生まれて初めて見たものは、いちばん好きなひとの死体でした。
私は、生まれてから一度も、ものを見たことがない。
だから村の人たちが言う「醜い」も「美しい」も、私には手ざわりのない言葉だった。おまえは器量よしだと、酔った男たちはよく言った。けれどその言葉はいつも、器量よしのくせに穀潰し、という悪口の前置きにしか使われなかった。
目の見えない娘は、貧しい村では水汲みひとつできない口だ。十七の冬、私は森に捨てられた。
「神隠しにあったことにするから」
村長はそう言った。優しい声だった。人は残酷なことを言うとき、いちばん優しい声を出す。
夜の森は、音でできていた。梢の鳴る音。遠くの獣の声。自分の歯の鳴る音。私は木の根元に座って、朝が来る前に終わりが来ることだけを祈った。寒さで死ぬのは、眠るのと似ているという。それなら私にもできる。眠るのは得意だった。
地面が、揺れた。
足音だった。一歩がひどく重い。熊、と思った。それにしては、足音はためらっていた。近づいて、止まり、また近づく。獣はためらわない。ためらうのは、心のあるものだけだ。
目の前に、熱があった。焚き火みたいな体温が、私の顔のすぐ先にある。
「……食うか」
太鼓の底みたいな声だった。大きな手が、私の手を取って、何かを載せた。木苺と、固い干し肉だった。
「あなた、だれ」
返事はなかった。ただ、私が食べ終わるまで、熱はそこを動かなかった。
◇
彼の小屋は、山の深いところにあった。
私は彼がなんなのか、訊かなかった。村の大人は、山の奥には魔物が棲むと言っていた。だから、たぶん、そうなのだろう。でも私の世界に、魔物の姿かたちは存在しない。私にとって彼は、大きくて、あたたかくて、森と鉄の匂いがして、話すのが下手な、それだけのひとだった。
「名前は?」
最初の晩に訊いたとき、彼は長いこと黙った。囲炉裏の薪が二度爆ぜるくらい、黙った。ないなら私がつけようか、と言いかけたとき、低い声が言った。
「……ルカ」
声が、少しだけ震えていた。理由は訊かなかった。名前を言うだけで震えるひとがいるなんて、そのときの私は知らなかったのだ。
ルカとの暮らしは、静かで、忙しかった。
彼は私に、水場までの道を作った。木の根を全部抜いて、転ぶものが何もない道。縄を張って、縄の結び目で「ここから三歩で川」とわかるようにした。誰に教わったのか、料理までした。最初の粥は焦げていて、次の粥は焦げていなくて、その次の粥には、蜂蜜が入っていた。
「甘いの、どこで」
「……崖の、巣」
「危ないことしないで」
「…………」
彼は返事に困ると黙る。その沈黙で、私は嘘と本当を聞き分けられるようになった。
いちばん好きだったのは、色の話だ。
私は色を知らない。赤も青も、言葉でしか知らない。あるときそう言ったら、ルカはまた長いこと黙って、それから私の手を取って、囲炉裏の火の近くにかざした。
「赤は、これだ」
じんわりと、手のひらが熱くなる。
「青は」
彼は私の手を、桶の水に浸けた。冬の水だった。
「緑は」
濡れた手に、松の葉を一束、握らせた。ちくちくして、匂いがした。
「じゃあ、白は?」
彼は考えて、考えて、雪の日まで返事を保留にした。初雪の朝、彼は私を外に連れ出して、空に向かって手を開かせた。手のひらに、冷たいものが落ちて、触れた端から消えていく。
「白は、これだ。あるのに、つかめない」
あなたそれ、詩人よ、と私は笑った。彼は「しじん」の意味がわからなくて、それも沈黙でごまかした。
触ってはいけないものが、一つだけあった。
彼の顔だ。
手や腕には触らせてくれた。傷だらけの、岩みたいな腕。でも私の手が肩から上へ行こうとすると、彼は静かに、けれど絶対に、その手を止めた。
「顔だけは、やめてくれ」
「どうして」
「…………」
嘘をつくときの沈黙とは、違う沈黙だった。もっと深い、井戸の底みたいな沈黙。私はそれ以上、手を伸ばさなかった。人には、触られたくない場所がある。私にだってある。見えない目を、私は誰にも触らせたことがない。
春の晩、囲炉裏の前で、私はぽつりと言った。
「一度でいいから、見てみたいな」
薪の爆ぜる音。
「空とか、雪とか、緑とか。あなたが手に教えてくれたもの、全部。それから――あなたを」
その晩、ルカは一度も口をきかなかった。私はまた、言ってはいけないことを言ったのだと思って、謝った。彼は首を振った。首を振ると、空気が動くからわかる。それから彼は、私の頭に手を置いた。大きな、火の匂いのする手だった。
