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半額になるまえに  作者: えんびあゆ


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3/21

第3話 唐揚げ弁当は、母のぶんだけない [前編]

翌朝、篠宮京子は、自分の髪からまだ油の匂いがすることに気づいた。


枕に顔を埋めた瞬間、かすかに揚げ物の匂いがした。

昨日のコロッケ、唐揚げ、アジフライ。

白衣を脱いでも、手を洗っても、シャワーを浴びても、匂いはどこかに残っていた。


会社員だったころ、京子の体に染みついていたのは、空調の乾いた匂いと、パソコンの熱と、コンビニのコーヒーだった。

それに比べれば、揚げ物の匂いはずっと生活に近かった。


スマホのアラームは、午前八時に鳴った。


京子は反射的に画面を見て、胸が小さく跳ねた。

通知はない。

仕事のチャットも、障害報告も、店舗からの問い合わせも、上司からのメッセージもない。


ただ、天気アプリが今日の気温を知らせているだけだった。


晴れ。

最高気温二十三度。


それだけなのに、京子は少しだけ息を吐いた。


起き上がると、太ももの裏が重かった。

腰も少し痛い。

昨日、何度もしゃがんでパックを補充し、床を拭き、ゴミ袋を運んだからだ。


正直、体は疲れていた。


けれど、会社を辞める前の疲れとは違っていた。

あのころの疲れは、眠っても抜けなかった。

朝になると、体の奥に鉛が沈んでいるようだった。


今朝の疲れは、筋肉の疲れだった。

理由がわかる疲れだった。


京子はゆっくりと立ち上がり、カーテンを開けた。


成田台の町に、朝の光が差していた。

駅へ向かう学生の声が、遠くから聞こえる。

アパートの前の細い道を、自転車に乗ったお年寄りがゆっくり通り過ぎていった。


テーブルの上には、昨夜食べた鮭弁当の空き容器が置いてある。

ふたには、赤い半額シールがついたままだった。


京子はそれを手に取り、しばらく見つめた。



――半額。



たった二文字。

けれど昨日、そのシールの向こうに、いろいろな顔があった。


作業服の男性。

小さな女の子。

疲れた顔の母親。

ジャージ姿の女子高生。

そして、店を閉めるかもしれないと告げられたハツエの横顔。


マルヨシ成田台店は、閉店候補に入っている。


神崎修かんざきおさむの言葉は、夜が明けても京子の中に残っていた。


まだ決定ではない。

でも、検討は進んでいる。


その意味は、京子にはわかる。

本部で使われる「検討」という言葉は、ときどき優しすぎる。

まだ何も決まっていないように聞こえる。

でも実際には、もう流れができていることも多い。


決めるための検討。

納得させるための検討。

責任を分散させるための検討。


京子は、自分がその言葉を使う側にいたことを思い出し、胸の奥が重くなった。


何かできるのだろうか。


そう考えて、すぐに首を振った。


昨日入ったばかりのパートが、何をできるというのか。

店の売上も、利益も、人件費も、廃棄率も、まだ何も知らない。

それに、自分はもう本部の人間ではない。


――でも。


京子は空き容器を洗いながら、ふと思った。

もう本部の人間ではないからこそ、見えるものもあるのかもしれない。





京子が店に入ったのは、午後三時五十分だった。


マルヨシ成田台店の前には、昨日と同じように自転車が何台も停まっていた。

入口の横には、今日の特売品が手書きのポップで貼られている。


卵一パック、百九十八円。

国産若鶏もも肉百グラム、九十八円。

春キャベツ一玉、百五十八円。

惣菜コーナー、本日唐揚げ増量。


――唐揚げ増量。


京子はその文字を見て、昨日の女の子を思い出した。

からあげ、と顔を明るくした子。


名前も知らない。

毎日来るのかもわからない。

けれど、その笑顔は妙に残っていた。


バックヤードに入ると、すでに揚げ油の音がしていた。

じゅわじゅわと、小さな泡が弾ける音。

調理場の空気は、昨日よりも熱い。


「お、来たね」


ハツエが振り返った。


白衣の袖をまくり、片手に大きなボウルを持っている。

中には下味をつけた鶏肉が山のように入っていた。


「おはようございます」


「夕方だけどね」


「あ……お疲れさまです」


「はい、お疲れ。昨日、ちゃんと眠れた?」


「はい。思ったより」


「そりゃよかった。初日で飛ぶ人もいるからね」


「飛ぶ?」


「来なくなるってこと。うち、油くさいし、忙しいし、半額の時間は迫力あるし」


ハツエは笑いながら、鶏肉に粉をまぶしていく。


「今日は唐揚げの日だから、昨日より忙しいよ」


「唐揚げの日?」


「チラシ見なかった?」


「見ました。増量って」


「そう。うちの唐揚げ、けっこう人気なの。火曜日は唐揚げ増量デー。学校帰りの子も、仕事帰りの人も買ってく。あとはお母さんたちね」


