第五十八話 遺跡の町×合流×波乱の予兆
「あの、大丈夫?」
視線を向ければ、見たことのない女が俺をのぞき込んでいた。
「うわー、全身びしょ濡れだねー。びっくりしたよー。まさかそんな壁の泉から人が出てくるとは思わなかったからさー。とりあえずはい、タオルー」
俺が何も言えずにいると、その女は肩から下げていたカバンからタオルを取り出し、俺に手渡した。
「あとは、火ー?それとも宿屋に行くー?てか立てそうー?」
女は呆気にとられる俺の回答を聞かず、カバンから火打石やら木くずやらを次々取り出し、三脚のような鍋置きと小さな鍋を取り出した。
そのカバンどうなってんだ。
そして火打ち石をカチカチとぶつけ、火をつけようとする。するとピロリンとおなじみの音がした。
『普通のカバン』
普通のカバンなんかい!
こんなことでもステータス画面は表示されるらしい。
「あー、もう火打石って不便―!魔法が使えたらどんなに楽かー!って使えないものをどうこう言っても仕方ないんだけどー!」
やっとのことで火の粉が木くずに移り、火が勢いをつける。女はそれを見て鍋を持って立ち上がり、俺の背後に進む。俺がその様子を目で追うと、俺の後ろには、ドラゴンっぽ顔の口から水が噴き出る壁があった。それは漏れ出ている水というものではなく、欠けてはいるが水受けもちゃんとあるので町の水道の一つなのだろう。そういえば、さっき俺は壁の泉から出てきたと言われたよな。てことは、ここから出てきたってことか?どうみても人が一人出てこられるような大きさじゃないんだけど。
というか、ここは町なのか?
状況を把握しようと周りを見回そうとしたところで、女が鍋に水を入れて火の上に置き、湯を沸かし始めた女は俺に視線を向けた。
「もう、ちゃんと拭いてよねー。何のためにタオル渡したと思ってるのー?」
女は俺の手にあったタオルを奪い取り、俺の頭をわしゃわしゃと拭き出した。
「わっ!おい、やめろ!自分でできるから!」
「やっとしゃべったー!実はしゃべれない人なのかと思ったー!」
その女はほっとしたように笑って、俺に湯気のたつコップを渡した。
「はいー、あったまるよー」
押し付けられたコップを手に取り、俺はようやくその女をまじまじと見た。女は肩まで届くか届かないかの珊瑚朱色の髪と瞳を持つ、俺とそう年は変わらなそうな見た目だ。年季の入った煤けたマントとカバンを持っていて、頭にはゴーグルのようなものが乗っていた。
そのあっけらかんとした態度から変なことはされなさそうだと判断して、俺は手渡されたコップに口をつける。
「……ぐふっ、にが!」
めちゃにが!
