外伝 ~英梨と颯人
病室は死の静寂に包まれていた。すでに母も泣き腫らして憔悴しており、医療器具等を片付けた医師たちも病室から出て、生きている人間の気配すら感じられない静けさだ。
延命装置を取り外された兄の顔は、眠っているかのように穏やかだった。英梨はずっとその手を握っていたが、徐々に兄の手が冷たくなっていくのを如実に感じていた。
ばたばたと慌ただしい足音がして、病室の扉が勢いよく開け放たれた。それまで音らしい音のなかった空間でその音はよく響き、英梨はびくっとして顔を上げた。
入り口に、息を切らして荒く呼吸しているひとりの青年がいた。明るい茶色の癖っ毛をもち、目も大きく、はっきり言って童顔だ。小柄だが体つきは筋肉質で、兄の悠一をひとまわり体育会系にしたような感じ―――。
赤ん坊の時から、もうひとりの兄として慕ってきた悠一の親友、田代颯人だ。小学生のころから悠一と仲が良く、悠一が就職、颯人が進学という別の道を取った今でも、週に2度は必ず英梨も颯人の顔を見ていた。悠一が忙しいときは、颯人が代わりに英梨の面倒を見てくれたこともある。いつもの颯人はピアスやネックレスなどをしているが、家を飛び出してきたらしく、お洒落な彼にしてはやけにラフだった。
「颯人お兄ちゃん・・・・・」
「悠はッ!? 悠は・・・・ッ」
颯人はベッドに横たわっている悠一を見、それまでの剣幕を失った。よろよろとベッドの傍に歩み寄り、悠一の顔を覗き込む。
「悠・・・・嘘だろ・・・・?」
「たったいま・・・・・息を引き取ったのよ・・・・・」
母がぼそっと言う。颯人は拳を握りしめた。その肩が震えるのを、英梨は見た。
「間に・・・・合わなかったのか・・・・・」
「颯人君、どうして悠一のことが分かったの・・・・・?」
母の問いに、颯人が首を振る。
「ニュースでやってますよ。あちこちの病院に駆け込んで、やっとここに・・・・・」
「そうだったの・・・・・」
「俺、その時大学で講義を受けていたから・・・・気づくの、遅れちまって・・・・・すいません。一番大変だったときに・・・・」
「いいのよ。有難う、来てくれて・・・・・」
母は悲しげに少し微笑んだ。それから、また目を潤ませた。
颯人は床に膝をつき、英梨を見つめた。
「英梨ちゃん。怪我ないか?」
「うん・・・・・お兄ちゃんが助けてくれたの」
「そうか。・・・・・悠の奴、ほんとに最後まで・・・・・」
颯人は言葉の途中で口ごもった。遺族の前で泣くまいとしていたようだが、彼だって家族同然だ。こらえきれず、颯人も涙をこぼした。
(悠・・・・・痛かったよな。苦しかったんだよな。代わってやりてえよ・・・・・だってお前には、守らなきゃならねえ家族がいるじゃねえか。こんなところで死ぬなんて、駄目だよ・・・・・)
颯人はそう、親友に言葉を投げかけた。
◆〇◆〇
悠一の通夜、告別式等が済んだころには、世間はとっくに夏休みに突入していた。事故死だったことから警察関係者との打ち合わせもあり、1週間近くごたごたしていた。テレビでは悠一の事故を受けて、「なぜ居眠り運転はなくならない?」と題して、運送会社の実態を暴く特集番組が毎日のように放送されている。そのたびに悠一の写真が出るのだ。
高校の卒業式のときの写真。モザイクがかかっているが、隣で肩を組んでいるのは明らかに颯人だ。そして公園で撮られた1枚。こちらもモザイクで隠されているが、横にいるのは英梨である。さらに、悠一が就職したあとに、店長の田代が撮った1枚がある。厨房で調理をしているときに撮られたのだろう、酷く恥ずかしそうに微笑んでいる。一番最近の写真ということもあり、テレビに映るのはこれが多い。
リビングに置かれた仏壇には、父の遺影の隣に悠一の遺影と骨壺が置かれている。お兄ちゃん、あんなに背が高かったのに、こんな壺の中に入れられちゃうなんて、と英梨は悲しくなるので、殆ど視界に入れないようにしている。
母は毎日押しかけてくるマスコミを鬱陶しげに追い払っている。容疑者について一言? 決まってるでしょ、殺したいほど憎いわ。息子を返してちょうだい―――そんなことを言っているようだ。
