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半額になるまえに  作者: えんびあゆ


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15/19

第15話 母が買ってきた半額弁当[前編]

水曜日の朝、京子はいつもより早く目が覚めた。


カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。

時計を見ると、午前六時十三分だった。


出勤は午後四時。

まだ起きるには早すぎる。


けれど、二度寝する気にはなれなかった。


昨日の夜、神崎から告げられた言葉が、まだ頭の中に残っていた。


三か月の改善トライアル。

廃棄率。

定価販売率。

客単価。

イートイン利用者の購買貢献。


どれも聞き慣れた言葉だ。

聞き慣れすぎて、胸の奥が少し硬くなる言葉でもある。


けれど、昨日の京子は逃げなかった。


全部はできません。

私一人の仕事にはしないでください。


そう言えた。


それは確かに前進だった。

でも、言えたからといって不安が消えるわけではない。


京子は布団の中で、天井を見上げた。


また数字を見ることになる。

また資料を作ることになる。

また本部に説明できる形にまとめることになる。


その想像だけで、指先が少し冷える。


でも今度は、前とは違うはずだ。


唐揚げを買う美羽の顔を知っている。

塩サバを買う石動の声を知っている。

イートインで勉強する乃々花の背中を知っている。

ローストビーフを「ごほうび」と呼ぶ真帆の笑顔を知っている。


数字にするのは、それらを消すためではない。

見えるようにするためだ。


京子は、そう自分に言い聞かせるようにゆっくり起き上がった。


洗面所で顔を洗い、髪を結ぶ。

冷蔵庫から麦茶を出し、昨日買っておいた食パンを焼いた。

目玉焼きを作ろうとして、卵を割る手が一瞬止まる。


昔、母がよく作ってくれた朝ごはんも、こんなものだった。


食パン。

目玉焼き。

少し焦げたウインナー。

牛乳。

たまに、前日の弁当の残りの唐揚げ。


贅沢ではなかった。

でも、京子はそれを当たり前の朝ごはんだと思っていた。


母がどれだけ早く起きていたのか。

どれだけ疲れていたのか。

朝ごはんを作る前に、洗濯機を回し、ゴミを出し、自分の支度までしていたこと。


そんなことを、子どものころの京子は何も知らなかった。


目玉焼きを皿に移し、食パンと一緒にテーブルへ置く。

一人分の朝食は、あまりにも簡単にできた。


京子は箸を持ったまま、ふと母の声を思い出した。


「ちゃんと食べていきなさい。お昼までもたないよ」


その声は、記憶の中ではいつも少し急いでいる。

優しいけれど、余裕がない。

京子を急かしながら、自分も急いでいる声だった。


当時の京子は、それが少し嫌だった。


朝くらい静かにしてほしい。

早くしなさいばかり言わないでほしい。

友達の家みたいに、もっとおしゃれな朝ごはんがよかった。


そんなことを思っていた。


今思えば、母は毎朝、時間とお金と体力をぎりぎりでやりくりしていたのだ。


京子は目玉焼きを一口食べた。


黄身が少し固まりすぎていた。

それでも、温かかった。



午前中、京子は部屋の片づけをした。


成田台に戻ってきてから、最低限の荷物は出したものの、段ボールはまだいくつか残っていた。

東京の部屋から持ってきたもの。

実家を引き払ったときに、処分できずに残していたもの。

母のもの。


その箱だけは、ずっと開けられなかった。


古い茶色の段ボール。

側面に、黒いマジックで「母・書類」と書いてある。


実家を片づけたとき、親戚に「必要なものだけ取っておきなさい」と言われて、よく見ないまま詰めたものだった。

保険の書類、年金手帳、通帳のコピー、病院の領収書。

そういうものが入っているはずだった。


京子は、その箱を畳の上に引き寄せた。


ガムテープは古く、端が少し浮いていた。

カッターを入れると、乾いた音がした。


ふたを開ける。


中には、クリアファイルが何冊か入っていた。

封筒。

古い家計簿。

年賀状の束。

小さな缶。


京子はまず、家計簿を手に取った。


表紙には、母の字で「二〇〇九年」と書かれている。

京子が中学生だったころだ。


