外伝 ~芹菜
『芹菜、夏の大会で2年の女子の枠を手に入れたんだって? 颯人から聞いたよ。大会、いつだ?』
『もしかして、応援に来てくれるの?』
『行くよ。インカレにつながる大事な試合だろ。ガキの頃とはいえ、一緒に剣道やっていた人間として、お前の晴れ姿を見に行きたいんだ』
私が、彼の作った名物メニューのハンバーグを食べているカウンター越しに、悠一くんは優しく笑ってくれた。
私は5歳の時から、街の道場で剣道を習っていた。その時一緒に習っていたのが遠藤悠一くんで、彼は別に、剣道師範の父の言いつけで剣道を学んでいた私とは違い、基礎体力作りのために習っていたにすぎなかった。本来ならばサッカーだとか水泳だとかを習うのが一般的かと思っていたが、剣道を選んだのはただ「道場と家が近いから」だそうだ。その割には筋が良く、父にみっちり仕込まれている私から見ても太刀筋がとても綺麗だった。ほんの子供だったので友達に男も女もなく、私はたぶん、悠一くんとずっと一緒に稽古していたと思う。私は幼稚園で、悠一くんは保育園に行っていたから、稽古の時以外に会うことはなかった。だからこそ私は、週に2度の稽古をとても楽しみにしていた。
しかし悠一くんは、小学校にあがると同時に剣道をやめてしまった。住んでいる地区が違ったので、小学校は別々だった。小学校に通う6年間で、私と悠一くんの交流はぱったりと途絶えた。
中学になるころには、子供のころ仲の良かった「ユウイチくん」という男の子のことは覚えていたが、そのほかの詳しいことはすっかり忘れてしまっていた。
中学は、周辺の小学校2校の生徒が進む学校だった。そして私は1年2組。教室の窓側から出席番号順に縦に机が並べられており、私の席は窓側から2列目の、前から3列目。左隣の生徒は男で、入学したばかりで緊張しているのか、ひとりぼんやりと窓の外を見つめていた。静かな子だな、と思った。
担任の女教師が自己紹介をし、みなにプリントを配った。氏名を書く欄があり、私はちらりと隣の男子生徒の手元を盗み見た。名前を知りたかったのだ。
遠藤、と書いたところまで見えた。彼の出席番号は3番なので、極端にこのクラスはア行の名字が少ないのだろう。
男子生徒は名を書き終わり、シャープペンシルを置いた。それでようやく、下の名前も見ることができた。
『遠藤悠一』
その名を見たとき、私はあっと思い出した。昔、剣道を一緒に習っていた男の子。思い出すと同時に、忘れていたはずの、幼少のころの思い出が一気に浮かび上がった。そうだ、彼だ。間違いない。あの時の悠一くんが、隣にいる!
でも、私のことを覚えているだろうか? 不安で、私は彼に声をかけることができなかった。
しかし休み時間になり、私は勇気を振り絞った。
「あっ、あの・・・・・」
声が震えて、すごく小さくなってしまった。しかし彼は聞き取ってくれて、顔をこちらに向けた。私が口を開きかけたとき、悠一くんの真横にある窓ガラスを、こんこんと誰かが外から叩いた。悠一くんが振り返り、錠を外して窓を開ける。
「よう、悠! 来ちゃった」
そういって顔を出したのは、見知らない男子だった。外のベランダを通ってきたのだろう。男子にしては少し背が低めだ。身軽に窓枠を乗り越え、クラスに入ってくる。悠一くんが呆れた顔になる。
「来ちゃった、じゃないだろ。颯人、ベランダに出るのは駄目だって聞かなかったか?」
「いいの、いいの。っていうかなに、もう早速かわいい子見つけちゃったわけ?」
「うるさい。・・・・で、なに?」
悠一くんが颯人という男子を払いのけて私を振り向く。私は勇気を振り絞った。
「あのね・・・・・私のこと、覚えてない?」
「え?」
悠一くんが首をかしげる。
「私、芹菜。片瀬芹菜」
悠一くんは少し黙り、それから顔を上げた。
「剣道で一緒だったな。うん・・・・久しぶり」
そういって、悠一くんは微笑んだ。あの頃と同じ、優しい笑顔だった。
それが私と悠一くんの、2度目の出会いだった。正直、悠一くんが私のことを覚えているのは意外だった。だが、素直に嬉しかった。
私と悠一くんは仲良くなり、悠一くんの親友である田代颯人くんとも、自然に親しくなった。悠一くんは剣道部に入るのかと思ったが、彼は陸上部に入った。田代くんは弓道部だ。後から知ったが、悠一くんはどんなスポーツでもそつなくこなす運動神経抜群の人で、夏になるとあちこちの部から助っ人要請を受けていたそうだ。
