第8話 君へ捧ぐ言葉
「―――あれ?」
悠一は素っ頓狂な声とともに目覚めた。目の前にある天井はあの宿の部屋の天井で、隣のベッドにはファルベが寝ている。悠一は身体を起こし、高校卒業とともに少し茶色く染めた髪の毛を掻き回す。
「昨日の夜、外に出て・・・・どうやって部屋まで戻ったんだ?」
部屋を抜け出したところまでは覚えているのだが、それでどこに行ったのか、何をしようとしたのか、いつ部屋にどうやって戻ったのか―――それがまったく記憶になかった。
時刻は朝の5時。もう夜は明けて辺りは明るい。典型的な早朝の清々しい天気だ。
悠一はファルベを起こさないようにベッドから降り、上着を着て部屋を出た。廊下の突き当たりにある階段を下りて1階のロビーに行き、まだ誰もいないカウンターを素通りして表へ出る。宿の目の前は噴水のある広場になっていた。この時間では人通りも少なく、水の音しか聞こえない。
噴水の傍にたたずんでいる人を見つけ、悠一はその傍に歩み寄った。その人、レントゥスは振り返って微笑んだ。
「やあ、悠一。昨日は大丈夫だった?」
「昨日って・・・・・何のことだ?」
「嫌だな、忘れちゃったのかい? 君、昨日の夜外に出て行こうとして倒れたんじゃないか。熱が下がったとはいえ病み上がりなんだから、寝ていなくちゃ駄目だって言ったのに」
「そ、そうだったのか?」
悠一が頭を掻くと、レントゥスは微笑んだ。
「大丈夫ならいいんだけどね。ところで、どうして君はそんなに巡礼の旅を急ぐんだ? 何か目的でもあるのかな?」
悠一の返事はない。レントゥスが肩をすくめた。
「・・・・・君、僕のこと全面的に信用してないよね」
「ああ。悪いけど、あんた怪しい」
「そんなはっきり言っちゃって。現実世界でそんな疑り深かったら、友達できないんじゃない?」
「余計なお世話だ。胡散臭さの塊みたいな奴に言われたくない」
「これまた言ってくれるね」
悠一はスルーした。なんだか、本能が彼は危険だと促しているのだ。レントゥスに、運命を変えるのだという目的を話したくない。
「で、実際の理由は?」
「会いたい奴がいる」
「転生して? そこに行くまでに記憶はなくなって、もう一度現世に生まれたとき、君は今とはまったく別の人間になっているんだよ?」
「それでも、必ず会えるって信じてる」
痒い文句だろう。言っていて恥ずかしい。レントゥスは案の定微笑んだ。
「愚直に信じるって、若い人の特権だよね」
「あのな・・・・」
「そこまでするってことは、会いたい相手は女の子?」
「・・・・・・妹だよ」
悠一がそっけなく答える。性格には、妹が死ぬ未来を変えたいのだ。
「他には? 友達とか、彼女とか」
そう言われ、悠一は沈黙した。
田代颯人。気の利く親友。俺のことをいつだって信じて支えてくれた。
それから―――
『悠一くん』
その声が聞こえる。引っ込み思案で、可愛らしい女の子だったが、悠一を見上げる目はいつもまっすぐで、優しかった。
『悠一くん。待っててくれたの? 遅くまでごめんね』
『うん。試合は明日の9時からなの』
『応援来てくれるの? 有難う! 私、絶対勝つからね』
小学校に入る前から知っていた。中学生になって、もう一度出会った。それから、高校までずっと一緒だった。
彼女の試合には絶対に行った。いつも試合が終わると、彼女は悠一に向けて笑ってくれるのだ。
いちばん仲の良かった女友達―――いや、もうそうじゃない。
全国の大会で通用するほど強い選手なのに、謙虚で照れ屋な彼女が、悠一はとても大切だった。
だから言うつもりだったのだ。夏の大会が終わったら、彼女に―――
「・・・・・セリナ」
悠一はぼそっと呟いた。ああ、駄目だ。漢字が出てこない。どういう字を書いたんだっけ? 世里那? 瀬莉奈? いや違う―――
芹菜。そうだ。片瀬芹菜だ。
「・・・・・もしかして、嫌なこと思い出させちゃった? なんかごめんね」
レントゥスが悠一の顔を覗き込んでくる。悠一は首を振った。
「・・・・・あんたが気にすることじゃない」
「ははっ、ほんと信用してないんだね・・・・・」
レントゥスが居心地悪そうに笑う。
「さあ、とにかく宿に戻ろう。まだ朝も早いことだしね」
「そういえば、あんたは何をしていたんだ?」
歩き出したレントゥスの背中に声を投げかけると、レントゥスは肩越しに振り返った。