開くと、細かな文字がびっしり並んでいた。


食費。

光熱費。

家賃。

交通費。

学校集金。

医療費。

京子の参考書代。

制服のクリーニング代。


数字は小さく、几帳面に書かれている。


京子はページをめくった。


四月。

五月。

六月。


食費の欄には、毎日のようにスーパーの名前が書かれていた。


マルヨシ。

駅前スーパー。

ドラッグストア。

コンビニ。


そして、ところどころに赤い字があった。


弁当半額。

唐揚げ半額。

惣菜三割引。

鮭弁一九八円。

京子、唐揚げ喜ぶ。


京子の手が止まった。


京子、唐揚げ喜ぶ。


それは、家計簿の支出欄の端に、小さく書かれていた。

金額でも費目でもない。

ただのメモ。


母の字だった。


京子は、その文字を指でなぞった。


胸の奥が、ゆっくりと締めつけられていく。


ページをさらにめくる。


七月の欄にも、似たようなメモがあった。


半額ハンバーグ弁当。

京子、全部食べた。

明日も頑張れそうと言う。


八月。


惣菜コロッケ。

京子、友達の家のごはんの話をする。

少し寂しそう。

今度オムライス作る。


九月。


運動会前。

唐揚げ多め。

京子、朝から機嫌よし。


京子は、家計簿を持つ手に力が入った。


覚えていない。


自分がそんなことを言ったことも、母がそれをメモしていたことも。

唐揚げを喜んだことは、ぼんやり覚えている。

でも母がそれを、こんなふうに残していたなんて知らなかった。


半額弁当が嫌だった。


京子は、ずっとそう思っていた。

母が買ってくる半額弁当を見るたび、胸がざらついた。

恥ずかしかった。

友達に見られたくなかった。

うちは普通じゃないのだと突きつけられる気がした。


でも母にとって、それは違ったのかもしれない。


半額だから買った。

安かったから選んだ。

それは事実だ。


けれど、それだけではなかった。


京子が喜ぶから。

全部食べたから。

明日も頑張れそうと言ったから。


母は、それを覚えていた。


京子は家計簿を閉じようとして、ふと小さな紙が挟まっているのに気づいた。


古いレシートだった。


印字は少し薄れている。

日付は、二〇一〇年十月十二日。


マルヨシ成田台店。

唐揚げ弁当四九八円。

値引-二四九円。

牛乳一五八円。

卵一九八円。

合計六〇五円。


レシートの裏に、母の字があった。


――今日は京子が泣いて帰ってきた。

――理由は言わなかった。

――唐揚げだけは食べた。

――半額でも、この子にはごちそうに見えますように。


京子は、息ができなくなった。


その日を、思い出した。


中学二年の秋だった。

クラスの女子とうまくいかなくなっていたころ。

直接いじめられたわけではない。

ただ、いつも一緒にいたグループの会話に、少しずつ入れなくなった。

昼休みに誘われなくなり、放課後に知らない約束ができていた。


その日、京子は家に帰って、制服のまま泣いた。


母は理由を聞いた。

京子は答えなかった。


言えば、もっと惨めになる気がした。

母に心配されるのも嫌だった。

だから「なんでもない」とだけ言って、部屋にこもった。


夜、母が出してくれたのが唐揚げ弁当だった。


半額シールが貼られていた。


京子は、それを見てまた少し嫌な気持ちになった。

泣いて帰ってきた日にまで、半額の弁当なのかと思った。


けれど、唐揚げは食べた。

泣き疲れて、空腹で、温め直した唐揚げの匂いに負けた。


母は何も聞かなかった。

ただ、「食べられるだけ食べな」と言った。


あのとき母が何を思っていたのか、京子は知らなかった。


半額でも、この子にはごちそうに見えますように。


レシートの裏の文字が、にじんで見えた。


母は、恥ずかしいものを出していたのではない。

ごちそうにしたかったのだ。


その日に買える範囲で。

その日にできる精一杯で。

京子の涙を、少しでも止めたかったのだ。


京子はレシートを胸に当てた。


「ごめん」


声がこぼれた。


誰もいない部屋で、京子は小さくつぶやいた。


「ごめんね、お母さん」


母はもういない。

謝っても届かない。


でも、言わずにはいられなかった。



午後四時、京子はいつも通りマルヨシ成田台店に入った。


目元は少し腫れていたかもしれない。

