第九十九話 タイトル未定
乾いた音が広がるのと同じように、俺の顔に張り付いていた黒い泥からじゅわりと煙を上げて乾き消えていく。清浄な波紋が広がり、その場に満ちる黒い感情の渦が浄化されたようだった。
よかった、やっぱり効果があるみたいだな!
なんとなく柏手ってのは、邪気を払うという効果の記憶があった。
神が言うには、世界には理というルールがあるという話だった。そしてそれは世界ごとに違うらしい。ということは違う世界から来た俺は、違う世界の理の影響下にあるということなんじゃなかろうか。そしてそれこそが、雪の女王が俺にしかできないと言った根拠なのではないだろうか。それくらいしか、俺に『しか』できないという俺の特殊性は思いつかない。
それに俺は深海のエンリケで、日本の風習であるお盆がの棒を指したナスの牛が魂を送ったという現象を目にしている。
この二つから出した結論は、俺の知ってる風習や作法もこの世界に通じるということ。
そして現実に、柏手は効果があった!
「これで少しは攻略が進むんじゃねーか?」
手は痛むが、叩き続けて黒い泥や靄は消えるが、時間が経つごとに俺はこれでは無理だと悟った。柏手で浄化されるのは俺の近くにあるほんの少しだけで、次々とあふれ出す黒い泥の物量をみるに焼け石に水だった。やきとりと月夜、白桜が大量の黒い靄を処理しているが、できるのは精々推し戻すことだけで、根本的な解決にはならない。さらに知恵を絞る必要がある。
「うううううっがうっ」
月夜は猫の姿からクロヒョウの姿になり、襲い来る黒い泥を黒い影で押し戻し、押し戻されを繰り返していた。その間からやきとりが焼き切ろうと口から火を噴くが、燃えた様子はない。宙に浮く水球の中で同じように戦う白桜に、彼女の魔力で操る水の脇をすり抜けて黒い泥の波が迫る。俺はその前に立ち、柏手を打つとじゅわりとそれは蒸発したように消えるが、せいぜい一メートルほどしか消えない。要するに焼け石に水だ。しかも何度も気力を込めて叩いていると、手も限界が近い。
「方向性は間違ってないはずなんだ。だとしたら」
他に邪気を払うといえばで思い出すのは、破魔矢くらいか。だが、ここに弓なんてない。
「あー、くそっ!手いてぇ」
それでも、ときに使い魔達の防壁を超えて迫る怨念達から身を守るには叩き続けるしかなかった。
「いや!あとは塩が!」
ふっと思い出した。清めの塩とか、盛り塩とかがあったはずだ。
あれでもない、これでもない、と言いながら鞄の中のものを出してあさる。
どこぞの四次元ポケットから未来の道具を出すロボットよろしく、鞄の中にあるため込んだビンやら食材やら薬草やらを取り出す。そして底にあった塩の入ったビンに指先が触れた。そしてきゅぽんと音を立ててコルクのフタを開け、片手でひっつかんで塩を投げつけた。すると、ざぁっと塩の触れた部分の怨念は縮み始めて消える。
「よっし!」
塩!ビバ塩!手を叩くより浄化される量が多い!
だが、一つ問題がある。そんなに手持ちに大量の塩があるわけではない。
「うわっ!」
残りの塩はビンの半分。無駄使いはできないうえ、これも決定打には欠ける。
背後から黒い波が再び飛沫き、振り向きざままた塩をまく。
なんとか突破口はないかと目を皿にしていると、黒い泥の消えた部分にきらりと光るものが見えた。
「あれは……?」
すぐにその光は黒い波に覆いつくされてしまったが、それがいやに気になる。もしかしたら状況の打破を望むあまりに、今の光にすがっているだけかもしれないが、その後の黒い泥波の動きで思い過ごしではないかもしれないという自信が生まれる。他の波は俺達を飲み込もうとしているくせに、それだけは俺から離れていき、手の届きそうにない遥かな上で高波がぴたりと止まったようになっていた。まるで、そこには手を出してほしくないように。
「俺の勘が正しいなら、あそこになにか、あるんだろうなぁ。十中八九」
だが、そこは塩を投げても届かなそうだ。それこそ、破魔矢と梓弓でもあれば、届くかもしれないが。いや、弓矢があったところで、扱ったことのない俺では射てもしないが。
