第3話 唐揚げ弁当は、母のぶんだけない [前編]
翌朝、篠宮京子は、自分の髪からまだ油の匂いがすることに気づいた。
枕に顔を埋めた瞬間、かすかに揚げ物の匂いがした。
昨日のコロッケ、唐揚げ、アジフライ。
白衣を脱いでも、手を洗っても、シャワーを浴びても、匂いはどこかに残っていた。
会社員だったころ、京子の体に染みついていたのは、空調の乾いた匂いと、パソコンの熱と、コンビニのコーヒーだった。
それに比べれば、揚げ物の匂いはずっと生活に近かった。
スマホのアラームは、午前八時に鳴った。
京子は反射的に画面を見て、胸が小さく跳ねた。
通知はない。
仕事のチャットも、障害報告も、店舗からの問い合わせも、上司からのメッセージもない。
ただ、天気アプリが今日の気温を知らせているだけだった。
晴れ。
最高気温二十三度。
それだけなのに、京子は少しだけ息を吐いた。
起き上がると、太ももの裏が重かった。
腰も少し痛い。
昨日、何度もしゃがんでパックを補充し、床を拭き、ゴミ袋を運んだからだ。
正直、体は疲れていた。
けれど、会社を辞める前の疲れとは違っていた。
あのころの疲れは、眠っても抜けなかった。
朝になると、体の奥に鉛が沈んでいるようだった。
今朝の疲れは、筋肉の疲れだった。
理由がわかる疲れだった。
京子はゆっくりと立ち上がり、カーテンを開けた。
成田台の町に、朝の光が差していた。
駅へ向かう学生の声が、遠くから聞こえる。
アパートの前の細い道を、自転車に乗ったお年寄りがゆっくり通り過ぎていった。
テーブルの上には、昨夜食べた鮭弁当の空き容器が置いてある。
ふたには、赤い半額シールがついたままだった。
京子はそれを手に取り、しばらく見つめた。
――半額。
たった二文字。
けれど昨日、そのシールの向こうに、いろいろな顔があった。
作業服の男性。
小さな女の子。
疲れた顔の母親。
ジャージ姿の女子高生。
そして、店を閉めるかもしれないと告げられたハツエの横顔。
マルヨシ成田台店は、閉店候補に入っている。
神崎修の言葉は、夜が明けても京子の中に残っていた。
まだ決定ではない。
でも、検討は進んでいる。
その意味は、京子にはわかる。
本部で使われる「検討」という言葉は、ときどき優しすぎる。
まだ何も決まっていないように聞こえる。
でも実際には、もう流れができていることも多い。
決めるための検討。
納得させるための検討。
責任を分散させるための検討。
京子は、自分がその言葉を使う側にいたことを思い出し、胸の奥が重くなった。
何かできるのだろうか。
そう考えて、すぐに首を振った。
昨日入ったばかりのパートが、何をできるというのか。
店の売上も、利益も、人件費も、廃棄率も、まだ何も知らない。
それに、自分はもう本部の人間ではない。
――でも。
京子は空き容器を洗いながら、ふと思った。
もう本部の人間ではないからこそ、見えるものもあるのかもしれない。
*
京子が店に入ったのは、午後三時五十分だった。
マルヨシ成田台店の前には、昨日と同じように自転車が何台も停まっていた。
入口の横には、今日の特売品が手書きのポップで貼られている。
卵一パック、百九十八円。
国産若鶏もも肉百グラム、九十八円。
春キャベツ一玉、百五十八円。
惣菜コーナー、本日唐揚げ増量。
――唐揚げ増量。
京子はその文字を見て、昨日の女の子を思い出した。
からあげ、と顔を明るくした子。
名前も知らない。
毎日来るのかもわからない。
けれど、その笑顔は妙に残っていた。
バックヤードに入ると、すでに揚げ油の音がしていた。
じゅわじゅわと、小さな泡が弾ける音。
調理場の空気は、昨日よりも熱い。
「お、来たね」
ハツエが振り返った。
白衣の袖をまくり、片手に大きなボウルを持っている。
中には下味をつけた鶏肉が山のように入っていた。
「おはようございます」
「夕方だけどね」
「あ……お疲れさまです」
「はい、お疲れ。昨日、ちゃんと眠れた?」
「はい。思ったより」
「そりゃよかった。初日で飛ぶ人もいるからね」
「飛ぶ?」
「来なくなるってこと。うち、油くさいし、忙しいし、半額の時間は迫力あるし」
ハツエは笑いながら、鶏肉に粉をまぶしていく。
「今日は唐揚げの日だから、昨日より忙しいよ」
「唐揚げの日?」
「チラシ見なかった?」
「見ました。増量って」
「そう。うちの唐揚げ、けっこう人気なの。火曜日は唐揚げ増量デー。学校帰りの子も、仕事帰りの人も買ってく。あとはお母さんたちね」
お母さんたち。
ハツエは何気なく言っただけだろう。
