第1話 2度目の目覚め
落ちる。
落ちる。
落ちていく―――。
奈落の底へ真っ逆さまに落ちていく感覚だけが、いまの悠一を支配していた。自分の姿は見えないし、目を開けているという概念すらなく、闇の中だ。
と、急に衝撃が来た。どすん、と叩きつけられたような痛み。
闇の中で、「眩しい」と思った。それでようやく、ああ俺は目を閉じているのだ、と実感した。
そっと目を開ける。ぼんやりと思考を浸食する靄をなんとか振り払おうと頭を振ったが、どうしてか身体が重い。それなのに、なんだかふわふわした気分だ。
目の前には硝子がある。なんだろう、と思って手を伸ばす。だが、その手を持ち上げるのが非常につらい。まるで水の中にいるかのように、腕が持ち上がらない―――。
水の中?
悠一は一瞬で覚醒した。ちらりと視線を横にずらすと、そこにはいくつも縦長で円筒形のカプセルのようなものが鎮座していた。ゲームの中にありそうな、実験室みたいな場所だ。
そのカプセルの中には妙な薄緑の液体が満たされており、その中で老若男女を問わず・・・・それどころか金髪の人も、黒人の人も、カプセルの中で眠っていた。水の中に揺蕩い、見ている分には心地よさそうだ。
どうして水の中にいるんだ。軽い混乱状態に陥った悠一は必死にもがこうとした。しかし―――よくよく考えてみれば、肺は水でいっぱいのはずなのに苦しくない。というより、もうすでに溺死していておかしくないのだ。
『データ番号13881、覚醒。再構築状態、良好。ロックを解除します』
くぐもった女性の機械音声が、カプセルの外側から聞こえた。それと同時に何かの装置が作動し、ゆっくりと水位が下がっていった。水に浮いていた悠一の足は装置の底につき、水面が顔、胸、腰と下がっていく。
カプセルの前面が開いた。まったく力の入らない悠一の身体は前のめりに倒れ、床に転落した。
と、それを抱き留めた人がいる。ぼんやりと目を開けると、そこには30代ほどの白衣を着た男性がいた。
「目覚められましたね」
男性はにっこりと微笑んだ。悠一は聞き返す。
「だ、れ・・・・?」
「詳しいことはまたあとで。今は肉体が再構成されたばかりです。少しお休みください」
ますます意味が分からなかったが、どうやら歓迎されているらしい。悠一は襲いかかる睡魔に身をゆだねた。
〇◆〇◆
再び目覚めたとき、悠一はベッドの上に横たえられていた。あれほど重かった身体も頭もすっきりしており、数時間熟睡したように気力が満ちている。
病院を思わせる白一色の部屋に、ベッドが6つほど並んでいた。しかしこの場所にいるのは悠一だけで、彼は一番奥、窓際に寄せられたベッドに眠っていた。身体を起こしてみると、洋服は事故に遭ったときのまま、白いTシャツにジーンズといういでたちだ。少し傍まで買い物に出かけるだけだったので、そんなお洒落に着飾る必要などなかったのだ。
窓の外を見ると、やはりますます病院といったイメージしか湧かなかった。地上3,4階の高さで、眼下には広い円形の広場のような場所がある。空は雲一つない晴天に恵まれている。夏らしい蒸し暑さもなく、非常に穏やかだ。
現実味のある光景を目にし、悠一は腕を組んだ。
俺は死んだ。トラックから英梨を守って事故に遭い、死んだのだ。狭間の番人、とやらが俺に運命を変える機会をくれるとか言って。そうだ、このままだと英梨は母さんと無理心中させられる。それを変えなければならない。どうすればいい? 事故の寸前まで戻って、英梨を引き留めればいいんだ。
そのためには黄泉の国に行けとかなんとか言われたような気がする。そこは記憶を浄化する場所で、俺の生きていた間の記憶も徐々に消えてしまうとか。その中で英梨のことを覚えていられたら―――俺の願いが叶う。
