ぽんちゃん入国
その後オマル氏一派は新国家アフガン=イスラム共和国の政府軍に捕らえられてしまい、ぽんちゃんは初代大統領ハーミド・カルザイ氏の父の姉の夫の前妻の養父の妹である中国人女性の友人、日本人のフリージャーナリスト女性に引き取られ、十三歳にして晴れて日本への入国を果たしたのだった。
ぽんちゃんはこうして日本人としての国籍を得た。松下華実という名はこのときに得た姓名である。生まれた時に果たして彼女が何と命名されていたのかは、記録にもないので誰にも知るすべもない。
ぽんちゃんは当然のことながら、当時日本語を全く話せなかったし義務教育も受けていなかったので、特別に中国人学校に三年間就学させてもらい、それで義務教育を修了したことになった。彼女はその間勉強をほとんどしなかったが、日本語だけはよく覚えた。
ところがぽんちゃんが中国人学校を卒業して約一ヶ月後、日本で育ててくれたジャーナリスト女性が北朝鮮のピョンヤンへ取材中に突然消息を絶った。その情報は外務省を通じて彼女のもとへ速やかに伝えられた。その後その女性は、ぽんちゃんの待つ本国へ再び戻ることはなかった。その時もぽんちゃんは意識してその女性と過ごした三年間のことを『過去のこと』として記憶の奥へとしまいこんだ。
ぽんちゃんは学校法人を保証人にアパートを借りて一人暮らしを始めた。そこで四年間アルバイトをしながら自力で通訳養成の専門学校へ通い、晴れて中国語通訳の資格を得た。
これまでのぽんちゃんの歩んできた人生は、まさに『波乱万丈』という言葉がぴったりである。
しかし、ぽんちゃんの性格は、そんな生い立ちにも拘らず、いたってポジティブ思考である。ぽんちゃんの得意なことは常に笑顔で、日本での七年間、彼女の周りにはいつも友達が絶えなかったし、心通じ合った友達は数えてもきりがないほどである。ぽんちゃんは偉い!
ぽんちゃんが四年間通いつめた専門学校では履修卒業後、通訳の資格を得た者の就職先を精力的に斡旋してくれた。
ぽんちゃんはある日、とある団体より採用を検討している旨の通知を受け、いよいよ採用面接に臨むこととなった。