思わず吹き出したのを、女はゲラゲラと声をあげて笑った。
「あっはははははー!せっかく貴重な海のさざ波茶なのにー!まあ確かに慣れないと吐くほど苦いかぁ……。でも体には良いはずだよー!三年くらい前に行ったシチューラ海の港町で風邪ひいて寝込んだ時に、お世話になったおばさんが飲ませてくれて、私元気になったからねー!あれ、海のさざ波って消費期限あったっけー」
「おい!」
誰だよ、変なことをされないとか言ったやつは。あ、俺か……。
海のさざ波というのは確か……。そこで自然と湧き上がろうとする知識に、俺はなぜか歯止めをかけた。海のさざ波なんて、俺は知らない。そもそもさざ波とかは波の一種であるはずだ。だがこの女の言い方だと茶にできるような何かのようだ。
俺がふと手を動かすと、地に置かれた魔導書に手が触れた。相変わらずこいつはついてきているらしい。
魔導書をパラパラとめくると、とあるページで手が止まる。
『海のさざ波…世界中の海で生息する海藻の一種。白い泡のような姿をしている。温かい海、冷たい海、どこでも生息でき、シチューラ海でのみ食されている。体を温める効果があり、便通もよくなる。ただし、生で食べると腹を下す。乾燥させたものだと賞味期限は二年。生だと一週間』
……賞味期限しか書かれてないな。消費期限と賞味期限は違うんじゃなかったか。残念ながらその知識を習った家庭科の授業はうろ覚えだし、教科書も手元にはない。そこまで考えて、俺は自分がどうしてこんなところに来たのかを思い出した。
そうだ、俺は海の底の町、水聖殿から地下水の道を通って地上に戻ろうとしたんだ。そこで出会ったミツハやユキシロの話では、この地下水が繋がっている地上のどこかへ出るという話だった。地上のどこに出るかはわからないという話だったから、見知らぬ場所にいるのは仕方ないとしても、あの時俺は自分と契約した魔獣である月夜とやきとり、そして白桜。あとはたまたま出会って道中を共にしているエレノアとアランと一緒に地下水の道である湧水道を使ったはずだ。
視線を走らせると、多くの瓦礫が残る場所だとわかる。建物はあるが、どれも砂に半分埋まっているような状態で、なんというんだろう。砂漠の砂に埋まっている風化したような場所だ。
『遺跡の町 ルイン』
ぴろりんと最早馴染んだ音で表示されたウィンドウには町の名前が記されていた。
ここは、ルインという町であるらしい。町というにはここから見える分だけだと廃墟にしかみえないんだが。そして月夜達も見当たらない。
とりあえずこの場所が町であるということがわかったところで、次の疑問が頭をもたげる。
目の前の女は誰だ。
「そういえば、あんた誰?」
「あ、ごめんなさいー。名乗ってなかったねー。私はテルマ・シアンベルクー。あなたはー?てかなんで泉から出てきたのー?あ、もしかして魔法ー?!」
「テルマって……あんた歌うたう人?」
「えー?歌をうたうって吟遊詩人とかー?私はこの辺の遺跡掘りに来ただけのしがない冒険者だよー。なんでそう思ったのー?」
「いや、こっちの話だから気にするな」
いやだって、シアンって青って意味だろ?たしか。んでベルクってのは山。ほら、なんか思い当たっちまうじゃねーか。
「俺は……名前はユート・オガタ。まあいろいろあって、水の道を通ってきたんだ。多分、そこの壁から水と一緒に出てきた……んだと思う」
たぶんこの壁泉が湧水道の出口だったんだろう。そもそも地下水に乗って移動できるってこと自体が不思議体験なんだ。出口が水道であっても不思議ではない。
「いや、たまたま通りかかってるときにその場面を見ちゃったけどー、こんなに穴が小さいのによく出てきたよねー!てかやっぱそういうのって魔法のおかげとかだったりするのかなー!君は魔法が得意な人ー?」
「え、いや魔法とかまだよくわからないし……。水の道は魔法が関係してても原理とか俺にはさっぱりわからない話だしな」
「そうなんだー。珍しい魔法の話が聞けると思ったのにー」
テルマはがっくりとうなだれる。