お母さんたち。


ハツエは何気なく言っただけだろう。

でも京子の中で、昨日の母親の姿が浮かんだ。


「あの、昨日の……女の子連れのお客様って、よく来られるんですか」


京子がそう聞くと、ハツエは手を止めずに答えた。


「ああ、真帆ちゃん?」


「真帆さん、ですか」


「佐伯真帆さん。娘ちゃんは美羽ちゃん。四歳だったかな。ほぼ毎週火曜に来るよ。唐揚げの日だから」


「毎週……」


「そう。美羽ちゃん、うちの唐揚げが好きでねえ。見つけると目ぇきらきらさせるの」


ハツエの声が少しやわらかくなった。


「お母さんは、仕事帰り?」


「たぶんね。詳しくは知らないよ。こっちは店員だから、根掘り葉掘り聞くもんじゃない」


そう言いながらも、ハツエは続けた。


「でも、疲れてる顔してる日が多い。保育園のお迎え帰りかな。いつも美羽ちゃん連れて、七時半から八時半くらいに来る」


「そうなんですね」


「篠宮さん」


「はい」


「お客さんの事情は、見えることと見えないことがある。見えた気になりすぎるのも、危ないからね」


京子は、はっとした。


「すみません」


「謝ることじゃないよ。気になるのは悪いことじゃない。でも、勝手にかわいそうって決めつけるのは違うって話」


ハツエは、粉のついた手でボウルを持ち上げた。


「唐揚げ揚げるよ。見てな」


大きな鍋の中で、油が光っている。

ハツエが鶏肉をひとつずつ入れていくと、音が一気に大きくなった。


じゅわっ。


熱い匂いが立ち上がる。

にんにくとしょうゆ、油と小麦粉の匂い。

それだけで、空腹でもないのにお腹が鳴りそうだった。


「唐揚げって、強いよね」


ハツエが言った。


「強い、ですか」


「うん。子どもも、大人も、疲れた人も、だいたい好き。お皿に乗ってるだけで、ちょっとごちそうに見える」


京子は油の中で色づいていく唐揚げを見つめた。


子どものころ、母が買ってくる弁当に唐揚げが入っていると、少し嬉しかった。

半額シールがついているのは嫌だったのに、ふたを開けて唐揚げが見えると、やっぱり嬉しかった。


矛盾している。


でも、子どもとはそういうものなのかもしれない。


貧しさを恥ずかしいと思う気持ちと、目の前の唐揚げに喜ぶ気持ちは、同じ胸の中に普通に同居していた。


「篠宮さん、今日は唐揚げ弁当のパック詰めね」


「はい」


「ごはん、唐揚げ四個、ポテトサラダ、きんぴら、漬物。増量分は唐揚げ一個追加。ふた閉めるとき、唐揚げつぶさないように」


「はい」


「あと、見栄え大事。おいしそうに見えなきゃ売れない」


京子は手袋をつけ、作業台の前に立った。


炊きたての白米を弁当容器に詰める。

その隣に唐揚げを並べる。

黄金色の衣が、透明な容器の中でつやつやと光っている。


唐揚げを四個。

増量分を一個。


たった一個増えるだけで、弁当の印象はかなり変わる。

ふたを閉めるとき、唐揚げが少し押し合うくらいのボリュームになる。


「これ、赤字にならないんですか」


京子はつい聞いてしまった。

ハツエが笑う。


「出た。本部っぽい質問」


「あ、すみません」


「いや、いいよ。大事なことだから。もちろん原価は上がる。でも火曜の唐揚げで客を呼んで、ほかの商品も買ってもらう。完全に赤字ってわけじゃない」


「なるほど」


「まあ、計算どおりにはいかないけどね。雨が降ったら売れないし、近所のスーパーがもっと安く出したら負けるし」


「今日は晴れなので、売れそうですね」


「そうそう。晴れで、給料日前で、火曜。今日は半額前にそこそこ出てほしいねえ」


京子は自然と頭の中で条件を並べた。


晴れ。

給料日前。

火曜。

唐揚げ増量。

近隣小学校の給食メニューはわからない。

競合スーパーのチラシも未確認。


考え始めてから、京子は少し苦笑した。


やっぱり癖は抜けない。


でも、昨日までとは少し違う。

数字のためだけではなく、目の前の唐揚げが誰に届くのかを考えている自分がいた。



午後六時を過ぎると、唐揚げ弁当は順調に売れていった。


学生が二個買っていく。

作業服姿の男性が、カップ麺と一緒にかごへ入れる。

年配の女性が「今日はこれで楽させてもらうわ」と笑いながら買っていく。


京子は補充をしながら、その様子を見ていた。


売れる。

売場が減る。

バックヤードでまた詰める。

出す。

また売れる。


その流れは、忙しいけれど心地よかった。


前職では、売れたという結果が翌日や翌週の数字で届いた。

今は、目の前で商品が消えていく。

棚が空き、また埋まり、また空く。


働いている感覚が、手の中にあった。


午後七時半ごろ、店内放送が流れた。


『本日、惣菜コーナーでは、人気の若鶏唐揚げ弁当を増量して販売しております。夕食のおかずに、ぜひご利用くださいませ』


ハツエが小さく鼻で笑った。