でも京子の中で、昨日の母親の姿が浮かんだ。
「あの、昨日の……女の子連れのお客様って、よく来られるんですか」
京子がそう聞くと、ハツエは手を止めずに答えた。
「ああ、真帆ちゃん?」
「真帆さん、ですか」
「佐伯真帆さん。娘ちゃんは美羽ちゃん。四歳だったかな。ほぼ毎週火曜に来るよ。唐揚げの日だから」
「毎週……」
「そう。美羽ちゃん、うちの唐揚げが好きでねえ。見つけると目ぇきらきらさせるの」
ハツエの声が少しやわらかくなった。
「お母さんは、仕事帰り?」
「たぶんね。詳しくは知らないよ。こっちは店員だから、根掘り葉掘り聞くもんじゃない」
そう言いながらも、ハツエは続けた。
「でも、疲れてる顔してる日が多い。保育園のお迎え帰りかな。いつも美羽ちゃん連れて、七時半から八時半くらいに来る」
「そうなんですね」
「篠宮さん」
「はい」
「お客さんの事情は、見えることと見えないことがある。見えた気になりすぎるのも、危ないからね」
京子は、はっとした。
「すみません」
「謝ることじゃないよ。気になるのは悪いことじゃない。でも、勝手にかわいそうって決めつけるのは違うって話」
ハツエは、粉のついた手でボウルを持ち上げた。
「唐揚げ揚げるよ。見てな」
大きな鍋の中で、油が光っている。
ハツエが鶏肉をひとつずつ入れていくと、音が一気に大きくなった。
じゅわっ。
熱い匂いが立ち上がる。
にんにくとしょうゆ、油と小麦粉の匂い。
それだけで、空腹でもないのにお腹が鳴りそうだった。
「唐揚げって、強いよね」
ハツエが言った。
「強い、ですか」
「うん。子どもも、大人も、疲れた人も、だいたい好き。お皿に乗ってるだけで、ちょっとごちそうに見える」
京子は油の中で色づいていく唐揚げを見つめた。
子どものころ、母が買ってくる弁当に唐揚げが入っていると、少し嬉しかった。
半額シールがついているのは嫌だったのに、ふたを開けて唐揚げが見えると、やっぱり嬉しかった。
矛盾している。
でも、子どもとはそういうものなのかもしれない。
貧しさを恥ずかしいと思う気持ちと、目の前の唐揚げに喜ぶ気持ちは、同じ胸の中に普通に同居していた。
「篠宮さん、今日は唐揚げ弁当のパック詰めね」
「はい」
「ごはん、唐揚げ四個、ポテトサラダ、きんぴら、漬物。増量分は唐揚げ一個追加。ふた閉めるとき、唐揚げつぶさないように」
「はい」
「あと、見栄え大事。おいしそうに見えなきゃ売れない」
京子は手袋をつけ、作業台の前に立った。
炊きたての白米を弁当容器に詰める。
その隣に唐揚げを並べる。
黄金色の衣が、透明な容器の中でつやつやと光っている。
唐揚げを四個。
増量分を一個。
たった一個増えるだけで、弁当の印象はかなり変わる。
ふたを閉めるとき、唐揚げが少し押し合うくらいのボリュームになる。
「これ、赤字にならないんですか」
京子はつい聞いてしまった。
ハツエが笑う。
「出た。本部っぽい質問」
「あ、すみません」
「いや、いいよ。大事なことだから。もちろん原価は上がる。でも火曜の唐揚げで客を呼んで、ほかの商品も買ってもらう。完全に赤字ってわけじゃない」
「なるほど」
「まあ、計算どおりにはいかないけどね。雨が降ったら売れないし、近所のスーパーがもっと安く出したら負けるし」
「今日は晴れなので、売れそうですね」
「そうそう。晴れで、給料日前で、火曜。今日は半額前にそこそこ出てほしいねえ」
京子は自然と頭の中で条件を並べた。
晴れ。
給料日前。
火曜。
唐揚げ増量。
近隣小学校の給食メニューはわからない。
競合スーパーのチラシも未確認。
考え始めてから、京子は少し苦笑した。
やっぱり癖は抜けない。
でも、昨日までとは少し違う。
数字のためだけではなく、目の前の唐揚げが誰に届くのかを考えている自分がいた。
*
午後六時を過ぎると、唐揚げ弁当は順調に売れていった。
学生が二個買っていく。
作業服姿の男性が、カップ麺と一緒にかごへ入れる。
年配の女性が「今日はこれで楽させてもらうわ」と笑いながら買っていく。
京子は補充をしながら、その様子を見ていた。
売れる。
売場が減る。
バックヤードでまた詰める。
出す。
また売れる。
その流れは、忙しいけれど心地よかった。
前職では、売れたという結果が翌日や翌週の数字で届いた。
今は、目の前で商品が消えていく。
棚が空き、また埋まり、また空く。
働いている感覚が、手の中にあった。
午後七時半ごろ、店内放送が流れた。
『本日、惣菜コーナーでは、人気の若鶏唐揚げ弁当を増量して販売しております。夕食のおかずに、ぜひご利用くださいませ』