「あんた、そんなに魔法に興味があるのか?」
「うんー。私魔法が一切使えないからねー、憧れもあるし、私の弟がねー、とっても優秀な魔法使いなのー!昔はいろんな魔法を見せてくれたんだけどー、最近はなかなか会えないうえに、私が質問しても答えてくれないのよー。小さい頃は私がどんなにしつこく質問しても丁寧に答えてくれたのにー。あ、でもねでもねー!昔からやさしい子で、時々心配して手紙をくれるのー。まあ文字での手紙はないんだけど、いろんなあの子が開発した魔法とか道具とか送ってくれてねー、私が少しでも不便がないようにって気を遣ってくれるんだよー。それでねー!」
「あー、もういい!わかった!あんたがその弟が大好きなのはわかったから!」
「あ、ごめんつい……」
テルマは詰め寄っていた俺から離れる。ふと視線をずらすと彼女の肩越しに崩れた建造物の間でぽつぽつ集団が動いているのがみえた。どうやら砂に埋まった遺跡を掘っているらしい。よくよく見てみると、発掘のために労働している多くは獣人のようだ。
少し頭に引っかかることはあったが、俺はそこから視線を引きはがした。
「なあ、ここがどこか聞いてもいいか?」
「ああ、現在地わからないのかな?ここはローズリン大陸の東にある、遺跡の町ルインー」
「遺跡の町?」
「そう。古代に作られた建造物がそのまま現代まで使われてー、人々が生活してる町ー」
「生活してる……ねえ」
そう言われて見回してみも、周りは崩れた建造物や瓦礫が多く、人が住んでいるとは思えない。むしろ砂に埋まっていて住めそうに見えないんだが。
俺の考えを察したテルマは苦笑した。
「あー、ここらへんは町のはずれだからねー。もう少し中心に行くとちゃんと人が住めるような建物が残ってるんだよー。よかったら、行ってみるー?」
「いや、実は連れがいるんだ。だけど途中ではぐれたみたいなんだよな。同じ町にいるとも限らないけど、もしいるなら合流したいんだが……」
「ほうほうー。その人って、どんな人―?旅慣れてる人ー?」
「どんな人……旅慣れてる?」
俺はエレノアとアランを思い浮かべてみる。
「うーん。一人はたぶん旅慣れてると思う。いっつも割れた眼鏡かけてでかいリュックを背負ってる、背のひょろ長い男なんだけど、世界中を旅して研究してるみたいなこと言ってたし。もう一人は、旅とかしたことないんじゃないか。金髪に黒い目のめちゃくちゃ強い、良いとこのお嬢様だしな」
アランは魔物を調べるためにフィールドワークをしていると言っていた。本人はドジでよく転んだりするうっかりさんだが、旅には慣れているだろう。反対にエレノアは深窓のお姫様だ。旅に出ていたとしても、お供がいっぱいの中での旅しかしたことがないんじゃなかろうか。後者に関しては勝手な想像だけど。
「そっか、お連れさんは二人いるのねー」
「あと猫と鳥がいるな」
「へえ、猫さんと鳥さんも旅してるなんて楽しそうだねー!それと、そのお連れさんたちとはぐれたときの集合場所とかも決めてないんだよねー?」
「あー、決めてないな」
そうか。俺はスマホがあることに慣れて、はぐれたときの集合場所を決めておくなんていう発想が全くなかったが、この世界はこういう時の連絡手段がない。誰かと行動するときはあらかじめ集合場所や連絡方法を取り決めておくべきなんだな。
……まあ、エレノアとアランもまさかこんなに共に行動することになるとは思わなかったし、そもそも一緒に旅をする約束なんかもしていない。成り行き上しばらく一緒にいただけなんだから、約束もへったくれもないんだが。
『連絡手段はポケベル。気になるあの子と電話したくても、掛けられるのは家の電話だけだから、相手のお母さんが出て気まずい思いをする、あの甘酸っぱい思い出を経験することはないんだよねぇ、優人君の年代の人は』
っ!急にでてくるんじゃねーよ!てか、そんな甘酸っぱい思い出とやらをお前が経験したかのように語ることにめちゃくちゃ違和感があるんだけど?!この世界に電話ってないんだろ?!
『ないねぇ』
じゃあなんで知ってるんだよ!