「朝日を拝んでたんだよ」
悠一が怪訝そうな顔をして「はあ?」と首をかしげる。これほどレントゥスに似合わない台詞もないだろう。レントゥスは上機嫌に笑い、そのまま宿へ戻った。
◆〇◆〇
それから1時間ほど部屋で休み、起き出したファルベとともに宿に隣接しているレストランで朝食を摂った。ここでも「ご飯と味噌汁が食べたい」なんて思っていた悠一の気持ちを読み取られ、丁寧に漬物までついて出された。ファルベのほうはパンとスクランブルエッグという、洋風なメニューである。
「まったく、ここまで見透かされると気味が悪いな」
悠一は食後に出された、急須で淹れた緑茶を啜った。
「でも不思議だね。誰が見抜いてんだろう?」
ファルベも好奇心から、悠一に緑茶を分けてもらっていた。少し苦いと言ったが、案外口にあったらしい。悠一は薄い緑茶が好きなので、薄目な味が丁度良かったのかもしれない。
頭の上にフラグでも立っていたりしてな。悠一は口には出さず、そう思った。急須を空にして、湯呑とともに盆の上に戻す。
「よし、とりあえず買い出しだ。食料の類を調達しないと」
「レントゥスさんは?」
「あいつもあいつで、準備があるらしい。ほっとけ」
立ち上がって代金を支払った悠一に、あわててファルベが追いつく。
「ユウ、レントゥスに突っかかるね」
「なんか気に食わない」
「ユウでもそんなこと言うんだ?」
「俺だって人間だぞ。そりが合わない奴も、関わりたくないと思う奴も、大勢いる」
こう見えて悠一はあまり人付き合いが得意ではないのだ。それに加えて、レントゥスのような腹の底が読めないタイプは初めてなので、対応が分からないのである。
ゼイオンとノーブル間の夜で少し学習したので、多めに食材等を買い込んでおいた。勿論、邪魔にならない程度に、保存が効きそうなものを選んでいく。
「うーん・・・・これじゃ、主食が豆になりそうだな・・・・・」
「あ、僕、ポークビーンズとか好きだから大丈夫だよ」
ファルベが無邪気に言う。いやいや、そんな洒落たものじゃないから。豆の炒り煮とか、煮物にしかならないから。
とりあえず少し重くはなるが米は必須か。そう思って、食文化の違いを思い知る。ファルベやレントゥスは当然日本食文化で育ってきたわけではないので、口に合わないものもあるだろう。
ここにきて、洋食料理店での仕事の成果が出そうである。和食は母仕込み、洋食は田代店長仕込みだ。
(あー、もう、知らんっ)
最後にはだいぶ投げやりになる悠一であった。
いや、というかなんで俺が食事を全面的に引き受ける前提になっているのだろう? 同行するのだったらレントゥスに任せてもいいはずなのだが。
そうできない、弱気な自分が悠一の中に隠れているのである。
一通りの買い物を済ませて市場を歩いていると、後方から誰かが走ってきた。悠一が気付いて振り返ると、そこにはあの医者がいた。
「ああ、医者の先生」
悠一が呼びかけると、医者が困ったようにため息をついた。
「駄目じゃないですか、病み上がりなのに出歩いては」
「でも俺、もう熱も下がったし大丈夫ですから」
「それは医者が判断することですよ。あとで伺おうと思っていたので丁度良かった。ちょっとこちらへ」
医者は問答無用で悠一の手を掴むと、踵を返して走り出した。悠一は引っ張られる形でついていく。
「え、あの、ちょっと!?」
「あっ、ユウ待って!」
ファルベも追いついてきた。
向かったのは市場を抜けた先にある公園だった。医者は悠一をベンチに座らせ、手際よく検査していく。
「熱もありませんし、毒の影響もなくなったようですね。これならもう平気です」
「そうですか。ところで、良かったんですか? 医療道具の入ったカバンを提げているってことは、仕事中なんでしょう?」
尋ねると、医者は微笑んだ。
「往診の帰りだったので、大丈夫ですよ。それに、貴方の体調を診るのだって仕事です」
「往診・・・・・俺が倒れたときも、すぐ宿まで来てくれたんですよね」
悠一からすればありえないことだ。患者が病院に行くのが常なのだから、その逆はありえない。
「神の使いになったといっても、疲労は溜まりますからね。それに砂漠から戻られた巡礼者の中には、貴方と同じ毒に侵された方もいるときがあります。定期的に皆さんの顔を見て回るのが、私の使命です」
