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半額になるまえに  作者: えんびあゆ


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第6話 塩サバ弁当と、空いた助手席 [後編]

午後九時半を過ぎると、雨は少し強くなっていた。


客足は減り、店内には閉店前の静けさが広がっていた。

惣菜売場の棚は、いつもより早く空になっている。


京子はバックヤードで廃棄記録をつけていた。


塩サバ弁当、廃棄なし。

唐揚げ、ちょこっと唐揚げともに完売。

煮物一パック廃棄。

アジフライ二枚廃棄。


数字だけを見れば、悪くない日だった。


ただ、塩サバ弁当の欄に「廃棄なし」と書いたとき、京子は石動の「間に合った」という声を思い出した。


間に合った。


それは、弁当が残っていたことへの言葉だったのか。

それとも、金曜日の習慣そのものに向けた言葉だったのか。


「篠宮さん、ちょっといい?」


店長の声がした。


振り返ると、店長の森下がレジ側から歩いてきた。

四十代後半の男性で、いつも穏やかな顔をしている。

少し頼りなさそうに見えるが、店内の細かいことにはよく気づく人だった。


「はい」


「今、レジ横に忘れ物があって。惣菜のお客さんかもしれないんだけど」


店長が持っていたのは、古い革の小銭入れだった。


「これ、石動さんのかも」


ハツエがすぐに言った。


「石動さん?」


店長が聞く。


「さっき塩サバ買っていった人。小銭入れ、たしかこんなの使ってた」


「まだ駐車場にいるかな」


「雨だし、もう帰っちゃったかもね」


京子は思わず口を開いた。


「あの、私、見てきます」


ハツエが京子を見た。


「外、雨だよ」


「傘あります」


「じゃあ、無理しないで。いたら店に戻ってもらって。渡すのは店長からね」


「はい」


京子は自分の傘を手に取り、裏口から外へ出た。


雨は思ったより強かった。

駐車場のアスファルトに、街灯の光がにじんでいる。

車はまばらだった。


京子は駐車場を見回した。


その端に、古い白いセダンが停まっていた。

運転席に人影が見える。


近づくと、石動だった。


車はまだ発進していなかった。

エンジンもかかっていない。

ワイパーだけが時折動いて、フロントガラスの雨を払っている。


京子は少し迷ったあと、運転席側の窓を軽く叩いた。


石動が顔を上げる。

窓が少し下がった。


「すみません、マルヨシの者です」


「ああ」


「レジ横に小銭入れのお忘れ物がありまして。お客様のものではないかと」


石動は胸元を探り、ポケットを確認した。


「ああ、ないな。私のだ」


「店内でお預かりしています。お手数ですが、確認をお願いできますか」


「すまないね」


石動はドアを開けようとした。

そのとき、京子の視線がふと助手席に落ちた。


そこに、塩サバ弁当が置かれていた。


透明な袋に入ったまま、濡れないように丁寧に助手席の中央へ置かれている。

隣には仏花。

まるで誰かが座る場所を少しだけ空けて、その横に置いたようだった。


京子は、すぐに視線を戻した。


見てはいけないものを見た気がした。


石動は傘を開き、ゆっくり車を降りた。


「雨の中、悪かったね」


「いえ」


「小銭入れがないと、明日の朝、困るところだった」


京子は店内まで案内した。


店長が本人確認をして、小銭入れを返す。

石動は中身を確かめ、「間違いない」と言って頭を下げた。


「助かりました」


石動はそう言ったあと、惣菜売場の方を見た。


「今日も塩サバ、残っていてよかった」


ハツエが笑う。


「今日は雨だったから、来ないかと思いましたよ」


「金曜だからね」


石動は当然のように言った。

それだけで会話が終わると思った。


でも、石動は少しだけ間を置いて続けた。


「家内が、ここの塩サバが好きだったんだ」


京子は、息を止めた。


ハツエは表情を変えずに聞いている。

きっと、こういうときの聞き方を知っているのだ。


「昔はね、金曜の夜に私がタクシーの仕事から帰ると、よく塩サバを焼いてくれた。大根おろしを山ほどつけて」


石動は、懐かしそうに目を細めた。


「でも、一人になってから魚を焼くのが面倒でね。煙も出るし、片づけもある。ここの弁当を買うようになった」


「そうだったんですか」


ハツエが静かに言った。


「味が同じというわけじゃないんだよ」


石動は少し笑った。


「家内のほうが、ずっとしょっぱかった」


「それは、うちが負けましたね」


ハツエが言うと、石動は小さく声を立てて笑った。


「でも、金曜に塩サバを食べると、週が終わった気がする。ああ、帰ってきたなと思う」


帰ってきた。


その言葉が、京子の胸に残った。

石動は京子の方を見た。


「あなた、新しい人だね」


「はい。篠宮と申します」


「昨日か一昨日、唐揚げを並べていた人かな」


「はい」


「手つきがまだ慣れていない」


はっきり言われて、京子は思わず背筋を伸ばした。


「すみません」


