏み入れてはならない森がある。
そう教えてくれたのは、三年前に天寿を全うした僕の祖母であった。
物心付く前から、何故か僕は祖母と衣食住を共にしていて、子供は自分一人だったのもあって、殆ど祖母と一緒に居た。
祖母は不器用な性格で、無口で無愛想な女性であった。でも悪い事をした時や、薬草摘みの手伝いで山の中に入って帰りが遅い時は叱ってくれたので、とても母性本能溢れる良い人であった事も確かだ。
そんな祖母が天へ還るかの間際、ずっと寝たきりだった上体を起こし、これまで一度も聞いた事が無かった優しい声で、初めて彼女が名付けてくれた僕の本名を呼んでくれた。
僕は嬉しくて笑顔で彼女の傍へと寄る。彼女の皺だらけの骨張った手が、僕の頬を優しくさするように撫でる。とても温かい手だ。
嬉しくてにやけてしまった僕を見て、「何だい、その顔は?良い歳のガキがする顔じゃないよ!」と頬を抓られたが、それでもにやける僕に、彼女も小さく吹き出した。初めて見る彼女の笑顔は、慈愛に満ちていた。
「私が今から話す事は、絶対に他言無用だよ。良いね?」
「う、うん」
「お前、この国に魔女が住む森がある事を知ってるかい?」
彼女の言葉に、叫びそうになった衝動を押さえ込む。僕が話す相手なんて、彼女以外に存在しない。
「知らない」
「そうかい。…遠い昔の話になる。私達の住むこの国から海を渡って行くと、ヨーロッパと呼ばれる国が存在するんだ。そこで、魔女達は次々に殺されて逝ったんだと」
「な、んで?」
「さあね。だけど、魔女以外にも、使い魔と言われていた猫達にまで被害が及んだんだから、何か相当の理由があった事は確かさ」
「それで!…魔女は滅んだの?」
僕の言葉に、彼女はゴスン!と凄い音を立てて僕の頭を殴る。殴られたのなんて、一体何百年ぶりだったろうか?
「滅多な事を言うもんじゃないよ!大体、今目の前に天寿を全うする魔女が居るじゃないか!?」
彼女の言葉に、頭痛とは別に目眩を覚える。
初めて聞いたよ、彼女のギャグ。
「お、ばあちゃん?笑いにくい冗談は…」
「冗談なもんかい!お前、私と暮らしてて、何も気付かなかったのかい?」
「え?」
「病人なんて来ないのに、毎日薬草摘みや調合をしたり、やけに毒草に詳しかったり…。何より、こんな山奥に住んでいるんだよ?」
それ確か前に聞いたじゃない。そして何でか怒り出して、その日の薬草摘みを全部させてたじゃんか。
そう言いたいのを必死に堪えていると、祖母は勝手に話を続ける。
「まぁ、私が魔女なのは本当さ。魔法も使えるが、使う度に寿命も削られる。何より、お前を拾ったのがきっかけで、もう箒の乗り方すら忘れちまったよ」
最期が近いからなのか、彼女は今まで以上に喋るのだが、とんでもない単語が聞こえた気がして、僕は慌てて待ったをかける。機嫌を損ねてしまう彼女に、今の台詞を再度言い直してもらい、流石に大声で叫んでしまった。
「僕、捨て子だったの!?」
「気付いてなかったのかい!?かぁ…。お前は本っ当に鈍い子だね。」
呆れ果てた祖母の言葉に、またまた僕は衝撃を受けた。僕って鈍感なの?と。
しかし、更なる衝撃の事実が僕を襲う。
「お前に黙っていた事は、まだある。お前に森の中へ入っちゃいけない、と言ったのは覚えているかい?」
「うん」
「その理由は、あの森を抜けたら人間の住む世界があるからだよ」
祖母の言動に、徐々に怒気が含まれてくる。
彼女は森の中には絶対に近寄らず、何か怪しい物音がしようものなら、畑を荒らす野生動物に言い放つような喝を入れる。腹の底から叫び出すので、その威力は絶大だ。
僕はそれを、ババフラッシュと呼ぶ。
それだけ人間嫌いな祖母が、何で外の世界の話をするのか。答えは分かっていた。
「私が死んだら、お前は独りになる。森に寄らせんかったのは、顔の知られていないお前を人間に戻す為だよ。…どうする?」
彼女の問いかけに、僕は一点に彼女の目を見つめる。
どうするも何も、そんなの答えは一つだ。
「おばあちゃん。僕、森の外の事なんて何も聞かなかったし、これからも近寄らないよ。だから死ぬなんて…言わないで?」
涙ぐむ僕を見て、祖母は瞠目していた。
彼女は表情で驚いた事を表現する。恐らく、僕も無意識にしているのかも知れない。
暫く僕のしゃくれた泣き声が響いた後、彼女は乱暴に僕の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「ありがとね。そう言ってくれるのは、もうあんただけだ」
そう言うと、彼女は僕と額をくっつける。くっつけた所から、僕の脳内に彼女の声が響き、脳内で様々な情報が映像と説明付きで流れてゆく。頭が割れそうなくらいの情報量に気が遠退きつつある中、額を離した彼女は優しく言った。
「私の専門とする魔法は、生まれ付き持っていた不老長寿と、空間を操る結界の異空間魔法さ。…これを全部お前へ渡す」
「…っ。おばあちゃん、頭が痛いよ」
「一度に多大な情報と能力を与えたからね。それくらいは我慢しておくれ」
そう言うと、今度は謎の歌を口遊みながら、僕の掌に何かを描き出す。それは歌い終わると、僕の体を酷く重くさせる。
霞がかる眼で彼女を見ると、その顔には死相が見えており、体も小刻みに震えていた。祖母の布団の上に倒れた僕を愛おしそうに見つめ、祖母は満面の笑みで言った。
「本当に…今までありがとね?私の可愛い子。…さようなら」
そこで僕の意識は完全に途切れ、次に目を覚ました時には一年の月日が流れていた。
雑草畑になった裏の畑を見て、時間の流れを察し、更に外の光景に愕然とした。無人家が数件あったはずなのに、何処にも見当たらない。しかも、住んでいた家には薬屋の看板がかけられている。
(…本当は寂しかったんだね?)
慣れない日本語で書かれた木製の看板を見上げ、僕は一つの目標を定めると、早速行動へと移した。