次の朝、彼はいなくなっていた。
囲炉裏には三日分の薪。水瓶は満杯。土間には、干し肉と木苺が、数えたら七日分あった。
◇
九日目の朝だった。私は道の入口に座って待っていた。九日とも、そこで待った。あの重い足音が縄の向こうから来たとき、私は立ち上がって、怒って、泣いて、それから彼の腕にしがみついた。もう黙っていなくなるのは駄目、と言った。
しがみついたのが右腕だったのは、偶然だ。左腕がもう使いものにならなくなっていたことを、私はその時、知らなかった。彼は最後まで、言わなかった。
その晩、彼は椀に水を注いで、私に持たせた。
「山の奥の、霊泉の水だ。……目に、効くらしい」
「これを取りに行ってたの? 九日も?」
「すぐには効かない。……効くときが来たら、効く」
嘘は言っていない。全部を言っていないだけだ。そういう時の沈黙を、私は聞き分けられたはずだった。あの晩だけ、聞き分けられなかった。九日ぶりの声が、嬉しすぎたのだ。私は椀を両手で持って、「あなたの詩人ぶりよりは信じられる」と笑って、飲み干した。
◇
水を飲んだ晩から、三日目の朝だった。
谷向こうで、角笛が二つ、応え合って鳴っていた。猟の合図だろうと思って、気にも留めなかった。彼は水場に出ていた。朝いちばんの水汲みは、あの人の仕事だった。
朝ごはんの片付けをしていたら、戸が蹴破られた。
入ってきたのは、たくさんの足音と、鉄の匂い。男の声が「いたぞ!」と叫び、別の声が「女だ、生きてる!」と重ねた。知らない手が私の腕をつかんだ。革の籠手の手だった。
「もう大丈夫だ。助けに来た」
「……え?」
「魔物に攫われて、さぞ怖かったろう。もう大丈夫だ」
「違います」私は腕を振りほどこうとした。「攫われてなんか。私はここに住んで――」
「話は麓で聞く。おい、女を外へ」
誰も、私の言葉を聞いていなかった。私は外へ引きずり出された。冷たい朝の空気。囲まれる気配。十人。もっといるかもしれない。そのとき、少し離れた場所で、若い声が息を呑んだ。
「……ミーナ?」
静かな声だった。騒ぎの中で、その声だけが、迷子だった。
「隊長?」
「……いや。なんでもない。人違いだ」
隊長と呼ばれた声は、私のすぐ前まで来た。若い男の声だ。よく通るのに、底の方が焼けて焦げているような声。
「名前は」
「セラです。あの、聞いてください、私は攫われたんじゃ――」
「セラ。目は、生まれつきか」
「……はい」
「そうか」男の声が、少しだけ和らいだ。「見えていないなら、知らないのも無理はない。あんたを飼っていたのは、オークだ。魔物だ。人間の女子供を攫う、けだものだ」
「違う!」
私は叫んだ。叫びながら、わかっていた。この人たちの中で、話はもう終わっているのだ。優しい声で決められたことは、覆らない。村を出る夜と、同じ声だ。
水場から小屋までは、走って戻れる距離だ。角笛は、彼にも聞こえていたはずだ。山の奥へ逃げる時間なら、いくらでもあった。
でも、あの人が聞いていたのは、たぶん角笛じゃない。私の悲鳴だ。
囲みの外が、ざわりと揺れた。
「出てきたぞ!」「弓!」「待て、丸腰だ」
地面が、揺れた。
あの重い足音が、ゆっくり、こちらへ歩いてくる。逃げて、と私は思った。声にもした。
「逃げて! ルカ、逃げて!」
足音は、止まらなかった。ためらいもしなかった。ためらわない彼の足音を、私は初めて聞いた。
足音は、囲みの真ん中まで来て、止まった。
「その娘は、何も知らない」
ルカの声だった。囲炉裏の前で色の話をした声より、ずっと平らで、ずっと遠い声だった。
「俺が攫った。その娘は被害者だ。……だから、娘には何もするな」
「嘘!」
私は暴れた。
「嘘です、この人は私を助けて、道を作って、粥に蜂蜜を――」
「魔物に心を壊されてる」誰かが言った。「長く飼われると、ああなる」
哀れむ声だった。私の言葉は一つ残らず、彼の罪の証拠に変わっていった。ルカ、と私は呼んだ。どうして、と。彼はそれには答えず、ただ、鎧の鳴る音がした。膝をついたのだと、あとで知った。
剣が鞘を滑る音がした。
隊長の足音が、彼の前に立った。
長い、長い沈黙があった。風の音だけがした。それから、ルカの声がした。ほんの少しだけ、囲炉裏の前の声に戻っていた。
「――大きく、なったな。アレン」
剣の音は、その言葉の途中から始まっていて、止まらなかった。