「いや、丁寧でいいと思ったんだ」


石動は穏やかに言った。


「丁寧な人の貼る値引きシールは、曲がっていても嫌な感じがしない」


京子はどう返していいかわからず、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ。今日も助かりました」


石動は小銭入れをポケットにしまい、もう一度頭を下げて店を出ていった。


自動ドアの向こうで、傘が開く。

雨の中を、石動はゆっくり白い車へ戻っていく。


京子はその背中を見送った。


助手席に置かれた塩サバ弁当のことを、どうしても思い出してしまう。


空いた助手席。


そこには、もう誰も座らない。

でも石動は毎週金曜日、その席に塩サバ弁当を置いて帰る。


それがどんな意味を持つのか、京子にはわからない。

わかったと言ってはいけない気がした。


けれど、その光景は静かに心に残った。



閉店後、京子は洗い場で弁当容器のケースを片づけていた。


水の音が響き、換気扇が低く回っている。

雨のせいか、バックヤードの空気はいつもよりひんやりしていた。


「石動さん、話したねえ」


ハツエが隣で布巾を絞りながら言った。


「はい」


「珍しいよ。あの人、自分から奥さんの話、あんまりしない」


「そうなんですか」


「うん。篠宮さんが小銭入れを知らせに行ったからかな」


「私は、ただ……」


「ただでも、助かったんだよ」


ハツエはそう言って、作業台を拭いた。

京子は少し黙ってから、言った。


「助手席に、塩サバ弁当を置いていました」


ハツエの手が一瞬止まった。


「見えちゃった?」


「はい。見ようとしたわけではないんですが」


「そっか」


ハツエは、ゆっくりと作業台を拭き続けた。


「前にね、石動さん、奥さんを助手席に乗せてよく買い物に来てたんだよ」


「奥様も?」


「うん。石動さんは元タクシー運転手だから、運転が丁寧でね。奥さん、足が悪くなってからも、あの人の車なら安心だって」


京子は白いセダンを思い出した。


古いけれど、きれいに乗られていた車。

助手席に置かれた弁当と花。


「奥さんが亡くなってからもしばらくは、車で来てたけど買い物せずに帰ったりしてた。たぶん、店に入るのもしんどかったんだろうね」


「……はい」


「そのうち、金曜に塩サバ弁当を買うようになった。最初は定価で買ってたんだけど、ある日たまたま半額の時間に来てね」


ハツエは少し笑った。


「『同じ味なら、安いほうが家内に叱られなくていい』って言ったんだよ」


京子は、その言葉に胸が熱くなった。

安いほうが、家内に叱られなくていい。


それは悲しい言葉なのに、どこか温かかった。

亡くなった人が、まだ日常の会話の中にいる。


「それから、だいたい半額の時間に来るようになった」


「そうだったんですね」


「半額だから来るのか、金曜だから来るのか、奥さんを思い出すから来るのか。たぶん全部だね」


ハツエは布巾を洗い、ぎゅっと絞った。


「人の買い物って、そういうものなんだよ」


京子は、廃棄記録の紙を見た。

塩サバ弁当、廃棄なし。

数字はそれだけだった。


でも、その一つには、金曜の夜があった。

亡くなった妻がいた。

空いた助手席があった。

煙の出る魚焼きグリルが面倒になった一人暮らしの台所があった。

それでも週の終わりに「帰ってきた」と思いたい人の、ささやかな習慣があった。


京子は、前職で見ていた売上データを思い出した。


金曜日、塩サバ弁当、一個販売。

半額値引き。

粗利低下。


その行の向こうに、こんなにも大きなものがあったなんて、想像もしなかった。


「ハツエさん」


「ん?」


「私、本部にいたころ、こういうことを何も知らずに数字を見ていました」


「本部は本部で必要だよ」


「でも、知らなすぎました」


京子は手元の紙を見たまま言った。


「半額で売れた商品は、利益が下がる商品だと思っていました。もちろん、それは間違いではないです。でも、それだけじゃないんですね」


「それだけだったら、つまんない商売だよ」


ハツエはいつもの調子で言った。


「うちは物を売ってる。でも、物だけじゃない。晩ごはんとか、習慣とか、思い出とか、そういう面倒くさいものも一緒に売ってる」


「面倒くさいもの」


「そう。人間って面倒くさいからね。塩サバひとつ買うのにも、いろいろくっついてくる」


京子は小さく笑った。


「でも、そこまで含めて店なんですね」


「そういうこと」


ハツエは京子を見た。


「篠宮さん、だんだんいい顔になってきたね」


「え?」


「初日は、閉店後の蛍光灯みたいな顔してた」


「それは、かなり悪い顔ですね」


「うん。ちょっと心配だった」


ハツエは悪びれずに言った。


「でも今は、ちゃんと売場を見てる顔になってきた」


京子は、どう返せばいいかわからなかった。


褒められているのだろう。

たぶん。

ハツエの褒め言葉は、いつも少し変な形をしている。


「ありがとうございます」


「だから、お礼より手を動かす」


「はい」


京子は笑って、片づけを再開した。



その日の帰り、京子は店で塩サバ弁当を買った。


