第四十七話 水とは縁があるものです
一瞬の出来事ののちにごおっという音と地響きが俺を襲った。
「ユートさん!」
咄嗟にエレノアが伸ばした手に俺も手を伸ばすが、その前に船が傾き端に転がり落ちる。必死に床にしがみつくが傾きによる重力に負けて俺はそのまま海に放り投げられた。
海水が鼻に入って激痛が走る。それどころか、船が沈むせいで起こる海流に捕まり振り回された。苦しい、内臓やら脳やらが揺さぶられて気持ち悪い。圧倒的な水流の暴力と酸素不足のせいで頭も働かない。
その時、ふわりと唇に何かがあたり空気が送り込まれた。目を開けると波に巻き上げられる金髪と、そして空気を送り込んだあと離れていくエレノアの顔があった。このままだと渦に巻き込まれて離される。
無我夢中だった。離れていくエレノアに手を伸ばすが、意識を失いつつあるエレノアの目が閉じられて、俺の手は届かずに彼女は流されていく。ちくしょう!
エレノアから分け与えられた有限の酸素を使って素早く周りに視線を走らせた。砕かれた船の木片が激しい勢いで渦に巻き込まれている。それと同じようにぐるぐると流されているのは木片だけではなく、おそらく船に積まれていたのであろう荷物や四角い檻のようなものも流され沈んでいく。その中には獣人の姿のようなものや動物が入っていた。海賊に売り物として捕まっていた連中だろうか。
何ができる、この状況で。ただの人間であるこの俺に。人間がこういう自然の驚異に晒されたときなんにもできないことはわかっている。だけど……!
酸素が減ってきた。また思考が止まる。だが、前も同じような経験をしなかっただろうか。
水に拘束されて呼吸ができず、絶体絶命だったことが。
あの時はできたのだ。自分を取り巻く環境を、魔力を通すことで支配下に置いた。傲慢にも、魔法という形式をとりながら命じたあの時は。俺はただの人間だが、そうありたいと思っているが、どうやらこの世界では俺は特別な存在らしい。勇者なんて役割を認めるつもりは毛頭ないが、それのおかげで助けられた部分はやっぱりある。
ならば今回もできるはずだ。どうすればいい、どうしたらいいんだ。伸ばした手が届かないということは、大事なものを取りこぼすということだ。それだけは絶対に、嫌だ!
んにゃ~。
ふと、月夜の声が頭の中で木霊した。そしてぐわりと俺から影が伸びたのをみる。これは、月夜のいつも扱うあの影だ。そういえばあいつは近くにいないが、この力は月夜のものだということは感覚的にわかる。おそらく使い魔という繋がりを通して、俺はあいつの力を使えるのだろう。俺の全身から溢れ出した影はその腕を伸ばし、流され落ちていく人や物、さらには船までも水中に縫いとめた。
こけっ。
更にやきとりの声も聞こえる。でもやはりその姿はみえない。だが俺から放たれた赤い光が、俺が縫いとめる檻を壊し、中のものを解放する。赤い光は水中にとけ、渦巻く流すら止めて見せた。
そして影に導かれてゆっくりと俺の手に戻ってきたのは、エレノアだった。硬く目を閉じて意識はないが、俺の手に戻って来る。だが、俺自身も呼吸が限界だった。とにかく彼女を抱きしめるが、なんとか海上に戻らなければ。
そのとき、白いイルカが俺に近づいてきた。黄色に光る泡をまとっている不思議なシロイルカだ。
「はぁ!お前……」
白いイルカはしばらく俺をみつめた後、イルカの泡が分裂して俺とエレノアを包み込んだ。その瞬間、呼吸ができるようになる。はっと気づいて抱きしめたエレノアの口元に耳を近づけば、きちんと呼吸をしていた。その様子に安堵してすぅっと息を吸い込み、そして全部吐きだした。どうやらこの光の泡の中にいれば呼吸ができるようだ。
呼吸ができれば周囲の状況もいくらか落ち着いて把握できる。
よくよくみればアラン達客船に乗っていた連中も海に落ちたらしい。いくつかある白い玉はドラゴンの卵だろうか。伸ばした影に包まれて今のところ無事だが、気を失っているようで急がなければ溺死してしまう。そう考えた時、俺の前にいた白イルカは気絶している奴等に泡を分け与えた。ということは、そいつらも呼吸は問題なくなったということだろうか。
「それより、月夜ややきとりはどこだ?」
事態が落ち着きつつあることで探すが、あの黒と赤金の姿がみえない。
『優人君!後ろ!』
ばっと振り返れば、赤い巨体が口をぱっくりと開けて迫ってきていた。ヤバい、今の状態では動けない。せめてエレノアだけでもどうにかしなければ。とそんな考えが頭をよぎった時、その口の中から金色の目と白い雫が浮かび上がった。それをみた瞬間、俺はそれに向かって手を伸ばす。
赤くじらの口から飛び出た月夜ががぶりと俺の手に噛みつき、滂沱の涙を流しながら彼女の尻尾にしがみつくやきとりが引きずり出される。そして何故かやきとりの足に白い手ががっしりと掴んでいて、一緒に出てきたのはツェツィーリエだった。
言うべき言葉が思いつかず、今更手を離すこともできないので呆然としたまま引きずり出した一匹と一羽と一人は俺の属する泡に入ると一様に空気を思い切り吸い込んでむせた。だがそれは同時に赤くじらが極限まで近づいているのと同じことで、今度は俺を巻き込んで再び呑み込まれそうになる。