ハツエが小さく鼻で笑った。
「放送、遅いんだよねえ。もうピーク来てるっての」
「店長が流してるんですか?」
「そう。店長、悪い人じゃないんだけど、ちょっとのんびりしてる」
そう言いながら、ハツエは売場を見た。
「篠宮さん、唐揚げ弁当あと何個?」
「売場に六個、バックに四個です」
「うーん。もう一回作るか迷うね」
「今のペースなら、半額前に売場分はほぼ出ると思います。ただ、八時半以降の値引き待ちで需要はありそうです」
「やっぱり本部っぽい」
「すみません」
「褒めてるの。半分だけ」
ハツエは少し考えたあと、言った。
「追加は少なめにしよう。四個だけ。作りすぎると廃棄になる」
「はい」
その判断の早さに、京子は感心した。
本部では、需要予測の精度を上げるために複雑な表を作っていた。
曜日別、天候別、販促別、過去実績、近隣イベント。
もちろんそれは必要なことだ。
でも現場では、ハツエが売場を一目見て、客の流れを見て、時計を見て、決める。
四個だけ。
たったそれだけの判断に、経験が詰まっている。
午後八時少し前、京子は売場の端で空いた容器を片づけていた。
そのとき、自動ドアの方から、小さな声が聞こえた。
「からあげ、ある?」
昨日の女の子だった。
ピンク色の薄手の上着に、白いスニーカー。
髪は二つに結ばれている。
手には、小さなうさぎのキーホルダーがついたリュックを背負っていた。
隣には、昨日と同じ女性がいる。
佐伯真帆。
ハツエがそう呼んでいた人。
昨日よりも少し疲れて見えた。
肩にかけたバッグは重そうで、片手に保育園の荷物らしき袋を持っている。
「あるよ。走らないで」
真帆が娘に言う。
「だって、なくなっちゃう」
「大丈夫。まだあるから」
美羽は惣菜売場の前まで来ると、唐揚げ弁当を見つけて目を輝かせた。
「あった!」
その声に、京子の胸が少しやわらかくなった。
美羽は弁当に手を伸ばしかけたが、真帆がそっと止めた。
「まだ見るだけね」
「なんで?」
「お買い物、先にぜんぶ見てから」
「からあげ、なくなっちゃうよ」
「うん。でも、ちゃんと考えてから買おう」
真帆の声は優しい。
でも、その中にはわずかな緊張があった。
京子は、見てはいけないものを見ているような気がして、視線を少し逸らした。
親子は惣菜売場を離れ、店内を回り始めた。
美羽は何度も唐揚げの方を振り返る。
真帆はそれに気づいて、困ったように笑っていた。
「真帆ちゃん来たね」
いつの間にか隣に来ていたハツエが言った。
「はい」
「今日はちょっと早い」
「そうなんですか」
「いつもは八時半近い。たぶん、美羽ちゃんがお腹すいて我慢できなかったんだろうね」
ハツエは売場を見て、唐揚げ弁当の数を確認した。
「あと五個か」
「追加分、出しますか」
「出そう。二個だけ」
「はい」
京子はバックヤードへ戻り、追加の唐揚げ弁当を二個持ってきた。
売場に並べながら、ふと思った。
この二個は、誰のために出しているのだろう。
もちろん、商品は誰のものでもない。
先に買った人のものになる。
店として、特定の客のために取り置くわけにはいかない。
それでも京子は、唐揚げ弁当を置くとき、美羽の顔を思い出していた。
午後八時二十分。
親子は再び惣菜売場に戻ってきた。
かごの中には、牛乳、小さな豆腐、食パン、もやし、納豆、そして値引きされた野菜が入っていた。
贅沢品は何もない。
真帆は唐揚げ弁当の前で立ち止まり、値札を見た。
税抜き四百九十八円。
増量中。
美羽は期待に満ちた顔で母親を見上げている。
「ママ、これ?」
「うん……」
真帆は財布の中を確認するように、バッグの口を少し開いた。
それから、唐揚げ弁当を一つ手に取った。
美羽の顔が明るくなる。
「やった!」
「でも、今日は帰ったらすぐお風呂ね」
「うん!」
真帆は微笑んだ。
その笑顔は、少し無理をしているようにも見えた。
京子は、気づいてしまった。
弁当は一つだけだった。
母親と娘、二人で一つ。
あるいは、娘の分だけ。
京子はとっさに目を逸らした。
見えた気になりすぎるのは危ない。
ハツエの言葉を思い出す。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
真帆はレジへ向かった。
その途中で、美羽が振り返って京子に手を振った。
京子は少し驚きながら、軽く会釈した。
「からあげ!」
美羽が嬉しそうに言う。
真帆が慌てて頭を下げた。
「すみません」
「いえ」
京子は小さく答えた。
ただそれだけのやり取りだった。
でも、美羽の声はしばらく耳に残った。