肉を断つ音を、私は生まれて初めて聞いた。大きなものが、地面に倒れる音がした。山が一つ、横になるような音だった。
そして。
世界に、光が刺さった。
◇
最初、それが何なのか、わからなかった。
痛かった。目の奥に、冷たい火を注がれたみたいだった。私の世界はずっと、音と匂いと手ざわりでできていて、それで満杯だったのに、そこへ突然、「それ以外の全部」が流れ込んできた。
白い。まぶしい。輪郭。色。言葉だけ知っていたものたちが、一斉に、本物になって押し寄せる。
朝、というものを、私は見た。
空、というものを、私は見た。彼が手のひらに教えてくれた通りだった。あるのに、つかめない。
人の形をしたものが、たくさん、こちらを向いて固まっていた。どれが顔で、どれが目なのか、まだわからなかった。見えるのに、何ひとつ、見かたがわからなかった。
だから私は目をつぶって、いつも通り、音と記憶で歩いた。籠手の手は、もう私をつかんでいなかった。誰も、私を止めなかった。
彼の倒れている場所は、探すまでもなかった。あの体温は、地面に横たわっても、まだそこにあった。
膝をついて、手を探した。
大きな、傷だらけの、岩みたいな手。粥に蜂蜜を入れた手。私の手を火にかざして、赤を教えた手。間違えようがなかった。目なんて、なくてもわかった。
「ルカ」
返事の代わりに、囲みのどこかで、剣が地面に落ちる音がした。
「……その名前を」隊長の声だった。焦げた底が、抜け落ちていた。「その名前を、どこで」
「この人の名前です」私は言った。
誰かが彼の胸元を探る気配がして、革紐の切れる音がして、それきり、隊長の声は言葉にならなくなった。木の札か何かを握りしめて、大人の男の人が、地面に膝から崩れて、子供の泣き方で泣いていた。ルカ、ルカ、と何度も呼んでいた。おれだ、アレンだ、と。ずっと、探して――の先は、声にならなかった。
私はその泣き声を聞きながら、目を開けた。
生まれて初めて、ひとの顔を見た。
目を閉じた、大きな顔だった。牙があった。緑の肌があった。古い傷が走っていた。それが「醜い」と呼ばれる造作なのだと、私はあとになって知った。世間には顔のものさしがあって、彼の顔は、その端の端に置かれるのだと。
でも、考えてみてほしい。
私はその朝まで、顔というものを一つも見たことがなかったのだ。
私の目に最初に映ったひとの顔は、彼だった。だから私のものさしは、彼でできている。私はその顔を、まぶたの上から、指でそっとなぞった。生きているうちは、触らせてくれなかった場所を。
「これが、あなたなの」
きれい、という言葉を、私はまだ知らなかった。知っていたら、使っていた。
◇
ここから先は、あの朝の私が知らなかったことだ。
あとになって、アレンから聞いた話と、泉の女神から聞いた話と、小屋に残っていたものとを、私が繋ぎ合わせた。繋ぎ目は、間違っているかもしれない。答え合わせの相手は、もういない。
ルカは、人間に育てられたオークだった。
子供の頃、群れの移動ではぐれた。飢えて山を彷徨っていたところを拾ったのは、山の中腹に住む猟師の一家だった。父と、母と、兄のアレンと、妹のミーナ。魔物の子だとわかっていて、彼らは戸を開けた。
「腹が減ってるやつは、みんな同じ顔をするからな」
と、お父さんは言ったそうだ。
名前をくれたのはミーナだ。六つだった彼女は、木の札に不揃いな字で「ルカ」と彫って、紐を通して、彼の首にかけた。
「また迷子になったとき、これがあれば帰ってこられるでしょ」
ルカは五年、そこで育った。箸の持ち方と、火の熾し方と、蜂蜜の採り方と、人間の笑い方を覚えた。オークは牙を剥いて笑う。人間は目を細めて笑う。ルカは目を細めて笑う練習を、川面に映して繰り返した。アレンは「気持ち悪い笑い方すんな」と言って笑い、ミーナは「じょうずじょうず」と言って笑った。
戦争が、山を越えてきたのはその冬だ。
オークの軍勢が人間の土地に雪崩れ込み、人間の軍がそれを迎え撃った。猟師の家は、進軍路の途中にあった。ただ、それだけの理由だった。
父と母は殺された。ミーナは連れ去られた。ルカは同族の足に縋って、人間の言葉で、次にオークの言葉で、返してくれと叫んだ。人間の言葉を話すオークの子を、兵たちは面白がって蹴った。気がつくと雪の中で、家は燃え尽きていて、町に毛皮を売りに行っていたアレンは、まだ帰っていなかった。
ルカは焼け跡に立てなかった。帰ってきたアレンが何を見るのか、考えただけで駄目だったのだろう。両親の亡骸と、妹の消えた家と、そこに生き残った魔物が一匹。アレンの目が自分をどう映すか、彼にはわかりすぎた。