「へえ、去年全国大会の個人戦で優勝した女子って片瀬だったのか。隣の小学校にいるって聞いて、もしかしたらって思っていたんだけど。すごいな」
悠一くんがそう言ったときは驚いた。彼は私のことを覚えていたのだ。
そうやって仲良くするうち「付き合っているのでは」という噂が立ち、周知の事実になってしまった。悠一くんは女子にかなりモテたため、私はよく羨ましがられた。だが私たちにそんな意識はなく「一番仲のいい男子・女子の友達」に過ぎなかった。
そのまま中学の3年が過ぎ、高校受験が迫った。悠一くんが近辺では有名な進学校を受験すると知り、私は悩んだ。一緒のところに行きたいが、残念ながらテストの点は悠一くんにかなり劣った。
「田代くん、どこを受験するの?」
「俺は悠と一緒。ちょっと無理しちゃうけど、なんとかなるさ」
田代くんが迷いもなくそう言った。悠一くんが私に聞く。
「片瀬は?」
「私は・・・・・まだ分かんない」
「なんだよ、ここまで来て別の高校行くなんて寂しいぜ?」
田代くんが私の肩を叩く。
「だって、私遠藤くんと田代くんみたいに頭良くないし、成績も・・・・・」
「筆記でなんとかなるさ! 俺だって、悠に特訓してもらうつもりなんだから!」
私はちらりと悠一くんを見上げた。彼の背は、この3年で見上げるほど高くなっていた。
「私の特訓も・・・・してもらえる?」
「勿論、俺でいいなら。一緒に頑張ろう」
悠一くんは快くうなずいてくれた。3年の夏休みから私は最後の剣道の試合と悠一くんの講習をこなし、入試対策を始めた。
そのおかげか、私と田代くんは志望校に合格することができた。合格しても、私たちの関係は殆ど変らなかった。仲のいい男の友達。ただ、田代くんが一緒にいることは少なくなり、自然と悠一くんと過ごす時間が多くなった。きっと、田代くんが私の気持ちに気付いたのだろう。
このときには、私は悠一くんを友達以上に見ていたから。
悠一くんは美術部が終わると、週に3日間は私の部活終了を待ってくれた。そして夜道を一緒に帰るのだ。ひとりで夜道を歩くのが怖いと言ったところ、じゃあ一緒に帰ろうと自然な流れでそうなったのだ。
「悠一くん、なんで美術部に入ったの?」
私が男子を下の名前で呼ぶのは、悠一くんただひとりだった。
そして悠一くんもいつの間にか、私のことを芹菜と呼んでいた。
「絵を描くのは昔から好きだったんだ。それに、バイトもしなきゃならなかったから運動部に入るわけにはいかなくて」
バイトを「しなきゃならない」というのは、彼が幼い妹と両親のためにも、少しでも働いて稼ぎたいという強い思いのためだった。だから悠一くんは週2日バイトに行き、バイトがない3日間は私の帰りを待ってくれる。
こうして歩いていると、私たちカップルみたい。私はそう思うたび、鼓動が早くなるのを感じた。きっと顔は真っ赤だろう。
「芹菜はやっぱり剣道部か?」
「うん」
「試合があったら教えてくれよ。日程あわせて、応援行くから」
「有難う。頑張るね」
その時、私はすごく幸せだった。一緒の大学行って、働いて―――それを想像するだけで幸せだった。
それが崩れたのは、高校3年になったばかりの時だった。悠一くんのお父さんが、交通事故で亡くなったのだ。
「大学は行かない」
悠一くんはきっぱりと私と田代くんにそう言った。
「働くよ」
「つっても、今のご時世働き口なんてあるのか?」
田代くんが尋ねると、悠一くんは首を振った。
「それは・・・・・まだ分からない」
「悠がいいなら、叔父貴に紹介するぜ? 俺の叔父貴、洋食店やってるからさ。悠、料理上手だろ?」
「颯人・・・・・ああ、有難う。考えてみる」
私は悠一くんがひそかに美術大学に行きたいと思っているのを知っていたので、残念でならなかった。
私は田代くんと同じ大学へ行き、悠一くんは田代くんの叔父さんの経営する洋食店へ就職した。私は何度も部活帰りに店に寄り、夕食を食べた。悠一くんはいつもと変わらず、優しく私を出迎えてくれた。昼間一緒に過ごせなくても、少しさみしいけど私は満足だった。
「芹菜」
悠一くんが改まったように私の名を呼んだ。
「なに?」
「俺たち・・・・・ずっと友達みたいな感じだっただろ。ここまでずるずる引っ張ってきてなんだけど、俺はっきりしていないと気が済まない質なんだ」
「え・・・・・」
「次の試合は、俺が芹菜の『友達』として応援に行く最後の試合だ」
悠一くんはそう言って、私の右手を取った。そして私の手に何か握らせる。見てみると、濃い蒼の綺麗な石のついたブレスレットだ。
「これ・・・・・ラピスラズリ?」