「放送、遅いんだよねえ。もうピーク来てるっての」


「店長が流してるんですか?」


「そう。店長、悪い人じゃないんだけど、ちょっとのんびりしてる」


そう言いながら、ハツエは売場を見た。


「篠宮さん、唐揚げ弁当あと何個?」


「売場に六個、バックに四個です」


「うーん。もう一回作るか迷うね」


「今のペースなら、半額前に売場分はほぼ出ると思います。ただ、八時半以降の値引き待ちで需要はありそうです」


「やっぱり本部っぽい」


「すみません」


「褒めてるの。半分だけ」


ハツエは少し考えたあと、言った。


「追加は少なめにしよう。四個だけ。作りすぎると廃棄になる」


「はい」


その判断の早さに、京子は感心した。


本部では、需要予測の精度を上げるために複雑な表を作っていた。

曜日別、天候別、販促別、過去実績、近隣イベント。

もちろんそれは必要なことだ。


でも現場では、ハツエが売場を一目見て、客の流れを見て、時計を見て、決める。


四個だけ。


たったそれだけの判断に、経験が詰まっている。

午後八時少し前、京子は売場の端で空いた容器を片づけていた。

そのとき、自動ドアの方から、小さな声が聞こえた。


「からあげ、ある?」


昨日の女の子だった。


ピンク色の薄手の上着に、白いスニーカー。

髪は二つに結ばれている。

手には、小さなうさぎのキーホルダーがついたリュックを背負っていた。


隣には、昨日と同じ女性がいる。

佐伯真帆。

ハツエがそう呼んでいた人。


昨日よりも少し疲れて見えた。

肩にかけたバッグは重そうで、片手に保育園の荷物らしき袋を持っている。


「あるよ。走らないで」


真帆が娘に言う。


「だって、なくなっちゃう」


「大丈夫。まだあるから」


美羽は惣菜売場の前まで来ると、唐揚げ弁当を見つけて目を輝かせた。


「あった!」


その声に、京子の胸が少しやわらかくなった。

美羽は弁当に手を伸ばしかけたが、真帆がそっと止めた。


「まだ見るだけね」


「なんで?」


「お買い物、先にぜんぶ見てから」


「からあげ、なくなっちゃうよ」


「うん。でも、ちゃんと考えてから買おう」


真帆の声は優しい。

でも、その中にはわずかな緊張があった。


京子は、見てはいけないものを見ているような気がして、視線を少し逸らした。


親子は惣菜売場を離れ、店内を回り始めた。

美羽は何度も唐揚げの方を振り返る。

真帆はそれに気づいて、困ったように笑っていた。


「真帆ちゃん来たね」


いつの間にか隣に来ていたハツエが言った。


「はい」


「今日はちょっと早い」


「そうなんですか」


「いつもは八時半近い。たぶん、美羽ちゃんがお腹すいて我慢できなかったんだろうね」


ハツエは売場を見て、唐揚げ弁当の数を確認した。


「あと五個か」


「追加分、出しますか」


「出そう。二個だけ」


「はい」


京子はバックヤードへ戻り、追加の唐揚げ弁当を二個持ってきた。


売場に並べながら、ふと思った。


この二個は、誰のために出しているのだろう。


もちろん、商品は誰のものでもない。

先に買った人のものになる。

店として、特定の客のために取り置くわけにはいかない。


それでも京子は、唐揚げ弁当を置くとき、美羽の顔を思い出していた。


午後八時二十分。


親子は再び惣菜売場に戻ってきた。


かごの中には、牛乳、小さな豆腐、食パン、もやし、納豆、そして値引きされた野菜が入っていた。

贅沢品は何もない。


真帆は唐揚げ弁当の前で立ち止まり、値札を見た。


税抜き四百九十八円。

増量中。


美羽は期待に満ちた顔で母親を見上げている。


「ママ、これ?」


「うん……」


真帆は財布の中を確認するように、バッグの口を少し開いた。

それから、唐揚げ弁当を一つ手に取った。


美羽の顔が明るくなる。


「やった!」


「でも、今日は帰ったらすぐお風呂ね」


「うん!」


真帆は微笑んだ。

その笑顔は、少し無理をしているようにも見えた。


京子は、気づいてしまった。


弁当は一つだけだった。


母親と娘、二人で一つ。

あるいは、娘の分だけ。


京子はとっさに目を逸らした。


見えた気になりすぎるのは危ない。

ハツエの言葉を思い出す。


けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


真帆はレジへ向かった。

その途中で、美羽が振り返って京子に手を振った。


京子は少し驚きながら、軽く会釈した。


「からあげ!」


美羽が嬉しそうに言う。


真帆が慌てて頭を下げた。


「すみません」


「いえ」


京子は小さく答えた。

ただそれだけのやり取りだった。


でも、美羽の声はしばらく耳に残った。

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