急に出てきたウィンドウ画面に俺は心の中で叫ぶ。この世界の神だというこいつは気まぐれに俺しか見えないウィンドウ画面で俺に話しかけることがしばしばあった。
俺が神と心の中で会話しているうちに、テルマはぽんっと手を叩いた。
「じゃあ、とりあえず冒険者ギルドに行ったらー?」
「冒険者ギルドに?」
「そうそう。冒険者ギルドって教会の次にどこの町でもあるからさ。旅をしてる人達はよくそこを集合場所にするし、そういうの決めてなくてもはぐれたときなんかはそこに集まるのが定番なんだよー。だから、そのお嬢さんはわかんないけど、旅慣れたお兄さんならそこを目指すかもよー?」
「なるほど」
アランやエレノアがこの町に同じようにたどり着いているかはわからないが、もししなければ何かしらの情報を得られるかもしれないし、冒険者ギルドに行くのはいいかもしれない。最初からともに旅をすると決めていないエレノアとアランはともかく、使い魔である月夜とやきとりは合流したいし、その方法も考えないといけないしな。
「わかった。冒険者ギルドに行くことにするわ」
「りょうかいー!よかったらそこまで案内するよー!」
「いいのか?」
「いいのいいのー!袖振り合うも他生の縁って言うでしょー。それに、私も少し君に興味があるー」
「興味?」
「うんー。だって、君獣人でしょー?なのに、今まで会った獣人達より警戒心はないしー、自分で旅してるしー、そもそも魔法が使える?っぽいしー不思議なんだよねー」
そこで俺ははっとした。そういえば、俺は今呪いで獣人の姿になっているんだった。
「……俺は獣人じゃない」
「え?」
フードを深くかぶり直し、俺はテルマに向き合う。
「案内、頼んでいいんだよな?」
「……うんー、もちろんー。こっちだよー」
俺の事情を深堀せず、テルマは歩き出した。彼女についていくと、進むにつれて段々と人が増えてきているのがわかる。さらに歩き進めると屋台や出店などが多くあって、人も多く賑わう場所まで来たようだ。だが通り過ぎる人々は武装していたり、旅装していたりと、定住しているようにはあまりみえないのだが。
「ああ、そうそう今は住んでる人はほとんどいないかもねー」
「今は?」
「そうー。数週間くらい前はもっと綺麗な町だったんだよー。もともと遺構目当ての観光客が多い町だったしー、町自体が歴史的に重要な研究対象だったからー、たくさんの人が普通に暮らしながらもすぐ横では遺跡を掘ってるような町だったんだー。すごいんだよー、この町少なくても千年前から住居の区画が変わってないらしいよー」
「住居の区画が変わってない?」
「そうそう。なんでかっていうとねー、この町自体は数千年前からあったんだって。現在まで町としては廃れて何回か人がいなくなることはあったらしいんだけどー、建物とかはずっと残ってたみたいなんだよねー。しかもそれぞれの家に上水道、下水道が完備されているうえに、建物自体は老朽化しててもそれらの水道は全然劣化してないらしいのー。こんなの首都シュバルツにもない技術なんだってさー。そもそもこここら辺の水道や井戸の水もどこからきてるのかもわからないし、下水道がどこに流れて行ってるのかもわからない。どういう原理で町の機能が生き続けてるのが全くの謎なんだってー。だから下手に町の物を動かせないんだってさー。でも上下水道完備とか超便利だから、家は中身を変えないまま壁とか屋根とか外側だけ建てるんだってー。だから区画が変わらないらしいよー」
「へー。なんというか、歴史ロマンの町なんだな、ここ」
日本でいうと京都とかみたいな感じだろうか。区画が変わってないのかはわからないけど、あの有名な碁盤の目だという道は基本的に平安京の頃から変わってないだろうし。
『京都の通りね。名前は変わってたりするけど、形はあんまり変わってないよね』
いや、なんであんたが京都を知ってるんだよ。