その時、何かが腹に体当たりして俺は吹き飛んだ。そしてそれは失速することなく、そのまま慣性の法則にさらされる。
「今度は何だ!」
よくよくみれば先ほどの白イルカが俺を背びれに引っかけてものすごい速さで泳いでいた。俺はそれに引きずられる形で、そしてさらに俺の魔力に繋がれて他のもの達も引き摺られてついていく。
俺はエレノアを抱え直しながら、なんでツェツィーリエまで俺の足にしがみついているんだと半眼になる。蹴り落としてやろうかと考えるが、とりあえずそれはやめておいた。もう片足には月夜とやきとりが俺のもう片足に引っ付いて離れない。
それにしてもこの白イルカ、たぶんあの赤くじらから助けてくれたんだよな。そして、白イルカが止まる気配はない。後ろを振り返れば赤い体がまだみえる。追いかけてはこないようだが、ここからできるだけ離れられるのはありがたい。しかし、どこに連れて行かれるんだろうか。
呼吸はできるし、とりあえず知り合いや目に入る人間達は助けることができた。この白イルカも俺を傷つけるようには思えず、異世界の海の中を観察する。やはり俺の知らない奇妙な生物が泳いでいた。亀の甲羅らしきものを背負ったウサギの顔の生物が横切って行った。
なんだあれ気持ち悪い。
そう思いながら白いイルカに引きずられていくと、やがて海の底に辿り着く。底に近づくごとに周囲は暗くなっていたが、急に淡い光がみえた。そしてその光の中には海底の宮殿があった。白イルカはそこを目指しているらしい。
「こんなとこに宮殿が?」
『ここは……』
なんだ、知ってるのか?
『知っているというか、うん。かつての勇者の仲間の子孫がいる場所だよ』
なんだと?
白い光がぼうっと赤い宮殿を照らす不思議な場所だ。近づくほどその宮殿の巨大さがわかる。宮殿に続く道に敷き詰められた均等な正方形の石が人工的で、こんな海の底で目にすることに違和感があった。宮殿前の石畳みに降り立つと、白イルカはふよふよと俺の周りを漂う。
「なんだなんだ、侵入者か?!」
「な、なんでこんなにたくさんいるの!ただでさえ今は兵が少なくなっているのに!」
とわらわらと出てきたのは魚の頭に中華風の服を着た生き物達と、女性の姿に魚の尾びれを持ってこれまた中華風の服をまとった生き物達だった。武器こそ持っていないものの、警戒したように俺達を囲む。
「ふーん」
海底に辿り着くとツェツィーリエは俺からすんなりと手を離し、俺達を囲む者達には目もくれず、宮殿を眺める。さっきまで戦っていたとは思えないあっさりさで、俺に対しても何のアクションもない。
「何事ですか?!」
その場に凜とした声が響いた。宮殿から出てきたのはヘーゼル色の長い髪を結ったこれまた中華風の、確か襦裙という服を着た女性だった。飛仙髻の髪型が余計に中国っぽい。
その女性が現れるとざっと俺達を囲んでいた連中が道を開けた。そしてその女性ははっと俺の近くにいた白イルカをみると嬉しそうにかけよる。
「あら、どこに行っていたの?しばらく帰ってこないから心配していたのよ」
「きゅー」
白イルカがその駆け寄ったその女性に頬ずりして、きゅーきゅーと鳴きだす。何事かその女性と話したあと、女性は困ったように目を伏せた。
「そう、そんなことがあったの……」
その女性はちらりとツェツィーリエをみて、そして俺の後ろで月夜の影に包まれている気絶した人々に視線を移した後、両手を掲げた。すると彼らは泡に包まれた状態で月夜の影から離れ、少し女性寄りにふよふよと浮かぶ。
「我らの仲間を助けて下さったようでありがとうございます。わたくしはこの水聖殿の主、ミツハ・ワダツミと申します。彼らは宮殿医に診てもらいましょう。こちらでお預かりいたします。詳しいお話は中でお伺いしてもよろしいでしょうか?」
女性はにっこり笑ってそう言った。俺は少し考えてとりあえずそれに頷く。なんとなく、彼女からは敵意を感じないし、今の俺には従うほかないだろう。このままの状態というわけにもいかない。それにしても異世界に来てから疑ってばかりだ。仕方ないこととはいえ、非常に疲れる。
と内心ため息をつくと、腕に抱えたエレノアの瞼が震えた。そしてゆっくりと目が開かれる。
「ユート、さん?」
「気が付いたのか。よかった」
「ここ……は……」
「あら、お連れ様もお目覚めになられたようで。お体は大丈夫ですか?部屋を用意いたしましょう。少しお休みになられてほうがよいのでは?」
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、エレノアはゆっくりと立ち上がる。そして気遣わしげにこちらをみつめるミツハをみて、そして首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。あの、ここは?」
「はい。いろいろお話をさせていただかないといけませんね。あなた方のご事情も伺いたいので、中でお話させていただいてよろしいですか?」
ミツハは改めてそう言い、その場にわらわらと集まっていた魚人達に指示を出して俺達を宮殿の中に誘った。