カーム・クラスルーム
私が彼に出会ったのは、新学期が始まるその日だった。
何の取り柄もなく、一介の教師である私に特待生の担任を頼まれたのが始まりだった。それも、一人だけの。普段は担任を任されるとしても決まったことを告げられる事が普通だったが、その時だけは「頼まれた」のだ。特に断る理由もなく承諾した私に向けられたのは、何故か安堵の顔だった。今思えば、あれは「厄介払いができて安心した」顔だったのだろう。私が厄介事を任されるのは、別にその時に限った事ではなかった。正直、その時は何故私に任されたのかさっぱり分からなかった。信頼がなかったのだ。私は周囲から好かれているとは言えなかった。これと言った趣味もなく、性格は明るい訳でもなく、学生時代は勉強だけが取り柄だった。親しい友人もこれといっておらず、周りに生徒が自然と集まる同僚を見ては、いつも羨ましがっていた程度だったのだ。
そして新学期が始まる当日、私は入学式に出なかった。その代わりに、彼を迎えに行くよう指示されたのだ。生徒も保護者も校舎内に入り、誰一人としていない正面玄関の前で一人遠くを見る。事前に、彼について知らされたのはやたらと長い名前と性別、それと年齢だけ。彼の年齢は、通常この学校に入学する年齢よりもはるかに低いものだった。約束の時間の五分前、一台の車が目の前に停まった。出てきたのはやや太り気味の初老の男性と、その後ろについてくるように少年が出てきた。その少年が、彼だったのだ。真新しい青い服に着られ、顔に合わないサングラスをしているものだからどこかの御子息かと思ったが、よく見ると乱雑に切られていた長めの髪にどうにも違和感を感じずにはいられなかった。初老の男性から「サングラスはこのままで」と「それではよろしく」とだけ聞くと、すぐに男性は車に乗せられて去ってしまった。玄関には、彼と私だけが残された。彼は、角ばった鞄を何も言わずに抱え、ただじっと地面を見ていた。私が自己紹介すると彼はこちらを向いたが、私が尋ねても自分の名前は言わなかった。
それから、私と彼の生活が始まった。生徒が登校してくる校門からは彼は来ない。いつも裏口の目立たない所で車から降ろされ、それを私が迎えるのだった。詳しい事情は教えてもらえなかったし、聞こうともしなかった。まあ所謂、天才少年と呼ばれている部類の子供だろう。今までにいなかった訳ではない。噂も聞いていた。今活躍しているスターがうちの卒業生だとか、有名な科学者がうちの卒業生だとかは校長からよく聞かされたものだ。
彼と私はよく似ていた。学校に来ても勉強しかせず、友達も作らず、恋愛など当然の如くしない。もっとも、彼の場合は他の生徒と触れ合う機会がなかった事もあるだろうが。この特待生クラスは校舎の一階の一番東側、用がなければ誰も来ないような狭い教室だった。本鈴が鳴ると廊下からは微かに慌ただしい足音と楽しそうな騒ぎ声が聞こえてきたが、彼は廊下に出る事もなく黙々と本を呼んでいた。機械工学の本だった。私は、その空間が好きだった。彼の授業は私に全教科任され、教材さえ持ってきてしまえば職員室に戻る必要はない。休憩の間は、私も此処で何も言わずに本を読む。お互いに、話しかける事はなかった。誰にも邪魔されない空間であり、私が唯一落ち着ける場所でもあった。
そして一ヶ月経ったある日、その沈黙を変えたのは彼の方からだった。
「それって……」
吃驚して顔を上げるが、声をかけてきたのは紛れもなく彼だった。いつの間にか席を立ち、私の呼んでいた本を控えめに指さしている。私が呼んでいたのは、最近流行りの子供向けファンタジーだった。表紙から分かったのだろう。サングラスの奥の彼の目が、きらきら光っているような気がした。いくら特待生とはいえ、正真正銘の子供だったのだ。私は机に置いていた栞をはさむと、本を閉じて彼に差し出した。彼は最初こそ戸惑っていたものの、私が了承すると恐る恐る本を手に取った。彼は珍しそうに表紙を眺め、少し凹凸のあるイラストを指でなぞる。いつもは楽しい事など何も考えていなさそうだった口元が、少しだけ緩んでいたような気がした。深く頭を下げ、彼はその本を大事そうに持って席につく。丁度、次の授業の予鈴が鳴った。二人揃って授業の準備をする。横目で見ると、彼は鞄を下敷きにして本を床につかないよう置いていた。子供ができたようで、嬉しかった。