本当に、さも当たりまえのように言ってくれる。悠一のマンションは15階建て。7階が遠藤家だ。しかし3年ほど前、ひとつ下の階に住んでいた老婆が、一人孤独死していたという事件があった。身寄りもなく、心臓病を患っていた彼女は発作で亡くなった。救急車を呼んでくれる人も、看取ってくれる人もいない中、孤独に亡くなったのだ。近所付き合いが希薄な今の時代、孤独死なんてザラにある。
彼のような医者がいれば、そんなことにはならずに済むかもしれない。悠一はなんとなくそう思った。
医者と別れて宿へ戻ると、玄関ロビーでレントゥスと合流した。早朝以来姿を見せなかったレントゥスも、どうやら買い出しに出ていたらしい。その内容は悠一とは異なり、衣類や道具ばかりだった。
「何をそんな大量に?」
「砂漠越えには必須のものだよ」
砂漠の案内を買って出ただけあり、レントゥスは手慣れた様子だ。砂除けのローブにブーツ、足を取られないためブーツに取り付ける金具。登山みたいだ、と悠一は感じた。
「オアシスまでは1日。オアシスからその先の街トローンまでは2日。野宿が多くなるから、今日のうちにゆっくり休んでおきなよ。準備は僕がしておくから」
「有難う、レントゥス!」
ファルベに「どういたしまして」とレントゥスは微笑みかけた。それを見て、「怪しくはあるがとりあえず様子を見よう」と悠一は決める。年長者の雰囲気が悪いと年少は不安がると、経験上知っている。
レントゥスの手伝いをするというファルベと別れ、悠一はひとり部屋に戻った。ベッドに座り、おもむろにズボンの尻ポケットから濃紺の携帯を取り出した。ストラップはひとつ、ちょうど水面から飛び出したかのようにしなやかに躰を反らすイルカのキーホルダーだった。
高校生の時、悠一が美術展に出品した絵が優秀賞を取ったことと、『彼女』が新人大会で優勝したこと、ふたつの祝いを兼ねて水族館に行ったときに買ったものだった。
ペアでひとつのキーホルダーとなっており、片割れは『彼女』が持っている。
携帯を開く。勿論インターネットに接続したり、メール、電話をしたりすることは不可能だが、データフォルダだけは生きていた。ピクチャーを選択し、そこに映し出された少女の写真を見つめる。
肩にぎりぎり届くくらいのショートヘアと、大きな黒い瞳。竹刀を持っており、身につけているのも防具だ。かなり頬が紅潮している。
隣に立つのは悠一だ。悠一は私服で、少女より頭一つ背が高かった。
『芹菜、優勝おめでとう』
『有難う、悠一くん!』
『いやあ、すごかったぜ、片瀬! そうだ悠、携帯貸せよ。写真撮ったる』
『えっ!? でも田代くん、こんな試合直後じゃ汗かいてるし、写真なんて・・・・』
『何言ってんだ! 優勝を決めた試合直後だから、いい顔してられんじゃねえか。ほら、並んだ、並んだ。悠、もっと片瀬にくっつけ!』
『はいはい。こうなった颯人には何言っても聞かないからな』
悠一はごく自然に『彼女』の肩を抱き寄せた。『彼女』が真っ赤になり、ただでさえ火照っている身体がさらに熱を持つ。
『悠一くん・・・・・!』
『記念の1枚だ、笑えって』
悠一が微笑むと、『彼女』も微笑んだ。
これは、そうして撮られた写真である。
悠一は携帯を閉じた。
何やってたんだろうな、俺は。傍から見れば完璧に付き合っていた。そしてそれを事実にしたいと悠一も『彼女』も望んでいたのに、両者とも奥手すぎて言い出せなかった。
まさか、言う前に2度と会えなくなってしまうなんて―――。
幼馴染というか、小さい時から交流のあった相手と進展するのは、だいぶ難しいものだ。悠一はそう思い、ため息をついた。
携帯の電源を落とす。充電器のないこの世界で、無駄に消耗するわけにはいかない。記憶を失ったときに写真を見れば、浄化を食い止められるかもしれない。
携帯をベッドに放り出すと、悠一もベッドに倒れこんだ。目を閉じると、『彼女』の泣きそうな顔が瞼の裏に浮かんだ。
『彼女』は泣かない。どんなに悲しくても辛くても、泣くまいとする。
「・・・・・ああ、それでいいんだ、芹菜」
悠一は目を閉じたまま口に出して呟く。
「泣かなくていい。・・・・・必ず、また会える」
―――好きだ。誰よりも。
照れくさいから一言。お前にそう告げる。