第17話 廃棄箱の中の晩ごはん[前編]
木曜日のマルヨシ成田台店は、朝から天気に振り回されていた。
京子が出勤した午後四時には、店の外は薄暗かった。
午前中は晴れていたはずなのに、昼過ぎから急に雲が広がり、夕方には今にも降り出しそうな空になっている。
風も強い。
駐車場の端に置かれたのぼりが、ばたばたと音を立てて揺れていた。
自動ドアが開くたびに、湿った風が店内へ入り込み、入口のチラシを少し浮かせる。
「今日は嫌な天気だねえ」
ハツエは、惣菜バックヤードで白衣の袖をまくりながら言った。
「雨、降りますかね」
「降るね。こういう空はだいたい降る」
「客足、鈍りますか」
「鈍る。特に年配のお客さんは早めに帰っちゃう。子連れも少ない。仕事帰りの人は来るけど、急いで買って帰るから、迷う商品は売れにくい」
ハツエは、作業台に並んだ弁当容器を見下ろした。
そこには、すでに白米の入った容器がずらりと並んでいた。
のり弁。
鮭弁当。
チキン南蛮弁当。
ハンバーグ弁当。
焼きそば。
ちょこっと唐揚げ。
親子向けの小さめ鮭弁。
昨日、京子が提案した「親の分もある」売場の試作として、小さめ鮭弁当を五つだけ作ることになった。
通常の鮭弁当より少しごはんを減らし、副菜も一品少ない。
その代わり、価格は税込三百二十八円。
ちょこっと唐揚げや豆腐、味噌汁用の商品と並べて、子ども用のおかずと親の食事を一緒に選びやすくする狙いだった。
ポップには、ハツエがこう書いた。
――子どもごはんのついでに
――大人も、ちゃんとひと息。
「このポップ、いいですね」
京子が言うと、ハツエは少し得意げに鼻を鳴らした。
「篠宮さんの『親の分もある売場』よりはいいでしょ」
「あれは考え方です。商品名ではありません」
「そういうところが本部っぽいんだよねえ」
ハツエは笑いながら、鮭を弁当に乗せていく。
京子も隣で副菜を詰めた。
小さめ鮭弁。
試作五個。
昨日の夜から、京子はこの商品に少し期待していた。
真帆のように、自分の食事を後回しにしがちな人が、少しでも手に取りやすくなればいい。
母がしてくれたことを、今度は別の誰かに返せるかもしれない。
そんな思いがあった。
ただ、天気は悪い。
ハツエが言うように、こういう日は売れ方が読みにくい。
京子は記録表に、今日の天候を大きく書いた。
木曜。夕方から雨予報。風強い。
客足鈍化の可能性。
「篠宮さん」
「はい」
「今日は、作りすぎたかもしれない」
ハツエがぽつりと言った。
京子は手を止めた。
「まだ始まっていませんが」
「始まる前にわかる日もあるんだよ」
ハツエは売場の方を見た。
「午前中、店長が夕方客数を強めに見て、弁当多めにって言ったんだよね。天気予報、朝の時点では曇りだったから」
「午後から変わりましたね」
「そう。こういう時が一番困る。作り始めてから天気が変わる」
京子は並んだ弁当を見た。
確かに、木曜日にしては少し多い。
しかも今日は新商品の小さめ鮭弁もある。
売れればいい。
でも売れなければ、廃棄になる。
廃棄。
その言葉が、京子の胸に重く落ちた。
前職で何度も見た言葉だった。
ロス率。
廃棄金額。
廃棄点数。
改善対象。
数字としては見慣れている。
でも惣菜売場で働くようになってから、その言葉の手触りは変わった。
廃棄になるものは、誰かが作ったものだ。
ごはんを詰め、唐揚げを置き、鮭を乗せ、値札を貼ったもの。
誰かの晩ごはんになるはずだったもの。
「今日は記録、ちゃんとつけます」
京子が言うと、ハツエは小さくうなずいた。
「うん。でも、記録だけじゃなくて、ちゃんと見ておきな」
「何をですか」
「売れ残るところ」
ハツエは、静かな声で言った。
「売れるところを見るのは楽しい。でも、売れ残るところを見るのも、この仕事だから」
*
午後五時半。
雨が降り始めた。
最初は細かい粒だった。
けれど十分もしないうちに、駐車場のアスファルトが黒く濡れ、傘を差して店に入ってくる客が増えた。
客数は、やはり少なかった。
来る人はいる。
けれど、みんな急いでいる。
青果売場で野菜を一つ取る。
牛乳をかごに入れる。
弁当を一つ選んで、すぐレジへ向かう。
惣菜売場の前で迷う時間が短い。
京子はその流れを見ながら、記録表に小さくメモした。
雨。滞在時間短い。迷う商品は動きにくい。
ちょこっと唐揚げは、そこそこ動いた。
小さくて、安くて、選びやすいからだろう。
しかし、小さめ鮭弁はなかなか動かなかった。
五個並べたうち、午後六時半までに売れたのは一つだけ。
買っていったのは、年配の男性だった。
「少なめでちょうどいいな」
そう言って手に取ってくれた。
本来想定していた親子向けではなかったが、これはこれで需要がある。
京子はその言葉を忘れないように書き留めた。
少なめでちょうどいい。高齢単身にも需要。
午後七時。
雨はさらに強くなった。
店内放送が、雨音に少し負けている。
入口では、傘袋が次々と使われ、床に水滴が広がっていた。
真帆と美羽は来なかった。
来ない方がいい。
こんな雨の日に、小さな子を連れて買い物に来るのは大変だ。
そう思いながらも、京子は小さめ鮭弁の前を見るたびに、少しだけ残念な気持ちになった。
届けたい相手に、届かない日もある。
それもまた、売場なのだ。
午後七時半、乃々花が来店した。
制服姿で、傘を持っている。
髪の毛先が少し濡れていた。