彼は山の深くへ逃げた。それきり、十年。
群れには戻れなかった。人間の匂いが染みついたオークを、同族は「壊れもの」と呼んだ。目を細めて笑うたび、石を投げられた。人の里には近づけなかった。理由は言うまでもない。
◇
願いの泉のことは、女神自身に聞いた。
雪が解けてから、私は泉へ行った。白い谷のさらに奥。夜しか流れない川を、七つ渡った。谷の主というものがいて、辿り着く前にみんな食われるのだと、女神はあとで教えてくれた。その主は、いなかった。彼が済ませてくれていたからだ。考えてみれば、私の歩く道はいつも、最初から最後まで、あの人が先に均した道だった。
谷の主とどう決着をつけたのかだけは、女神も教えてくれなかった。ただ、ここへ来たときあの者はもう左腕が動かず、体のどこにも無事な場所がなかった、と。
泉は、静かな水たまりだった。
縁に膝をつくと、水の中から声がした。
『……開いておるな、その目』
姿は、なかった。水面には私の顔だけが映っていた。
「彼のことを、聞かせてください」
女神は、教えてくれた。神さまというのは、思っていたよりずっと、話し好きだった。
願いは、ひとつだけだったこと。私の目を開くこと。
『対価は命だと言うてやった。あの者は即答した。持っていけ、と。……あそこまで軽々と命を置いていく者は、久しぶりだった』
それから女神は、換算の話をした。ひとの目に光を灯すには、命ひとつでは少し足りない。足りない分は、時で払う。水を飲んだ娘の目は、願った者の命が尽きる、その瞬間に開く。彼が長く生きれば、それだけ私の闇も長い。彼の命と私の光は、天秤の両皿だった。
『あの者は、震えなかった。それどころか、体が軽くなったように見えた。……わかるか、娘。あの者にとって、死は対価ではなかった。褒美だった』
「……」
『死を恐れぬ者なら、いくらでも来る。だが、死んでよいのだと安堵しに来た者は、あの者が初めてだ。あの者が恐れておったのは、死ではない。――見られることだ』
帰り際に、ひとつだけ訊いた。彼は最後に、自分のために何か願いましたか、と。
『何も』と、女神は言った。『ただ、祈ってはおったな。おまえの最初に見るものが、自分でないことを』
私は礼を言って、谷を下りた。祈りは外れましたよ、とは言わなかった。
外れてくれて、よかった、とも。
◇
彼の計画を、私は誰からも聞いていない。でも、証拠なら揃っている。
帰ってきてからの三日のあいだに、薪の山がもうひとつ増えていた。干し肉が屋根裏に下がった。水場までの縄は、結び目をひとつずつ、彼の指で確かめ直された。私ひとりが、私ひとりで、長く暮らせるように。
彼は、遠くで死ぬつもりだったのだと思う。討伐隊が山を巡っていることを、彼は知っていた。見つかりに行けば、それで済む。私の目は、彼のいない朝に開く。生まれて初めて見るものは、小屋の窓の光になる。空と、雪と、緑。私のものさしは、きれいなものだけでできあがる。
それでいい。それがいい。――と、あの人が考えている顔が、見えるようだ。見たことも、ないのに。
私の目は、よく見える。
空も、雪も、緑も、もう全部本物で覚えた。彼の翻訳は、だいたい合っていた。白だけは、彼のほうが正しかった。あるのに、つかめない。ほんとうに、その通りのものだった。
夢だった「見える世界」で、私は毎日、たくさんの顔を見る。整った顔も、そうでない顔も見る。どの顔を見ても、同じことを思う。
――似てないな。
私の夢は、叶ってしまったので、新しい夢をひとつ作った。
いつかどこかで、もう一度だけ、あの顔を見たい。今度は、目を開けている時の。私に見られていると知っていて、それでも逃げない時の、あの顔を。
そうしたら私は、今度こそ間に合うように、覚えたての言葉で言うのだ。
あなたが隠していたものは、私の世界で最初の、いちばんきれいなものでしたよ、と。
◇
彼のお墓は、小屋の裏にある。囲炉裏の煙が届くところ。
墓穴は、アレンが掘った。深く、深く、言い訳を一つもせずに掘った。掘りながらずっと震えている背中を、私は見ていた。見る、ということを、私はその背中で練習した。
アレンは剣を隊に返して、月に一度、山を登ってくる。木の札は、今も彼の首にかかっている。妹さんの字だという「ルカ」の札。
私たちは墓の前で、たいてい何も話さない。
(了)