「ああ、最強の守護石なんだってな。もらってくれ。それに・・・・・そろそろ誕生日だろ?」
私はブレスレットを腕につけた。そして微笑む。
「有難う、悠一くん・・・・・!」
私の誕生日と、私がこの天然石が好きだということ、ちゃんと覚えていてくれた。
私は悠一くんに手を振って、店を出た。
それが、悠一くんと会う最後の日になるとは思わなかった。
2日後の朝、いつものように大学へ出かける用意をし、食卓につきながらテレビのチャンネルをニュース番組に合わせた。その時、見出しが「妹を庇いトラックに轢かれ、兄が死亡」となっていた。見覚えのある交差点が画面に映る。
「悠一くんの家のすぐそばか・・・・・」
私はそう呟き、画面から視線を外した。その時、耳にありえない言葉が飛び込んだ。
『・・・・19歳で、飲食店従業員の遠藤悠一さんが―――』
「・・・・・え?」
私は茫然とし、テレビ画面を凝視した。
◆〇◆〇
颯人が講堂に入ると、見慣れた後姿があることに気付いた。本来夏休みのはずなのだが、今日は特別授業があるのだ。
「片瀬?」
声をかけると、芹菜が振り返った。少し微笑む。
「あ・・・・田代くん。おはよう」
「おう」
颯人は頷き、芹菜の隣に座る。そして芹菜の服装を見やった。
黒いTシャツに、黒いパンツ。いつもはお洒落なヘアピンをしているのに、ここ最近はずっと黒いゴムで髪をまとめている。悠一が亡くなってからの、彼女の服装はずっとこれだ。
「・・・・・ずっと、黒い服だな」
「うん・・・・・喪服のつもり」
颯人は背もたれに背を預けた。
「確か今週の土曜日だったよな。インカレの地区予選」
「・・・・・・」
「まさかとは思うけど、棄権するつもりじゃないよな?」
「だって私・・・・・こんな時に、剣道なんてできないよ・・・・・」
芹菜の肩が震えた。片瀬芹菜というこの少女は、非常に運動ができて剣道では全国でも有名な実力者だ。そういうこともあり、気の強い女に見られがちだが、そんなことがないということは悠一と颯人が一番よく知っていた。むしろ、気が強いとは真逆だ。本当は内向的で、恥ずかしがり屋で、家庭的な女の子だ。
「悠な、地区予選が終わったら片瀬に付き合ってくれって、言うつもりだったんだぜ?」
「悠一くんが・・・・・?」
「本当は高校卒業の時に言うつもりだったらしいけど、あいつそういうところ奥手だろ? それでここまでずるずる引きずってきて・・・・・大会が終わったら言うっていうから、先に言えばいいじゃんかって言ったらさ。それじゃ芹菜が試合に集中できなくなるから、あとでいいんだって」
何よそれ、あの時あんな思わせぶりなこと言って。思い切り動揺しちゃったじゃない。芹菜はそう思った。
「悠と片瀬って、高校の時から付き合ってたも同然だろ? 今更って感じもするけどさ」
「どうだったのかな・・・・悠一くんは、友達だって思っていたと思うけど」
「おいおい、そいつは片瀬、自分を過小評価しすぎだよ。いいか、悠は頭が良くて運動できて、背も高くて顔も良い。女子からモテまくりだったぜ? バレンタインにはチョコ大量だし、卒業式になりゃ告白される。けど、あいつは全部突っぱねたんだ。俺に言ったよ、『芹菜が好きだから』ってな」
芹菜の目に涙が浮かんだ。
「悠は、片瀬が剣道の試合で勝つことをすごく楽しみにしていたし、お前のこと応援してた。それに応えてやってくれねえか? 多分・・・・・あいつはそれを望むだろうから」
「田代くん・・・・・」
「悠と一緒に、俺、応援に行く」
芹菜は涙をぬぐい、頷いた。
◆〇◆〇
芹菜は地区予選に出場し、女子個人の部で優勝した。地区予選をトップで通過し、県大会へ進むのだ。
颯人は悠一のスナップ写真を手に持って、芹菜を応援した。芹菜は普段のおっとりさはどこへやら、凄まじい気迫で圧勝した。悠一に恥ずかしい報告できないから、と笑っていた。
「悠一くん・・・・・私のこと、覚えていてくれるかな」
試合後、芹菜はそう呟いた。颯人が頷く。
「大丈夫だって。だって小学校6年間会っていなくても、お互い覚えてたんだろ? しかも今となっちゃ、片瀬は悠の彼女だぜ? 絶対忘れないよ」
颯人がそう言って、芹菜に悠一の写真を渡す。
本当につい最近撮ったばかりの写真だ。あの優しい笑みが芹菜に向けられている。
「悠一くん・・・・・私、勝ったよ。これからも勝つからね」
芹菜はそう呟き、腕につけたラピスラズリのブレスレットに触れた。
最強の守護石。きっと悠一が守ってくれる。芹菜はそう思った。