それから私達は、時折本の貸し借りをするようになった。否、私は貸していただけだ。彼は勉強をするための本しか持っておらず、それさえもあの初日に来た初老の男性から借りたものだ、と言うので強要はしなかった。何度かその事を彼に謝られたが、別に私はその事を気にしていなかった。寧ろ、彼に本を貸すという行為ができただけで私は嬉しかったのだ。子供というよりは、友達に思えた。彼からはお礼の意味なのか、ノートの切れ端に書かれた感想が挿まれていた。その感想の裏にも、勉強したであろう痕跡が見られた。やはり、彼と私はよく似ていた。
夏休みに入っても、彼は学校に来た。休暇など必要ない、と彼が言ったのだ。私もそれに応じた。予定がなかったからだ。おかげでよく、校舎内の管理を任された。せいぜいが戸締まりがされているか、まだ残っている生徒がいないか確認するだけだったが、彼はよく私のそれに付き合ってくれた。暗く静かな廊下を歩くのは、私たちにとってとても楽しかった。まるでこの学校のすべてを支配できたような感覚を味わえるのだと、二人でよく話し合った。年齢にそぐわぬ学力を持った彼とは、よく話が合った。普通の人に話せば「何それ」の一言で片付けられてしまう話でも、彼は真剣に聞いてくれた。もうその頃には、此処の生徒が三年かけて学習することはほとんど終わってしまっていた。
彼と出会ってから、半年が過ぎた。丁度校内は文化祭やら体育祭やらで盛り上がっていたが、当然の如く欠席届を出した私達は、他のクラスが準備をしている間もいつものように授業を続けていた。彼との空間を破られたのは、その最中だった。彼と私しか開けた事の無かった古びた扉が、開いたのだ。ひょっこりと顔を覗かせた二人の女子生徒は私達を見て顔を見合わせたが、すぐにせわしなく手を振りながら話し始めた。
「此処に看板用のボードってありますかー?」
「ないよ。確か、もう二つ向こうの教室に移動させたと思ったけど」
「ありがとうございまーす」
緩い返事を返すと、彼女達は扉を閉めいそいそと去っていった。居心地の良い空間を壊された気がして不愉快だったが、かといって彼女達を責められる訳でもない。授業を続けようと正面を向き直ると、教科書を見るでもなく俯く彼が目に入った。彼の手は、微かに震えていた。
それからというもの、今まで知られていなかった彼の噂が学校中に広まり始めた。私も少しだけ耳にしたが、大企業の御曹司だとか、校長の隠し子だとか、IQが三百もあるとか、あることないこと様々な噂が流れていた。教室を覗きに来る者も現れた。廊下側のすりガラスの窓も閉め、カーテンも閉めていたので見に来た者の顔を直接見る事はなかったが、時折授業の合間の休み時間になるとばたばたとした足音と押し殺すような笑い声が聞こえてくるのは事実だった。不快だった。沈黙の空間は、音があれば否応にも崩される。しかし、怒鳴ろうにも怒鳴れないところが私の弱い所だった。だからこそ、覗きに来られていたのかもしれないが。彼の手の震えは、依然として続いていた。普段はあまり笑わない私が教室にいるからこそ、笑い声に関しては敏感だった。いっそ彼に耳栓でも買ってやろうかと思ったが、そうすると私の話も聞こえなくなるのでやめた。もう私は、彼の事を友人だと考え始めていた。私の話は聞いてほしかったのだ。彼は人と関わろうとしていない。何故かは検討がつく。人と関わる事が怖いのだ。正確には、自分が失敗をしてしまう事が怖いのだ。私も、彼と同じだった。これから、噂を聞きつけた生徒達の行動がエスカレートするかもしれない。それだけが不安だった。笑い声を聞くだけで恐怖を感じる彼が無関係の生徒に、まるで珍しい生物を見るような目で見られる事は想像しただけでも許し難い事だった。
