多様性を壊す多様性
本作では、多様性が社会的に容認される条件と、多様性の名では正当化できない行動の境界について考える。
多様性を尊重しよう。
現代では、この言葉に正面から反対する人は少ないだろう。
人には、それぞれ異なる性質がある。得意なことも、苦手なことも、興味を持つ対象も、望む生き方も違う。その差を理由に、誰かの存在や可能性を不当に否定するべきではない。
この考え自体に、大きな問題はない。
しかし、「多様性」という言葉が使われる範囲は、次第に広がっている。
存在を認めること。
権利を保障すること。
意見を聞くこと。
主張に賛同すること。
要求を受け入れること。
指定された言葉や態度に従うこと。
本来は別々に判断すべきものが、一つの言葉へまとめられつつある。
その結果、多様性を認めない者は悪であるという前提だけが残り、何をどこまで認めるべきなのかが検討されなくなる。
だが、あらゆる違いを無条件に認めることが、本当に多様性を守るのだろうか。
そもそも、多様性は何のために必要なのか。
異なる能力や性格を持つ人がいれば、一つの問題に複数の方法で対応できる。ある方法が失敗しても、別の発想によって補える。環境が変化したときにも、全員が同じ性質を持つ集団より、生き残る可能性を高められる。
生き方の選択肢が複数あれば、個人は自分の能力や事情に合う道を選べる。一つの価値観だけを強制される社会より、人生を立て直す余地も大きくなる。
つまり、多様性の価値は、違いが存在すること自体を称賛するところにあるのではない。
社会に複数の可能性を残し、人が自分に合う選択をできる状態を維持するところにある。
ここを理解するには、存在、思想、選択、行動を分けなければならない。
生まれ持った身体的特徴。
本人が選んだわけではない性質。
経験によって形成された価値観。
どのように暮らすかという選択。
他者へ影響を与える行動。
これらは同じではない。
人がどのような存在であるかは、それだけで攻撃される理由にはならない。何を考えるかについても、内心の自由は広く認められるべきだろう。
しかし、考えを持つ自由と、その考えを他者へ強制する自由は別である。
自分が特定の生き方を選ぶことと、周囲にも同じ生き方を求めることも違う。
行動が自分の範囲だけで完結するなら、他者が介入する理由は少ない。だが、他人の生命、安全、自由、財産、選択肢へ影響を与えるなら、その行動には制限と責任が伴う。
たとえば、社会を一つの思想だけで統一し、異なる意見を排除しようとする考えも、形式上は「多様な思想の一つ」と呼べる。
それなら、その思想も認めるべきなのだろうか。
無制限に認めれば、異なる価値観を持つ者は発言できなくなる。特定の生き方だけが正しいとされ、別の選択肢は消される。最終的には、一つの価値観しか存在できない社会が完成する。
多様性を破壊する行動まで、多様性の一部として保護すれば、多様性は自分自身を守れない。
ここに、「多様性を壊す多様性」が生まれる。
さらに厄介なのは、多様性を守るという名目で、特定の価値観が他者へ強制される場合である。
自分たちの存在を否定するな。
権利を奪うな。
不当な扱いをするな。
ここまでは、共存を求める主張として成立する。
しかし、
私たちの考えに賛同しろ。
指定した呼び方を必ず使え。
不快に感じることも許されない。
交流を拒むな。
反対意見を持つ者は排除してよい。
というところまで進めば、意味が変わる。
それは「違いを認めてほしい」という要求ではない。
「私の考える正しい違い方に従え」という統一の要求である。
自分には自由な選択を求めながら、他者には異なる選択を許さない。自分の価値観は尊重させる一方で、相手の価値観は悪として封じる。
その段階で、主張は内部から矛盾する。
もちろん、多様性を強制したからといって、法律上の発言権まで失うわけではない。どのような主張をするかは、原則として本人の自由である。
だが、多様性を根拠として自分の要求を正当化する資格は失われる。
他者の選択肢を奪う者が、自分の選択肢だけを多様性の名で守らせることはできないからだ。
尊重と服従も分けなければならない。
相手の存在を認めることは、その思想に賛成することではない。
差別しないことは、すべてを同じように評価することではない。
共存することは、必ず親密になることではない。
権利を保障することは、あらゆる要求を受け入れることではない。
人には、距離を置く自由もある。
特定の思想へ参加しない自由も、交流相手を選ぶ自由も、自分の考えを変えない自由もある。
相手を攻撃せず、権利を奪わず、必要な距離を保つことも共存の一形態である。
拒否や不参加まで一律に差別と呼べば、今度は拒否する側の意思が奪われる。
もっとも、自由を理由に何をしてもよいわけではない。
違いを守るためには、行動を制限する基準が必要になる。
他者の生命や安全を害するか。
本人の意思に反して選択を奪うか。
拒否や離脱の自由が残されているか。
一方だけに過大な負担を押し付けていないか。
自分が求める権利を異なる相手にも認めているか。
被害が生じたときに責任を負うか。
目的に対して、手段が必要な範囲に収まっているか。
判断すべきなのは、誰が多数派で、誰が少数派なのかだけではない。
同じ行為には、原則として同じ基準を用いる必要がある。
少数者であることは、不当な排除から守られる理由にはなる。しかし、他者へ強制する権利や、行為の結果に責任を負わなくてよい理由にはならない。
多数者であることも、自分たちの慣習を絶対視し、異なる存在を排除する理由にはならない。
重要なのは立場ではなく、その行為が他者の共存可能性を奪うかどうかである。
単に不快だというだけでは、他者を排除する十分な理由にはなりにくい。
一方で、暴力、脅迫、搾取、強制、権利の剥奪は、他者の選択肢そのものを破壊する。これらを多様性として守ることはできない。
差別と合理的な区別についても同じである。
違いを認めることは、あらゆる場面で同じ扱いをすることではない。
年齢、能力、安全性、責任範囲によって、必要な条件が変わる場合はある。目的との関係があり、必要な範囲に限られ、他に害の少ない方法がないなら、扱いの違いには合理性が生まれる。
反対に、判断の目的と合理的な関係のない属性を理由に、本来保障されるべき権利や機会を不当に奪うなら、差別となる。
ただし、すべての属性を判断材料から外せばよいわけではない。国籍や在留資格のように、国家への所属、入国や滞在、公共制度の利用条件などと直接関係する属性もある。
他国へ移住する自由が、受け入れる国の事情を無視して無条件に保障されるわけではない。
重要なのは、扱いの違いがあること自体ではなく、その区別が目的と関係しているか、必要な範囲に収まっているか、負担や危険を一方的に他者へ押し付けていないかである。
平等とは、あらゆる違いを無視することではない。
同じ条件には同じ基準を用い、条件が異なる場合には、その違いを考慮する合理的な理由があるかを検証することである。
多様性は、すべてを肯定する思想ではない。
異なる人間が、それぞれの存在、思想、選択を保ったまま共存するための構造である。
認めるべきものは、他者の共存を壊さない違い。
制限すべきものは、他者の生命、自由、安全、尊厳、選択肢を奪う行動。
そして、自らの多様性を認めさせるために他者へ服従を迫れば、その要求は多様性ではなくなる。
違いを守るために必要なのは、何もかも受け入れることではない。
自分が求める自由を、異なる他者にも認めることだ。
それができなくなったとき、多様性は自らの名によって壊される。
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