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外伝 ~アレス

「ファルベ、今日は天気がいい。ちょっと外に出てみよう、な?」


 アレスはそう言って、しょっちゅう双子の弟を外に連れ出した。寝たきりで身体を起こせないファルベの身体を抱きかかえて車椅子に乗せ、家の周りをゆっくり歩くのだ。


「もう夏だなあ。ファルベ、大丈夫か?」


 アレスが尋ねると、ファルベは肩越しに振り返って車椅子を押している兄を見、やんわりと微笑んだ。アレスもほっとしたようにうなずく。


 生まれつき心臓が弱かったファルベだが、10に満たない年で脳に障害ができ、今では殆ど話すこともできない。それでも思考力は同年代の子供たちとなんら変わりなく、きちんと相手の言葉を聞き取ってくれる。ファルベが質問に答えるときは頷くか首を振る、もしくは文字盤でひとつひとつの文字を指差しながら言葉にする。この方法しかない。


 アレスはじっと、弟を見つめた。可哀想なくらい色白な肌と、細い肩。癖のない綺麗な金色の髪の毛。どれも自分とは正反対だ。だからこそ、弟を守らなければと強く誓っていた。


「来週・・・・また手術だよな」


 アレスの呟きに、前を向いたままファルベは頷いた。


「もう何回目だよ」


 そう言うと、ファルベは右手を挙げて「5」と示した。もう5回目なのだ。ファルベが手術を受けるのは。


「しばらく入院生活か・・・・・あっ、そんなしんみりするなよ。俺、毎日傍にいてやるから。だからファルベは安心して手術を受けてくれ」


 ファルベは頷いた。


 散歩を終えて自宅に戻り、アレスはファルベをベッドに横たえた。その時、ファルベの口が「有難う」と動くのがはっきりと分かった。アレスが微笑む。


「どういたしまして。水飲めるか?」


 ファルベはゆっくりと首を振った。アレスは「そうか」と呟き、いつものようにベッドの傍に椅子を持ってきて、そこに座った。


「少し休んだほうがいいよ」


 そう促すと、弟は頷いて目を閉じた。ファルベが寝息を立て始めたのを確認し、アレスはふっと息をつく。


 寝るように言ったが、本当は眠ってほしくない。また目を覚ましてくれるかが、不安になってしまうからだ。


 ファルベの手術の日、アレスはファルベが手術室に入るまでずっと傍にいた。ファルベがストレッチャーに乗せられて手術室に向かうとき、アレスは声をかけた。


「ファルベ。頑張れよ」


 そう言うとファルベは微笑み、ピースサインを向けてきた。いつもと同じファルベの様子にアレスは安堵し、手術室の扉が閉じて『手術中』のランプが点灯をするのを、じっと見守っていた。


 数時間して、手術は終わった。両親とともにファルベの病室へ向かうと、ファルベはまだ麻酔が解けずに眠ったままだった。


「ファルベ」


 アレスが呼びかけてもピクリともしない。と、体育教師で逞しい父が鍛えられた腕を伸ばし、アレスの肩をたたいた。


「アレス、起こしては駄目だ」

「ああ・・・・・」


 アレスは、ファルベの腕に無数にある注射、点滴の痕から目をそらした。見ていられなかった。


「・・・・・・・ねえ父さん?」

「なんだ?」

「どうして一緒に生まれてきたのに・・・・・俺はなんともなくて、ファルベだけ痛い思いをするんだ?」


 父は言葉に詰まり、母と目を見合わせた。


「心臓の病気と脳の病気・・・・せめてどっちかは、俺にしてくれればよかったのに。なんでファルベだけ・・・・・俺が全部、ファルベに押し付けちゃったのかな・・・・・」


 母が首を振った。


「違うわよ。アレス・・・・悪いのは私よ。私が、ファルベを健康に生んであげられなかったの・・・・・だから、私が・・・・」

「母さんのせいでもアレスのせいでもない。ふたりとも自分を責めるのはやめろ」


 父がぴしゃりと言った。アレスが拳を握りしめた。


「・・・・・神様って、残酷だ。酷すぎるよ。なんでファルベをこんな目に遭わせるんだよ・・・・!」

「・・・・・アレ、ス・・・・・?」


 か細い声が聞こえ、はっとしてアレスは顔を上げた。麻酔から覚めたファルベが、ぼんやりと兄を見上げていたのだ。


「ファルベっ、お前・・・・!」

「声が出るの!?」


 母が泣きそうな顔で詰め寄る。ファルベは微笑み、アレスに手を差し伸べた。アレスがすぐにその手を掴む。


「・・・・・僕・・・・・大丈夫、だから。・・・・・・泣かないで、アレス・・・・・」


 そう言われ、初めて自分が泣いていたことにアレスは気付いた。涙をぬぐうと、ファルベはまた優しく微笑み、吸い込まれるように眠りに落ちた。


 そうだ、泣いちゃいけない。ファルベは生きている。頑張っているのだから。辛い本人より先に、泣いちゃ駄目だ。


◆〇◆〇


 2週間ほどでファルベは退院し、我が家へ戻ってきた。以前よりファルベは幾分か明るく、顔色もいい。何より、言葉を発することができるようになったのだ。それだけで、家の中は明るくなった。