そして、噂が流れ始めてから一ヶ月もしないうちに、私が心配していた出来事は起きた。私は、次の授業で必要な教材を取りに職員室に行っていた。そして戻ってきた時、彼が教室にいなかったのだ。トイレに行ったのだろうと考えていたが、数分後、戻ってきた彼を見てその予想は裏切られた。彼の髪はいつも以上に乱れ、ぐしゃぐしゃになっていた。そしてサングラスも外されており、泣き顔を隠しながら教室に戻ってきた。私はすぐに駆け寄ったが、泣いていて話を聞こうにも聞けない状態だった。私は教卓にある椅子を持ってきて、彼の隣に座る事にした。肩を軽く叩いてやると、彼はその手を握った。その手はいつも以上に震えていた。彼は最早、私の友人だ。友人をこのような事にする者は許す訳にはいかない、とらしくもなく怒りに震えていると、ふと彼の頭に違和感を感じた。乱れた髪の毛から覗く耳が、尖っていた。彼の目を見る。手の間、涙の奥に見える彼の目は、マリンブルー色をしていた。彼は、私の住んでいる地域でいう「人外」だった。
人外。尖った耳と、マリンブルーの目をした者のことを言う。私の住んでいる地域で、「人外」は迫害されていた。理由には戦争が絡んでいるそうだが、詳しい成り立ちは諸説あるそうだった。普通に買い物をする事ができない店も多くある。働き口もない。ろくな生活もできないでいるのが「人外」の現状だった。事実、私も「人外」を嫌悪していた節がある。周りが悪く言っていると、否応にも悪い印象がついてしまっていたのだ。私は、彼をさすっていた手をそっと離した。彼は泣きやまなかった。その日はその後の授業を潰し、彼を帰らせた。いつも以上に、その背中が小さく見えた。
その日からも、彼はいつも通り学校に来た。だが、以前のように話す事はなくなった。彼が怯えるようになったせいもあるが、何より私が彼を避けるようになってしまったのだ。普通に授業をしていても、その空気はぎくしゃくしたものになった。休憩時間に、二人で黙って読書をする事もなくなった。家に帰ってから、私は彼の触った本を捨てた。彼に貸した本に挟んだ栞も捨てた。だが、いつまで経っても彼から貰ったノートの切れ端だけは捨てる事ができなかった。
次第に、彼自身も避けられている事を気付くようになった。彼から私に話しかける事はなくなった。また、学校中に彼の事が知れ渡った。彼の事を覗きに来る輩は、どんどん過激になっていった。彼は、日に日に元気がなくなっていた。あの時に彼の事を泣かせた犯人が誰なのかなど、もうどうでもよくなっていた。時折彼が辛そうな顔をする度に心が痛んだが、また以前のように接する勇気が出せずにいた。結局は、私は周りの評判を気にしていただけの卑怯者だったのだ。しかしどれだけ自分を責めても、結局嫌悪の視線はいつの間に彼に向いていた。それなのに、彼は授業に出続けた。まるで、それしか自分のする事がないかのように。彼の生活など、「人外」である事を考えれば容易に想像できた。しかし、あの初老の男性との関係はいつまで経っても分からなかった。恐らくそれは、本人に聞かないと分からないだろう。そこまで探る勇気もなかった。私は、学生の頃と何ら変わっていなかったのだ。何度か彼に話し掛けようとしたが、話し掛けようとする度に胸が苦しくなった。彼は、新しいサングラスをかけて口を閉ざしていた。朝、彼を迎えに行くことも少なくなった。