乃々花は惣菜売場の前まで来ると、いつものように軽く会釈した。
「こんばんは」
「こんばんは。雨、大丈夫でしたか」
「ちょっと濡れました。でも、家に帰るよりこっちの方が近かったので」
その言葉に、京子は少し引っかかった。
家に帰るより、こっちの方が近い。
距離の話だろう。
学校からの帰り道の話かもしれない。
でも、少しだけ別の意味にも聞こえた。
乃々花は売場を見て、今日はちょこっと唐揚げではなく、小さめ鮭弁を手に取った。
「あ、それ新しいんですか」
「はい。今日から試しに出しています」
「少なめですね」
「多すぎない方がいい方もいるかなと思って」
「私、これくらいがいいです」
乃々花は値札を見た。
「三百二十八円……」
少し迷ったあと、かごに入れた。
「今日は、ちゃんとごはん食べます」
その言い方が気になった。
だが、京子は踏み込みすぎないように、普通の声で答えた。
「ありがとうございます」
乃々花はイートインへ向かった。
今日は問題集を広げず、まず弁当を電子レンジで温めている。
京子はその後ろ姿を見ながら、小さく息を吐いた。
小さめ鮭弁、二つ目。
届けたい相手とは違ったかもしれない。
でも、誰かには届いた。
*
午後八時を過ぎたころから、売場の残りがはっきりと目に見えてきた。
チキン南蛮弁当、四つ。
ハンバーグ弁当、三つ。
のり弁、二つ。
小さめ鮭弁、三つ。
焼きそば、四つ。
煮物、三つ。
白身魚フライ、三パック。
ポテトサラダ、二つ。
多い。
京子は記録表を見ながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
半額で動くかもしれない。
雨でも、閉店前に来る人はいる。
けれど、今日は多い。
ハツエも同じことを感じているようだった。
「今日はロス出るね」
短く言った。
「半額でどれくらい動くでしょうか」
「雨が弱まれば少し。でも、この降り方だと厳しい」
ハツエは窓の外を見た。
雨はまだ強い。
駐車場の照明が、濡れた地面にぼんやり映っている。
「値引き、早めますか?」
京子が聞くと、ハツエは考えた。
「八時十五分に一回入れよう。二割じゃなくて三割」
「三割ですか」
「今日は半額まで待たせるより、少し早く動かした方がいい。雨の日は、お客さんも早く帰りたいから」
「わかりました」
八時十五分。
京子は三割引きのシールを貼り始めた。
いつもより早い値引きに、気づいた客が何人か足を止めた。
チキン南蛮弁当が一つ売れた。
焼きそばが一つ売れた。
白身魚フライが一つ売れた。
しかし、思ったほどは動かない。
客が少ないのだ。
売場に商品はある。
値引きもした。
でも、それを買う人が来なければ売れない。
当たり前のことが、今日は残酷にはっきり見えた。
午後八時半。
雨の中、作業服の男性が来た。
彼は濡れた肩を軽く払い、いつものように惣菜売場へ向かった。
今日は少し疲れて見える。
売場を見て、迷ったあと、三割引きのハンバーグ弁当を手に取った。
京子が近くで値引きシールを貼っていると、彼は小さく言った。
「今日は多いですね」
「雨で、少し残っています」
「雨の日は、みんな早く帰っちゃいますもんね」
「はい」
彼はハンバーグ弁当をかごに入れた。
それから少し迷って、小さめ鮭弁も一つ取った。
「明日の朝にします」
京子は少し驚いた。
「ありがとうございます」
「これくらいの大きさ、いいですね」
「本当ですか」
「朝にちょうどいいです。普通の弁当だと重いので」
作業服の男性はそう言って、レジへ向かった。
小さめ鮭弁、三つ目。
京子は急いでメモを取った。
小さめ鮭弁:朝食需要あり。作業服男性。普通弁当は重い。
売れたのは嬉しい。
けれど売場には、まだ多くの商品が残っている。
午後九時。
半額シールの時間になった。
雨は少し弱まっていたが、客足は戻らなかった。
京子は半額シールを貼った。
チキン南蛮弁当。
ハンバーグ弁当。
のり弁。
小さめ鮭弁。
焼きそば。
煮物。
ポテトサラダ。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。
いつもなら、半額の時間には人が集まる。
今日は、まばらだった。
それでも数人が買っていった。
チキン南蛮弁当が一つ。
焼きそばが二つ。
煮物が一つ。
ポテトサラダが一つ。
乃々花はイートインから出てきて、半額になった小さめ鮭弁を一つ手に取った。
「明日の朝用?」
京子が声をかけると、乃々花は少し照れたようにうなずいた。
「弟の分です。朝、時間ないので」
そう言ってから、慌てたように付け加えた。
「あ、でも、ちゃんと冷蔵庫に入れます」
「はい。早めに食べてくださいね」
「わかってます」
乃々花は小さく笑った。
小さめ鮭弁、四つ目。
残り一つ。
京子は、少しだけほっとした。
新商品は、全滅ではなかった。
けれど、ほかの商品はまだ残っている。
午後九時半。
閉店まで三十分。
チキン南蛮弁当二つ。
ハンバーグ弁当一つ。
のり弁一つ。
小さめ鮭弁一つ。
白身魚フライ二パック。
煮物一つ。
半額シールを貼っても、売場に残る商品たち。
京子はその光景を見て、胸が苦しくなった。
売れ残り。
ハツエが嫌う言葉。
京子も、簡単には使いたくなくなった言葉。
でも、現実として、そこに残っている。
誰かの晩ごはんになるはずだったもの。
誰かに届く途中だったもの。
届かなかったもの。
*