俺の名は? 遠藤悠一。「遠」はしんにょうが苦手だし、「藤」は画数が多くて面倒だから、苗字はあんまり好きじゃない。年は? 19歳。まだ酒も飲めない青二才。部活は? 中学はいつも県大会一歩手前でストップする陸上部。高校は美術部で、何回か美術展に出展したこともある。出身高校は? 公立の高校。地元じゃそこそこ頭の良い、有名大学につながる進学校。じゃあなんで俺は大学に行かなかった? 父さんが事故死して、働いて金を稼がないといけなかったから。職場は? 自宅マンションからチャリで15分の、昔ながらの洋食屋。売りはふわふわのハンバーグで、地元で発刊するグルメ雑誌では常連。店長は? 小学校からずっと親友の颯人の叔父で、田代店長。一見強面だが、実は涙もろくて情に厚い。でなけりゃ、高卒の俺を正社員で雇ってくれるものか。
よし、大丈夫―――俺自身のことはまだしっかり覚えている。
じゃあ、家族だ。父さんの名は謙吾。国立大卒の機器製造メーカーに勤めるごく普通のサラリーマン。子供好きだそうで、俺、とくに英梨は溺愛していた。旅行の計画を練って休暇を取るのはいつだって父さんだった。英梨が生まれる前、俺が高熱でぶっ倒れて小学校を早退してきたとき、どうしても仕事を抜けられなかった母さんに代わって迎えに来てくれたのは父さんだった。そのあとも、ずっとそばで看病してくれた―――だからこそ、俺の将来を強く案じてくれていたのかもしれない。そんな家族思いの人だった。
母さんの名は明穂。旧姓は今野。普通に高校を出て大学へ行った無難な人だ。父さんとは社内恋愛で、俺を生んでからもしばらく仕事を続けていた。身分云々より以前に仕事の内容がハードで、父さんより帰りが遅いときはよくあった。それでも、ふたりで仲良く定時で帰ってくるときは、悠一もなんとなく嬉しかった。会社をやめてしばらくして英梨が生まれ、英梨の子育ても一段落―――というより、高校生になった息子がお守りとして頼りになったため、今度はスーパーのパートをして社会復帰していた。父さんが亡くなったのは、そんな矢先のことだった。
妹の英梨は小学2年生。とにかく明るく活発で、たくさんの友達がいる。運動も得意で、運動会のときは大いに活躍していた。勉強のほうも、そこそこ成績はいいようだ。それでも宿題で分からないことがあると必ず悠一に聞いてくる、勤勉な子だ。おそらく両親との思い出より兄といた記憶のほうが強いので、かなりお兄ちゃんっ子だ。つい先月にあった授業参観には「お兄ちゃんが来て!」と頼まれたほど。母さんも丁度パートと重なり、例年参観日は行けなかったので、仕方なく悠一が久々に母校の小学校の教室に入ったのだ。とはいえ周りはお母さま方ばかりで、非常に気まずい。何か誤解されたら大変ではないか。
悠一はそんな英梨が可愛くて、そして不憫で―――なるべく妹といる時間を増やし、仕事も早めに切り上げていた。家にひとりでさびしくないかと心配なのだ。しかしそんな兄の不安を知っている英梨は、夕方まで仲のいい友達と遊んでいる。だから大丈夫だ―――と示しているのだ。
平気だ。俺はまだ、何も忘れていない。
その時扉が開いた。入ってきたのは、最初に悠一を抱き留めてくれた白衣の男性だった。
「起きていましたか。気分はどうですか?」
「大丈夫です・・・・・多分」
男性は悠一の前に腰をおろし、手に持っていた紙に何か書き込んだ。
「まずは自己紹介を。私はカシエル、この【再生ノ院】の管理者です。貴方は?」
「あ・・・・悠一です。遠藤悠一」
「年齢は?」
「19です」
「お若くして常世を去られたのですね。それだけ黄泉の国を旅するには有利になりますが、お気の毒に・・・・・」