ある朝、あの教室に行っても彼はいなかった。その代わりに、教卓の上には一冊の本が置かれていた。彼が「人外」だと分かる前日に、彼に貸した本だった。一瞬、その本に触るのを躊躇ったが、すぐに私は本にはさんである紙に気付いた。以前のような切れ端ではなく、しっかりとした便箋。罫線を無視して文章がびっしり書き込まれている。それは本の感想でもあったが、私への手紙でもあった。読んでいるうちに、私に電話がかかってきていると呼び出しがあった。彼が体調不良のため、休むという連絡だった。
私はその日、あの初老の男性のもとを訪ねた。連絡先は、彼が入学する前に知らされていた。電話に出たのは使用人らしき女性で、すぐに私が向かうことに応じてくれた。本当は彼の連絡先さえ聞くことができればよかったのだが、何故か家に向かうことになってしまったのだ。
その家は、古ぼけた洋館という言葉が似合うような、洒落た雰囲気の家だった。玄関の呼び鈴を鳴らすと、使用人の女性が出てきて私を迎えてくれた。あの初老の男性がいるかどうか聞くと、今は外出している、と微笑みかけられる。私はとある部屋に案内された。その部屋の奥に、ベッドがある。そこで彼は眠っていた。使用人の女性が一礼してから部屋を出る。私はベッドの脇の椅子に腰掛けた。彼は、私が部屋に入ったときから目を覚ましていた。
「……風邪?」
私が聞くと、彼は怯えるような視線を返してくる。少し経ってから、彼は小さく首を縦に動かした。彼を目の前にして、私の胸にあったのは彼を心配する気持ちと罪悪感だった。今まで散々避けておいて、今更仲良く接しようなんて我ながら卑怯だ。でも、彼に言いたいことがあった。
「ごめん」
彼に、謝りたかったのだ。
彼はきょとんとした顔をした。許されなくてもいい、私は彼に謝りたかった。あの手紙を読んで分かったのだが、私が思っている以上に、彼は私を信頼してくれていた。そして同時に、自分が「人外」であることを知られたときには、裏切られる事も覚悟していたらしい。彼は、私以上に大人なのかもしれない。いや、多分そうだった。彼は私に、今までで一番の笑顔を見せた。彼は私を責めなかった。彼は私に何かを聞くこともなかった。ただ、その後は今日するはずであった授業のことについて話しただけだった。初老の男性との関係も探るつもりだったが、すっかり話に夢中になってしまい忘れていた。そのことを思い出したのは、私が自宅に帰ったときのことだった。もうその気持ちは薄れてしまっていた。
次の日から次第に、以前のような生活が戻ってきた。私は毎朝、彼を玄関に迎えに行くようになった。教室の扉には鍵を取り付けた。彼を守るように歩いた。再び彼との関係が戻ったときには、既に私は周りから嫌われていた。だが、それでもよかった。友人を守るためなら、他人に疎まれようが構わない。彼は、私にできた初めての親しい友人だった。その後、捨てた本を古本屋で見つけて買い直した。
その頃に聞かされたことだったが、彼は一年経ったらとある研究所に送られるらしかった。機械開発をしている研究所だ。彼がよく機械工学の本を読んでいたのは、そのことを知っていたからだったのだろう。その分野に興味のある人にとって、そこそこに有名な場所だった。この歳にして、そこまでの頭脳を持っていたのだ。私とは格が違うことを思い知らされた。彼はそのことを私が伝えて尚、喜びはすれどそれを鼻に掛けることはなかった。寧ろ、研究所に行けることよりも何か他のことに対して喜んでいるようだった。彼は、より一層勉強に熱心になった。
そして予想以上にあっさりと、別れの日がやってきた。まだ肌寒さの残る、よく晴れた春の日だった。その日は早めに授業を切り上げ、一旦外に出ようと彼を誘った。彼は数秒間沈黙してから、静かに首を縦に振った。彼を私の車に乗せ、車を出す。近所のケーキ屋に向かった。毎年私が、一人のためのクリスマスケーキを買いにいく場所。三ヶ月ぶりだった。彼は落ち着かない様子できょろきょろ周りを見ていた。何でも好きなものをひとつ選んでいいと言ったら、ぱっと顔を明るくさせた。久々に彼の子供らしい一面が見られて嬉しかった。彼はケーキを食べる事はおろか、本物のケーキを見た事がなかったと言った。十分にも及ぶ苦悶の結果、彼はオーソドックスなショートケーキを選んだ。私もそれにした。彼にケーキの入った箱を預けると、まるで家宝のごとく大切そうに持っていた。