成功する自分のイメージが思い浮かばなくて、黒い泥を避け走りながら半眼になる。そのとき、俺の背後から暖かいなにかに包まれる感触がした。まるで教室の窓から差し込む太陽の光が背中にあたっているような温かさだ。だが、この状態でのそのぬくもりは異常でしかなく、びくりと固まる俺の体を抱え込むように、そのぬくもりが俺の手に添えられた。
「っ!」
一瞬身構えたが、人型をした既視感を覚える金色の光の熱は、夏のギラギラした痛みを感じる日差しではなく、冬の寒い日に日向ぼっこをするようなやわらかいぬくもりで、じんわりと指先、足先から伝わり、警戒心がゆるく溶ける。そして光の手は後ろから俺の腕をとり、まるで弓矢をつがえるような動きをさせた。すると俺の手に淡く薄紅色に光る矢が顕現していた。それと同時に矢を引き絞る力が必要になり、急な力に思わず手を緩めてその矢はあらぬ方向に飛んで行った。
「こけっ?!」
「やばっ!」
予想外の方向に向かった矢の先にいたやきとりは間一髪で体を反らして避けた。結果的に黒い泥に命中したその矢はじゅわっとその周囲にあった瘴気を浄化する。
「ごめん、やきとり!」
「こ、こけぇ!」
こうこくと首を縦に振ってやきとりは俺の謝罪を受け入れる。あ、当たらなくてよかった。
ふと振り返ると、さっきの人型は消えている。
俺は力に負けてびりびりしびれている自分の手を見つめた。弓を引き絞るだけで、かなりの筋肉がいる。なにより、引き絞った後に狙いを定めるまでが、力に負けるし手が震えて話にならない。
「……やれるか?」
いや、やるしかないだろう。無理でも無茶でも、やるしかない。
俺は黒い泥のきらりと微かに光る部分を見上げると、泥の波が俺に覆いかぶさってきていた。俺が逃げようと動き出しても間に合いそうにないと思ったとき、大きくなった月夜が頭で俺をすくい上げて背にのせ、間一髪で抜け出せた。
「月夜ナイスだ!」
「にゃー」
その姿でも鳴き声はにゃーなのな!と頭によぎるが、今はそんなことを考えている場合ではない。その後も波は明確に意思をもって俺に襲い掛かるのを繰り返した。泥のほうも波の形だけでなく水鉄砲のように飛ばしながら俺を攻撃するが、月夜がうまいことかわしてくれている。だが、肝心の俺は動き回る月夜の背ということと、そもそも弓矢を扱うのが初めてということもあり、試し打ちもままならない。そもそも俺が矢をつがえる動きをすると現れる弓という、普通の弓とも違うし。
だが、俺のやりたいことは月夜ややきとり、白桜にも伝わっていることは感じる。
やきとりと白桜はアイコンタクトをとりながら、できるかぎり俺に黒の泥波が来ないように立ち回り、月夜は最小限の動きでできるだけ俺を揺らさないように駆け回る。
俺は月夜にまたがる足に力を込めて上体を固定しようと努めた。そのとき、ぶわりと俺の周りに風が吹き出し、空気抵抗がなくなる。
『風の加護』
ぴろりんという音とともに端的な言葉が表示されたウィンドウ画面が現れる。
そこに、狙うべき絶好の瞬間が訪れた。
もはや触手のような動きもしだした泥をさけて飛び上がった月夜は宙にいて、そこがちょうど、きらりと光った泥の先の真正面。さらにやきとりと白桜が俺に向かっていた泥を炎と水で抑え込み、邪魔のこない一瞬が生まれた。風の加護によって風圧と慣性の法則はない。
俺は再び矢をつがえる動きをする。淡く光る弓矢は質感を持ち、俺は思い切り矢を引き絞った。だが、そうそううまくいくわけもなく、力に負けて手が震え、狙いが定まらない。矢を引き絞っていられるだけの筋力がない。やっぱりダメか、と思ったとき、俺の手に光の手がまた添えられた。俺の背後の人型の光が俺の体を支えるだけで、手に力を入れずとも矢を引き絞ることができるようになる。なぜか、この矢は絶対当たるという確信が生まれた。
しっかりと、狙いを定める。
矢を放つ。
するとその矢は楕円形の薄紅の光を帯び、その軌跡にはさぁっと泥と怨念を浄化していく。そしてそのきらりと光る部分に当たると、ぱぁっと白と七色の光が弾けた。
邪気を砕く破魔の矢が浄化した先には、黒い泥に飲み込まれていた少女が、黒い泥から剥がれ落ちた。
「っ!」
やきとりがあわてて受け止めると、その少女はここに来るときに俺達を飲み込んだ、雪の女王の姿をしていた。だが、明確に違いもあった。その少女の胸から下が、木の根のような、凝り固まってしまった巨大なイボのようなものと一体化していた。