颯人はちょくちょく英梨や家の様子を見に来る。母の実家から、祖母も来た。悠一の働く店の店長で颯人の叔父―――英梨は下の名前を知らない。兄が『店長』と呼ぶので、英梨もそう呼んでいた―――も、線香をあげに来た。彼ら3人は、葬儀の時から本当に世話になった。
商店街の人たちも、みんな泣いて悲しんでいた。駄菓子屋のおばあちゃんや、英梨と一緒に救急車に乗ってくれた八百屋のおじさんも、みんな泣いていた。
高校時代の悠一の友達も、みな葬儀に参列した。中学の同級生や、先生たちも来ていた。英梨の友人も、たくさん来てくれた。
それだけ悠一はたくさんの人に好かれていたのだろう。
母は、事故のことは考えまいとしているようで、通常通り働きに出ている。夏休みですることのない英梨は、いたたまれなくなって家を出た。夏休みになったら電車に乗って、ちょっと遠くまで行ってみよう―――悠一がそう言っていたのを思い出し、辛くなった。少し外に出ようと思ったのだ。
と言っても、英梨が行く場所は限られている。いつも商店街に行くのだ。そこに行くには、事故現場を通るしかない。
とぼとぼと道を歩いているうち、その交差点に差し掛かった。横断歩道の上には、生々しい血痕が残っている。その手前のガードレールに、たくさんの花束が手向けられていた。
その前にしゃがんで、手を合わせている青年がいた。「あ」と英梨は声を上げ、傍に駆けよる。それは颯人だったのだ。
「颯人お兄ちゃん」
「おっ、英梨ちゃん。元気か?」
颯人は昔から英梨に会うたびに「元気か?」と聞いてくる。少し颯人も落ち着いたのだろう。あるいは、わざといつもと変わらないふうに挨拶をしているのだ。
それでも英梨の知っている颯人とは違う。いつもみたいなピアスもネックレスもリングも身につけていない。色の濃い流行の服を好んで着ていたのに、上下とも真っ黒なTシャツとズボンだ。この間のお葬式の時には、参列した人みんなが黒い服を着ていた。その時にも似合わないにもほどがあるスーツを颯人は着ていたが、普段着でも彼に黒は似合わない。それでも、颯人の服装は最近いつも黒である。それが喪に服しているということなのだと、英梨は母から聞かされた。
「どうしたんだ、こんなとこに」
「うん・・・・お散歩」
「じゃ、俺も混ぜて混ぜて」
颯人は持っていた紙袋から珈琲の缶を出して地面に置くと、立ち上がった。悠一がよく好んで飲んでいた缶珈琲だ。よく見ると、地面にはいろいろな食べ物や雑貨が置かれている。こんな細かな趣味や好みを覚えているなんて、颯人以外に考えられない。
「颯人お兄ちゃん、いつもあそこに行ってたの?」
歩きながら尋ねると、颯人が頷いた。
「ああ、毎日」
「あのお花とか、飲み物も?」
「そうさ。俺はずっと、ずっと・・・・・忘れない。あいつが好きだったものとか、全部・・・・・」
颯人は神妙な顔でそうつぶやいた。二人はそのまま公園内に足を踏み入れた。ちょっとした遊具と自動販売機だけがある小さな公園だが、英梨はよく悠一とここで遊んだし、悠一も颯人とともに毎日のように遊んでいたという。
「なあ英梨ちゃん。俺、こういうの柄じゃねえんだけど・・・・・・」
颯人はそう前置きし、自販機で買ったオレンジジュースの缶を英梨に渡した。英梨は礼を言って受け取る。颯人は自分のコーラの缶のプルタブを空ける。
「悠のこと、ずっと覚えていてやってな」
「え?」
「悠が死んじまったからって、悠のこと忘れようとしないでほしいんだ。事故のこと思い出したり、楽しかったこと思い出したりして辛いかもしれないけど、悠の写真とかから目を背けないでほしいんだよ」
それがたとえ遺影だったとしても。
「毎日悠にお線香あげるだろ。その時、いっぱい悠に話しかけてやって。今日こんな楽しいことがあったとか、昔こんなことしたよねとか。絶対・・・・悠、英梨ちゃんの話聞いてるから」
「お兄ちゃん、どこで聞いていてくれるの?」
英梨の問いに、颯人はしゃがみ込んで英梨と目線を合わせ、自分の胸を叩いた。
「英梨ちゃんの、ここ」
「英梨の中?」