「そうそうー。ところが今はご覧の通り観光客と歴史とかの研究者と、冒険者ばっかりいるのー。なんでかっていうと、ここ最近地震が頻発しててねー、おかげで遺跡の町が瓦礫の町っていう、ご覧のあり様なわけー。さっきいた町のはずれも元々廃墟だったとはいえ、砂に埋もれたのは地震があったからなんだよー」
「……壊れたってことか」
「そうー。だから昔から住んでる住民は怖くて住めなくなっちゃってねー、危険だしみんなしてお引越ししたわけー」
「それでも、これだけたくさん人がいるのか?」
「ここの遺跡は歴史的に重要って言ったでしょー?ここに埋まってるものも地上に出てる部分もお宝の山なのー。この町のシステムを解き明かしたい学者はごまんといるし、だから壊れる前に重要な発掘物は安全な場所に運び出してたりー、もうこの町が崩れてこれから先見れなくなるかもしれないと思った人達が今のうちにって観光に来てたりねー。何よりここの遺跡は、掘れば魔剣が出る。地震が酷くなって完全に埋まってしまう前に掘り出してしまおうって考えてる冒険者達が大勢押しかけてる」
「なるほど」
そうこうしているうちに、とある木造建ての建物の前にたどり着く。ここまで歩いてきた中で見かけたのは石造りの建造物ばかりだったので、逆にそれは少し不思議なたたずまいにみえた。そしてその看板には見覚えがある。
「冒険者ギルド?」
「そそそ。とうちゃーく!お連れさんを待つついでにそのびしょびしょの服、乾かしてもらいなよー。多分火系の魔法が使える職員さんとかいるだろうしー」
とテルマがそう言った瞬間、俺のカバンからテッテレー!という音がなった。
『え、どこかにドッキリ大成功の看板ある?てかドッキリってどこかにあった?!』
あー、もううるせえな!
俺は神を無視して音の元を探ると、カバンから出てきたのはスマホの形をしたギルドカードだった。
何度もテッテレー!という音が響き渡り何事かと確認すると、ギルド日報が大量に更新されていた。
「なんなんだこれ!」
「えー!私ギルドカードは持ってないから知らないよー!というか、ギルドカード持ってるのー?!」
テルマが驚いた顔をしている。
ギルドカードをよくわからないままいじっていてわかったことだが、どうやら冒険者ギルドに近づくとこのギルドカードは情報を更新するらしい。スマホの通信を何日も切っていたのを一週間後つなげると、着信履歴やらメールやら通知やらがどっと入ってくる、あのような感じなんだろう。
とりあえず通知音をなんとかしようといじっていると、気になるタイトルがいくつか目に入った。
『聖女エレノア様病気にて死去!』
『新たなる聖女はエネルレイア第二皇女リリア殿下。聖女の印現る』
『勇者ヨーイチ、フェルテラ国大公に依頼され、次の訪問先は遺跡の町ルイン』
……は?
俺がその表題について考えようとしたとき、野太い声が響いた。
「こら、やっと捕まえたぞ!手こずらせやがって!」
「うーっ!ふーっ!」
屈強な男達に首根っこを掴まれているのは白い毛の耳と尻尾を持つ小さな獣人だった。必死に抵抗しているが力では叶わないようだ。
ジタバタと手足を動かしている拍子に、その小さな手の鋭い爪が男の腕を引っ掻いた。そこからつーっと血が流れる。
「っ!この、獣人のくせに!」
そのこん棒のような足が、幼い獣人の腹に叩き込まれた。獣人は毬のように弾き飛ばされて、地面をこする。
「かっ!ひゅー」
「ははっ。ボールみてぇだな!」
「おい、ちょっと遊ぶか?」
男達は興が乗ったのか、その幼い獣人をボールのように蹴りあっていく。
獣人だ。小さな子供だ。それがこれだけ暴力をふるわれているというのに。道行く人がこれだけいるというのに、誰も助けない。ちらりと視線を向ける人や、見物している人はちらほらいるが、誰も止めに入らない。しかも、その視線も違和感がある。その違和感はなんだろう。