カシエルという男性は、本当に気の毒に思っているらしい。悠一には答える言葉がない。
「ユウイチさん。これからこの国のことと、貴方が進むべき場所についてご説明します。どうか取り乱さずにお聞きください」
神妙な顔つきでカシエルはそう言い、悠一はごくりと唾を飲み込んだ。
「貴方は現実の世界で命を落とし、この黄泉の国へとやってきました。言うならばこの世界は、死者の世界です」
それは承知のことだったので、悠一は黙ってうなずく。先程「再構築」と言っていたのは、一度肉体を失った悠一の魂が、この世界のあの装置のなかで再び形を成した、復元したということだ。多分、実体として悠一はここに存在しているが、実際は魂だけの存在なのだろう。
「貴方はこれから『巡礼者』となり、決められたルートを通って『神の門』へ向かわなくてはなりません」
「・・・・神の門?」
「はい。そこが『巡礼者』・・・・・つまり、生を失った魂たちの終着点です。そこへたどり着くと、死者の魂は常世へ転生し、新たな生を迎えます」
輪廻転生というやつか・・・・と悠一はぼんやり考えた。死者は皆この施設で目覚め、この国を旅していく。明らかに欧米の人だったり、アフリカ系の人がいたりするのもそのせいだ。そして若いほど有利なのは、老人では旅をするのが辛いからだろう。
「じゃあ、この世界にいるのはみんな死んだ人・・・・ですか?」
そう質問すると、カシエルは首を振った。
「いえ。巡礼者以外の者は神に遣わされた者たちです。巡礼者をサポートするのが使命で、私もそのひとりですよ。他には・・・・・死後の世界と言っても肉体疲労は現実世界のままです。怪我もするし病気もします。そのための施設を整えています」
神の使い・・・・・天使? そう思ったが、目の前にいるカシエルは自分たちとなんら変わりないようだった。顔立ちは欧州人っぽい。
「言葉は通じるんですか?」
「ここではみなが好き勝手な言葉を喋っても、自動で翻訳されて脳が認識します。だから大丈夫ですよ」
そういえば明らかに、悠一が認識している言葉とカシエルの口の動きが違っている。それに気付くと急に違和感を覚えた。
「さて、この世界を旅するのに最も重要なこと・・・・・それは、記憶の浄化です」
カシエルが話を元に戻した。
「時間が経つにつれ、いつの間にか生前の記憶は薄れていき、最終的には完全に消えてしまうでしょう。『神の門』にたどり着いた巡礼者が覚えていることは、自分の名と、『神の門』へ到達しなければならないという、その意思のみです」
「・・・・・・」
「そして最後に残ったその記憶は、『神の門』におわす神が自ら浄化の炎で焼き払い、完全にまっさらになります。そうして、転生するのですよ」
「―――絶対に?」
「はい。絶対です」
悠一は息をついた。その中で自分は、家族のことを覚えていなければならない。それがどんなに困難か―――実感は湧かないが、きっとかなり辛い。それに心の強さだけで、記憶が消えるのを阻止できるのだろうか。
「大丈夫ですか?」
カシエルが気遣う。悠一は頷いた。
「この地を一人で旅するのは骨が折れるでしょう。この施設内に、旅のパートナーを探す者が大勢います。貴方の装備を整えねばなりませんし、少し散策してみてはいかがでしょうか」
気分転換になるかと思って、悠一は頷いた。
部屋を出ると、どこまでも廊下が続いていた。延々と歩いてようやくエレベーターを見つけ、1階へ降りてみた。1階は広いエントランスホールになっていた。そこに、多人種多年齢の人々が集っていた。まあどう見ても、老齢の人が多い。悠一のように10代で亡くなる者は、高齢者よりもずっと少ない。みな悠一とそれほど変わらない時間にこの国で目覚めたらしく、みな心許なさげだ。