「そう。英梨ちゃんが悠のこと覚えていて、ずっと話しかけている限り、悠はずっと英梨ちゃんの中にいるからさ」
颯人は微笑んだ。
「俺もおんなじ。ずっと悠のこと忘れないし、親友やめてやるつもりもないんだよ。だから俺は毎日悠が死んだあの場所に行く。何年かして、あの交差点で事故があったことをみんなが忘れても、俺は忘れねえ」
「英梨も・・・・英梨も、忘れないよ。英梨のお兄ちゃんは、ひとりだけだもん・・・・」
「そういうことだ」
颯人は笑った。英梨は颯人を見上げる。
「颯人お兄ちゃん・・・・・ありがと」
「うん?」
「お兄ちゃんのこと、大好きでいてくれてありがと」
拍子抜けしたのか、颯人はぽかんとしている。それからふっと吹き出した。
「英梨ちゃん、ほんと大人だな」
小学生が言う言葉じゃない。おかしいはずなのに、英梨が言うと馬鹿に出来ない。
「英梨ね、早く大人になってお兄ちゃんとお母さんのお手伝いしたかったの」
「立派な心がけだよ、うん。俺にゃ真似できねえ。・・・・・・けどさ。泣いてもいいと思うぜ?」
颯人の言葉に、頑なに英梨は首を振った。
「お兄ちゃん、英梨が泣くと悲しそうな顔したもん。泣かないって決めたの・・・・・」
「そいつは悠の気持ちだろ。英梨ちゃんの気持ちじゃないよ。泣きたいくらい悲しいんだから、しょうがねえだろ。英梨ちゃん、ちょっと我慢しすぎ」
颯人は英梨の髪の毛を撫でた。兄がいつもしてくれたように、優しい掌だった。唐突に英梨はこみ上げる涙をごしごしと拭った。それでも流れる涙を、颯人が指先で払ってやる。
「・・・・・この間、菜月ちゃんって友達のお母さんがね」
「うん」
「お兄ちゃん、その時ぼんやりでもしてたのって聞いてきたの。・・・・・轢かれたのはトラックのせいじゃなくて、お兄ちゃんがよそ見してたからだって、責めてるみたいに・・・・・」
「ひでえ婆だな」
自分の母親より若いはずだが、颯人は容赦なくそう言った。英梨はわっと泣き出した。颯人に抱き着き、なおも颯人に訴える。
「みんな知らないんだよ! お兄ちゃんが死んじゃったほんとの理由・・・・・! お兄ちゃんは悪くないの! ほんとは英梨を・・・・轢かれそうになった英梨を庇ってくれたんだもん! だから・・・・死ぬはずだったのは、英梨だったんだよ・・・・・っ!」
「ああ、俺はちゃんと知ってる。英梨ちゃんが怪我しないようにって、飛び出したんだよな。・・・・そんな薄情者の言うことなんか気にしなくていい」
兄を亡くした妹にそんな話をする気持ちが、颯人には理解できない。それが子持ちの大人かと思うと、殴りたいくらい憎い。
英梨は颯人の服の裾をぎゅっと掴んでいる。
「・・・・なあ。悠ってどんな奴だった?」
「・・・・・・お兄ちゃんは、誰よりも一番、優しくて恰好良かった・・・・・っ!」
「だよな。英梨ちゃんは、悠っていう人間を一番知ってる。英梨ちゃんが大好きだった悠だけを信じるんだ」
『シスコン? 妹を大切に思ってるっていうのがシスコンなら、それでいいさ。別に恥ずかしくもなんともない。兄貴がそばにいてやらなきゃ、誰が守ってやれるんだよ』
学生時代、英梨が理由で悠一は友人の誘いを断ることがあった。その時シスコンだとからかわれた悠一は、毅然としてそう言い放ったのだ。丁度父を亡くしたばかりだったので、悠一も英梨を心配してぴりぴりしていたのだ。
子を愛さない親がいないように、妹を可愛がらない兄もいない。颯人はそう思い、1本筋の通った意思を持つ悠一を、すごいと思ったものだ。
多分悠一が望むのは―――何も変わらないでいること。それまで通り、変わらない日常を過ごしてくれることだ。そしてきっと、今ここで悠一と会話ができるなら、悠一は颯人に言うだろう。
『颯人。英梨を頼む』
(言われなくても・・・・・そうするさ)
颯人は息をついた。
「英梨ちゃん。俺は悠にはなれねえし、あいつの真似もできそうにない。それでも・・・・・英梨ちゃんの中で、2番目に優しくて格好いい兄ちゃんにしてくれ。俺・・・・悠の分も、英梨ちゃん守るから」
本文編集しました。9月8日