もちろん半額ではない。

閉店後に残っていたものではなく、従業員用に取り置かれた廃棄寸前の商品でもない。

まだ売場に出ていた時間に、自分でかごに入れて買ったものだ。


ハツエはレジへ向かう京子を見て、少しだけ目を細めた。


「今日は塩サバ?」


「はい」


「大根おろし、家にある?」


「ありません」


「だめじゃん」


「明日買います」


「今日食べるんでしょ」


「はい」


「じゃあ、チューブの大根おろしでも買っていきな。ないよりまし」


ハツエに言われるまま、京子は小さなパックの大根おろしも買った。


アパートに戻るころには、雨は小降りになっていた。


部屋の明かりをつけ、手を洗い、電子レンジで弁当を温める。

塩サバの匂いが、部屋に広がった。


京子は小皿に大根おろしを出し、弁当の横に置いた。


石動の妻は、どれくらいしょっぱい塩サバを焼いたのだろう。

大根おろしは、本当に山ほど添えたのだろうか。


そんなことを考えながら、京子は箸を取った。


「いただきます」


塩サバをひと口食べる。


皮は少ししんなりしていたが、脂があり、ほどよい塩気があった。

大根おろしを乗せると、急に家のごはんの味に近づいた。


特別ではない。

でも、毎週食べたくなる気持ちは少しわかった。


金曜日の夜に、これを食べる。

それだけで、一週間を終えられる人がいる。


京子はノートを開いた。


今日の売上の数字ではなく、見たものを書きたかった。


金曜。雨。

塩サバ弁当八個。廃棄なし。

石動徹さん。元タクシー運転手。

毎週金曜、半額の塩サバ弁当。

奥様が好きだった味。

助手席に弁当と仏花。


そこまで書いて、京子はペンを止めた。


個人の事情を、仕事のメモに書くべきなのか迷った。

でもこれは、誰かに見せるための帳票ではない。

自分が忘れないためのノートだ。


京子は、少し考えてから最後の行を書いた。


数字の前に、帰る場所がある。


その言葉は、少し大げさかもしれなかった。

でも今の京子には、そう感じられた。


マルヨシ成田台店は、閉店候補に入っている。


もしこの店がなくなったら、石動はどこで金曜の塩サバを買うのだろう。

真帆と美羽は、どこで唐揚げを買うのだろう。

作業服の男性は、どこで「助かります」と言うのだろう。


もちろん、スーパーは他にもある。

コンビニもある。

ドラッグストアでも弁当は売っている。

人はたぶん、別の場所で買い物をする。


でも、同じではない。


店は、商品だけでできているわけではない。


その場所に行く理由。

その時間に買う習慣。

顔を覚えている店員。

半額になるまで待つ少しの気まずさと、手に取れたときの安心。

雨の日でも来る金曜日。


そういうものの積み重ねで、店はできている。


京子は塩サバ弁当を食べ終え、ふたを閉めた。


窓の外では、まだ雨が細く降っている。


ふと、石動の白い車を思い出した。


空いた助手席に置かれた塩サバ弁当。

隣には仏花。

雨に濡れたフロントガラス。


あの車は、もう家に着いただろうか。

石動は弁当を温めただろうか。

仏壇に花を供えただろうか。

そして、亡くなった妻に「今日も買ってきたよ」とでも言ったのだろうか。


わからない。


わかった気になってはいけない。


それでも京子は、明日の売場で塩サバ弁当を見たら、もうただの一商品としては見られないと思った。


それでいいのかもしれない。


商品を商品としてきちんと扱う。

数字を数字として正しく見る。

けれど、その向こうに人がいることを忘れない。


その両方を持つことが、今の自分にできる仕事なのかもしれない。


京子はノートを閉じた。


スマホを見ると、前職の同僚から返信が来ていた。


『唐揚げの次は何を作るんですか?』


京子は少し考えて、こう返した。


『今日は塩サバ弁当でした。金曜日の味です』


送信してから、自分でも少し詩的すぎるかと思った。

でも、取り消しはしなかった。


金曜日の味。


石動にとっては、きっとそうなのだ。


そして京子にとっても、この店で働く金曜日は、少しだけ特別な味になった。


明日になれば、また別の客が来る。

別の弁当が売れる。

別の事情が、見えたり見えなかったりする。


京子はまだ、その全部を受け止められるほど強くはない。


でも、売場に立つことはできる。

値札を貼ることはできる。

半額シールを曲がらないように貼ることはできる。


そして、誰かが「間に合った」とつぶやいたとき、その声を忘れないでいることはできる。


京子は電気を消し、布団に入った。


髪には、今日も少しだけ惣菜の匂いが残っていた。

唐揚げと、焼き魚と、雨の日のスーパーの匂い。


目を閉じると、売場の蛍光灯の下に並ぶ塩サバ弁当が浮かんだ。


半額シールを貼られ、誰かに選ばれるのを待っている。

売れ残りではなく、帰る場所へ向かう途中のものとして。


京子は小さく息を吐いた。


明日も、手を動かそう。


そう思いながら眠りに落ちた。


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