 とはいえ、歩くことができないのは前と変わりがない。その日もアレスはファルベを車椅子に乗せ、散歩に出ていた。


「・・・・ねえ、アレス。行きたいところがあるんだ」


 ファルベがぽつっとそう言った。アレスが首をかしげる。


「どこだ?」

「学校」

「学校?」

「うん」


 ファルベはそれきり黙った。アレスも理由を深くは尋ねなかった。車椅子の向きを変え、アレスと、ファルベが通うはずだった中学校へ向かった。


 午後の授業はないので、校門はぴたりと閉じられていた。どこにでもある、なんの変わりもない校舎とグランド。ファルベは校門の外からそれを見つめ、沈黙を続けていた。


「・・・・・有難う、アレス。・・・・もう、いい」


 ファルベの言葉に頷き、アレスは歩き出した。歩きながら尋ねる。


「どうして急に学校に行きたいなんて言ったんだ?」

「・・・・・見ておきたかったから」


 アレスは曖昧に頷いた。


 アレスはあとで知る―――『もう2度と見ることができないから』と、ファルベが言いたかったことに。


 それから数日が経ち、家にはアレスとファルベだけがいた。教師の父は出勤し、母も買い物に出かけていた。アレスがファルベとともに留守番するのはいつものことだった。


「今日も暑いな。何か飲み物持ってくるから、ちょっと待っててくれ」


 ベッドに上半身を起こして座っていたファルベが頷いたのを見て、アレスはファルベの部屋を出てダイニングへ向かった。冷蔵庫を開け、コップにファルベ用のミネラルウォーターを注いでいた丁度その時―――ファルベの部屋で、激しい物音がした。何かが横転する音、次いで、激しい咳。


「ファルベ!?」


 アレスはコップを放り出し、部屋へ駆けだした。


 扉を開けた瞬間、アレスは目を見張った。


 倒れた車椅子。床に落ちた白い毛布。そして、床にうずくまるファルベの姿―――


「ファルベっ!」


 アレスが駆け寄り、ファルベを抱き起した。ファルベの呼吸がおかしい。ひゅーひゅーという音がしている。苦しそうに喘ぎ、もがいている。


 心臓の発作だ。


「きゅっ、救急車・・・・! ファルベ、ちょっと待ってろ! すぐ病院に・・・・!」


 アレスはそう言い、ダイニングに駆け戻って電話の受話器を取り、救急に通報した。ファルベはいまだに苦しんだままだ。


 ほんの3,4分で救急車が到着した。その間にファルベは両親に連絡を取って病院で合流することになった。ファルベはぐったりとしており、意識も混濁状態のようだ。


 ストレッチャーに乗せられて、アレスも救急車に乗り込んだ。救急隊員が慌ただしく治療を始め、ファルベに酸素マスクを装着しようとした。その時―――


 ファルベの手が、酸素マスクを押しのけた。アレスが目を見張り、身を乗り出す。


「ファルベ・・・・!」

「・・・・・・ごめんね」


 ファルベがぽつっと、そう呟いた。酷くかすれた声で、口の動きを見てようやく、謝罪の言葉だとアレスは気付いた。


「なんでお前が謝るんだよ・・・・!」

「・・・・・これ、で・・・・・アレスも、僕も・・・・・やっと、自由・・・・・に・・・・」


 ファルベがアレスに伸ばしかけた手は、途中で力を失ってぱったりと落ちた。


「ファルベ? ファルベ!?」


 アレスが名を叫ぶ。ファルベはぐったりと目を閉じ、それ以降何も反応しなかった。


 これでアレスも僕も、やっと自由になれる。


 それがファルベの、最期の言葉だった。


◆〇◆〇


 アレスははっとして顔を上げた。冷や汗でぐっしょりとシャツが濡れている。


 一瞬、ここがどこだか分からなくなる。そしてすぐに思い出した。ファルベの部屋―――ファルベがいなくなった、殺風景な部屋だ。


 ファルベ・バイエルンが亡くなって、1週間が経っていた。


 アレスは弟を亡くした喪失感に打ちひしがれ、今でも1日の大半をこの部屋で過ごしていた。しかしどうやら疲労は極限状態で、ファルベが使っていたベッドに突っ伏し、眠ってしまっていたらしい。


 その間に、ファルベが生きていたころの夢を見てしまった。


 アレスは唇をかみしめた。


「馬鹿野郎・・・・・自分が死んで俺が楽になるとでも、思ってたのかよ・・・・」


 ファルベの最後の言葉が、アレスに突き刺さった。


 ファルベは、自分が兄を縛り付けていると思っていたのだろう。


 アレスの手がベッドの下に入る。と、何かが指先に触れた。それを引き出してみると、白い封筒だった。アレスが封を切ると、そこには見慣れた文字―――喋れなくなってから筆談をすることが多かった―――ファルベの筆跡だった。


『アレスへ』


 手紙は、そう始まっていた。


『アレスへ


 アレスがこれを読んでいるとき、多分僕は死んでいると思う。


 ごめんね。ずっと僕を支えてくれたのに、僕はもう生きられないみたい。


 神様は残酷だって、前に言っていたよね。


 でも僕は、そうは思わない。病気を選んだのが僕で良かったと思ってる。


 アレスがかかる病気を、僕が全部引き受けられた―――そう思う。


 アレスの病気を全部持って、僕は先に逝きます。


 アレスは元気で。


 生まれ変わったら、また会えると思うから』


 最後に日付と、名前が書かれていた。日付は、5回目の手術を終えて数日後だった。


 もうその頃には、ファルベは自分の死期を悟っていたのだ。


「ファルベ・・・・・・ファルベ・・・・・っ!」


 アレスの瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。嗚咽が漏れ、手紙を抱きしめる。


 初めて、アレスは大声をあげて泣いた。


 優しくて、何より大切だった弟は、もういない。


「なんで・・・・なんでっ・・・・! ファルベ、嫌だ・・・・置いてかないでくれよっ!」


 アレスの悲痛な声が響いていた。

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