悠一は壁際にあったベンチに腰かけた。天井を見上げると、2階まで吹き抜けになっていた。日の光が差し込み、穏やかだ。
悠一は目を閉じた。重い使命を背負ったためか、一気に疲れが押し寄せてきた。目を閉じて英梨の顔を思い浮かべる。忘れないように―――
「・・・・英梨」
そう名をつぶやいた。その時、真正面に人が立つ気配がした。顔を上げると、中学生くらいの少年が立っていた。目の色は青で、髪の毛は金。日本人ではない。
「・・・・あのぅ」
少年がぼそぼそと口を開いた。
「ああ・・・・なんだ?」
「隣・・・・・座ってもいい?」
拍子抜けしたが、悠一は頷いて隣を空けた。少年はすとんと腰を下ろす。
しばらく沈黙が流れた。何か言いたいことがあるのだろうが、言い出せないでいるのだろう。こういう時は年長が引っ張ってやらないと―――と、悠一はなんとなくそう思った。
「お前はいつ目が覚めたんだ?」
「・・・・・2時間くらい前」
「そうか。俺はついさっきだよ。何がなんだかさっぱりだ」
「うん・・・・僕も」
悠一はずっと俯いている少年を見やった。こういう年下の子がいると、どうも面倒見の良さが出るのか慰めたくなる。自分だって沈鬱な心のうちなのに、それがどこかに吹き飛んでしまうのだ。
「俺は悠一。お前は?」
「ファルベ。お兄さん、ニホンの人なんだね」
「ああ」
「僕、ドイツにいたんだ」
ファルベは問わず語りに、自分が死んだ経緯を話し始めた。
「生まれたときから病気でね。10歳まで生きられれば良い方だって言われてたんだ。結局15歳になって・・・発作で、病院に行く救急車の中で死んじゃったみたい」
「・・・・・・・」
「昔から寝たきりで、死んだほうがましじゃないかって思ってた。でも・・・・・死んだ後も、面倒なことばっかりだね」
「今、その病気は平気なのか」
「うん。ウソみたいに身体が軽いんだ。こっちに持病とかは持ってこれないんだって」
そういうファルベは、ほんの少し嬉しそうだった。皮肉なことに、死んでから自由に歩き回れるようになったのだから。
「お兄さんは? 嫌じゃなかったら、教えてほしいな」
「・・・・・俺は、交通事故だった。妹がトラックに撥ねられそうになって・・・・・俺が咄嗟に」
救急車に乗せられたところまでは覚えているが、そのあとのことは覚えていない。手術をして、その後一度も目覚めずに息を引き取ったようだ。自分が死んだ様をこんな客観的に受け止めているのが、悠一にはおかしくて仕方がない。
ファルベは相槌を打った後、沈黙した。言いたいことは分かる。しかし黙っていた。
やがてファルベが口を開く。
「お兄さん・・・・一緒に旅する人、いる?」
悠一は肩をすくめた。
「いたら、ここに一人で座っていなかったよ」
「じゃ、じゃあ・・・・僕と一緒にいってくれない?」
なけなしの勇気を奮って頼み込んだようだ。目が必死だ。悠一は微笑み、英梨によくやったように頭に手を置いた。
「・・・・ここには爺さん婆さんが多すぎる。年が近いお前となら、気が重くなくて良い」
「ほんと!? あ、有難う! 僕、ずっと心細かったんだ・・・・!」
ファルベが初めてまともな笑みを見せた。それはこの年頃の少年なら誰でもする笑顔だった。
「俺のことは悠一でいいよ。よろしく頼むぞ、ファルベ」
「うん! こちらこそよろしく、ユウイチ!」
なんとか、ともに旅をする同行者を見つけた悠一だったが、若干気が楽になっただけで大した効果はなかった。
どうやら俺は、死んでなお年下の面倒ばかりみる宿命らしい―――と、自嘲気味に思った。