車に乗り、再び教室に帰ってくる。この教室こそが、私達が一番落ち着く事のできる場所だった。教室で、とても小さな卒業式をした。普通の生徒がする卒業式に出す気はなかったし、恐らく出させてももらえなさそうだったからだ。卒業式、といってもほぼお別れ会と変わらぬものだった。もくもくとケーキを食べ、話をするだけ。彼は、それだけでも嬉しいと言ってくれた。私も嬉しかった。ケーキをほおばるうちに、彼は自然とサングラスを外していた。マリンブルーの目が見えても、もう嫌悪感はない。かえって、その目が綺麗に見えるほどだった。彼はケーキを食べ終わると、彼は唐突に私に頭を下げた。口を拭いていた私は、思わず目を丸くしてしまう。
彼は、ゆっくりと深呼吸してから言った。
「僕の事を見てくれて、ありがとうございました。いつも面倒見てくれて。僕が嫌われ者だって分かっても、僕の事を気にしてくれて。先生はいつも、自分は何の取り柄もない普通の人だって言ってましたけど、先生は異常ですよ」
彼は柔らかい笑みを見せた。初めて見る顔だった。私と同年代の人物と錯覚してしまうようだった。大人に見えたのだ。
「君だって異常だ」
「何でですか?」
「類は友を呼ぶんだろう」
「そうですね」
そうして話しているうちに、彼との別れの時間になってしまった。元々二人でしか使っていなかった部屋だ、そんなに散らかる事もなく、簡易的な掃除を済ませて荷物をまとめた。その際、彼は私に一冊の本をくれた。本と言っても薄っぺらくぼろぼろで、機械工学の専門書のようだった。彼からの初めてのプレゼントだった。私は彼の頭を思いっきり撫で、礼の言葉を贈り続ける。少しだけ、じわりと視界がにじんだ。初老の男性が迎えに来た際には形式的な挨拶をして、彼とその荷物を車に載せた。彼が手を差し出してきたので、力強く握手をする。私は、去っていく車を手を振って見送った。それが角を曲がり見えなくなっても、其処から動く事ができなかった。
次の年度が始まると、私は普通の教師に戻った。当時も彼についての噂が流れていたが、有名な研究所に行ったとか、実は科学者の息子だったとか、そんなものだった。私の耳に直接入る事はなかったが、彼を侮辱するような内容ではなかったので放っておいた。私は相変わらず忌み嫌われていたが、以前から一人だった私にとって周りが自分に無関心だろうと自分を嫌っていようと別にどうでもいい事だった。あの特別教室は、再び道具が運び込まれ物置と化していた。あの、彼と授業をした空間はどこにもなくなってしまっていた。時折何の用もないのにその教室を訪れる事もあったが、あの時よりも居心地がいいとは言えなかった。友人が一人、遠くへ行ってしまったと感じた。あれから、彼とは連絡がついていない。彼が行ったという研究所に手紙を送ったが、いつまで経っても返事は来なかった。忙しくて返事が書けないのか、読んですらいないのか、そもそも彼の元に届いていないのかも分からない。彼が今も尚、その研究所に勤めているのかも危うい。ただ一人の友人のためとはいえ、何の関わりもない私が研究所に足を踏み入れる事はできないだろう。直接会いに行く勇気もない。もう一度だけ手紙を書いてみようと思うが、またそれも徒労に終わるだろう。今、彼はどこで何をしているのだろうか。私の様な、否、私よりももっと素敵な友人はできたのだろうか。もう一度彼に出会えたら、聞きたい事が沢山ある。私は、机の中から便箋を取り出した。
彼の名前は、フィオ・フィオーレといった。
calm[形]
1.穏やかな、静かな
2.平静な、落ち着いた