おそらく日本でこんな光景が繰り広げられれば誰かが警察を呼ぶだろう。またある人は相手が怖ければ、ただ眺めるだけで手を出さずとも、その光景に痛々しいと思うだろう。好奇な視線を送るだけの人間もいるかもしれない。助けたいが躊躇している人がいるかもしれない。もしくは、勇敢な人間は止めに入るかもしれない。つまりそれらの人々は、その暴力が悪いことだと理解しているのだ。
だが、この場の空気はそれとは違う。それはなにかと思って、俺は気づいた。そう、ここに漂うのは、“普通”なのだ。この光景はいつものことであると、当たり前であると、そんな空気が流れている。
俺は、その事実に気を取られて、自分が動くのが遅れた。
いや、それは言い訳だったのかもしれない。あの、霧の教会の時とは違う感覚が俺の体を凍り付かせていた。
抵抗できない非力な存在に対する暴力。教会の時は、俺には怒りがあった。ゆえに理不尽に対する明確なる対抗心としてそれは発現し、俺の体は動いた。
だが、今俺は怒りではなく状況を冷静に分析していた。そして俺の背を激しい感情が今はなく、頭を過る過去の記憶によって、まるで地面に張り付けられたかのように動けない。
幼いころに振るわれた、理不尽な暴力。大人の手によって与えられたそれは、抵抗する術はなく、体も心も傷つけた。事実として幼い自分では反抗などできるはずもなく、ただ体と心を固くして耐えて、嵐が過ぎるのを待つしかなかった、あの時。
ドクンドクンと、心臓の音が聞こえる。幼い獣人に対して振るわれる拳や蹴りの音が、遠くなる。頭から手の先まで、血の気が引いて冷えていく。
そんなとき、凛としたその声だけが、俺の耳に届いた。
「なにを……してるんですか!」
五人いる。自分よりも遥かに大きな男達の間に、その少女は飛び込んだ。
「え……れのあ……」
その輝く黒い瞳に怒りを乗せて男達を睨み、幼い獣人を庇うために飛び込んだその少女はエレノアだった。エレノアの声は俺に向けられたものじゃない。だけどまるで頬をはったおされたような衝撃が俺の体を駆け抜け、凍り付いていた体が意識と重なり動けるようになる。
獣人に向けられた蹴りは途中で止まることはなく、急に飛び込んだエレノアに迫っていた。もちろんエレノアは獣人の代わりにそれを受けるために飛び込んだんだろう。だが、それをあいつに受け止めさせるわけにはいかない。
瞬発力だけはある俺の足のおかげで、その蹴りが届く前にエレノアの前に立つことができた。
バキッと、肉と骨が軋む音とともに、俺の体が軽く跳ねる。
「ユートさん?!」
エレノアは目を見開いて俺を見ていた。
あー、俺何をやってんだろうな。エレノアのおかげで、動かず後悔するクズにならずに済んだ。間に合って良かった。
「あーん?なんだてめえらは」
「よってたかって弱いものいじめすんじゃねぇよって、言いに来たんだよ、クズ野郎」
「ああん?なに言ってんだ?」
俺はよろよろと立ち上がって、それをエレノアが慌てて支える。それをみて俺はぎょっとした。
「お、まえ!びちょびちょじゃねーか!」
「え?!あ、ごめんなさい!さっき水から出たところで!」
「あー、湧水道か……」
俺とは別の出口から出たところだったんだろう。エレノアの体はびしょびしょに濡れていた。
そのとき、女の声が響いた。
「こんのくそ忙しい時になんの騒ぎだ!」
逆巻く灰の髪に金の瞳の女が冒険者らしき風貌の男女を引き連れ、冒険者ギルドの扉から出てきた。
《ステータス》
ノラ・リーフィエルシェット
HP 5670/5670
MP 222/222
TA 666/666
LV 67
途中略
【魔法属性】 火 闇
【称号】 自称狼 一途な不良娘 狼は黒歴史 愛犬家
【スキル】 索敵 LV90 嗅覚 LV92 野生の目LV55 魔法威力練度上昇LV36 鼓舞 LV43
【職業】
《不良》《魔法使い》《冒険者》《エリアマスター》
今回のタイトル、あれっぽいな。