それでも、白衣を着て帽子をかぶり、マスクをすればだいたい隠れる。


バックヤードでは、ハツエが唐揚げの仕込みをしていた。


「おはよう」


「お疲れさまです」


京子が返すと、ハツエはすぐに目を細めた。


「泣いた?」


あまりにも早かった。


「……少し」


「少しの顔じゃないけど」


「大丈夫です」


「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないんだよねえ」


ハツエは手を止めずに言った。


「でも、仕事できないほど?」


「いえ。できます」


「じゃあ、手を動かしながらでいい。話したくなったら話しな」


その距離感が、京子にはありがたかった。


根掘り葉掘り聞かない。

でも、気づかないふりもしない。

ハツエの優しさは、いつも少し実用的だった。


京子は手を洗い、作業に入った。


今日は水曜日。

唐揚げ増量の日ではないが、ちょこっと唐揚げは定番商品として少量出すことになっていた。

ローストビーフ小皿は二つ。

弁当は通常量。


三か月の改善トライアルに向けて、今日から記録用の表も作った。


手書きの簡単なものだ。


商品名。

製造数。

定価販売数。

値引き販売数。

廃棄数。

気づいたこと。


店長は「最初からパソコンで作りましょうか」と言ったが、ハツエが「最初は紙でいい」と止めた。


「現場は紙が早い」


ハツエの一言で決まった。


京子も、それでよかったと思っている。

最初からきれいな表にしようとすると、目的より形式に気を取られる。

まずは見る。

書く。

続ける。


その方が今の京子には合っていた。


午後六時過ぎ、売場は穏やかに動いていた。


ちょこっと唐揚げは二つ売れた。

ローストビーフ小皿はまだ残っている。

塩サバ弁当は一つ売れた。

チキン南蛮弁当は動きが鈍い。


京子は記録表に数字を書きながら、ふとレシートの裏の母の文字を思い出した。


半額でも、この子にはごちそうに見えますように。


あの言葉を知ったあとでは、売場の見え方が少し変わっていた。


半額シールは、ただの値引きではない。

誰かが誰かのために、ごちそうに変えようとする入口にもなる。


午後七時前、真帆と美羽が来店した。


今日は火曜日ではない。

少し珍しい。


美羽は、いつものように惣菜売場へ駆け寄りかけて、真帆に「走らない」と止められていた。


「こんばんは」


真帆が少し疲れた顔で会釈する。


「こんばんは。今日は早いですね」


「はい。今日は母の病院の付き添いで、仕事を早退したので」


「そうだったんですね」


「帰ってから作る気力がなくて」


真帆は苦笑した。


美羽は売場を見上げている。


「ちょこっとある?」


「ありますよ」


京子が指さすと、美羽は嬉しそうに笑った。


真帆はちょこっと唐揚げを一つ手に取った。

それから弁当売場を見て、少し迷う。


チキン南蛮弁当。

のり弁。

鮭弁当。

塩サバ弁当。


真帆の手は、鮭弁当の前で止まった。


税抜き四百二十八円。

まだ値引き前。


真帆は値札を見て、少しだけ眉を下げた。


京子は何も言わなかった。


値引き前の商品を買うか、半額まで待つか。

それは客が決めることだ。


けれど、真帆が疲れているのは見て取れた。

美羽もお腹が空いているのか、何度もかごの中を覗いている。


真帆は少し迷ったあと、鮭弁当を一つかごに入れた。


美羽が言った。


「ママの?」


「うん。今日はママもお弁当にする」


「みうはからあげ?」


「美羽はごはんあるから、唐揚げね。あと、お豆腐のお味噌汁」


「やった」


その会話を聞いて、京子は胸の奥がじんわり熱くなった。


今日はママもお弁当にする。


それは、本当に小さな一言だった。

でも京子には、とても大きなことに思えた。


真帆が、自分の分も買っている。


誰かの母の分が、今日はちゃんとある。


「今日はご自身の分もあるんですね」


京子がそう言うと、真帆は少し照れたように笑った。


「はい。昨日、美羽に言われたんです」


「美羽ちゃんに?」


「ママはいつも、みうの残りばっかり食べてるって」


真帆は困ったように笑った。


「子どもって、見てないようで見てますね」


京子は何も言えなくなった。


見てないようで見ている。


京子は、見ていなかった。

母の皿も、母の疲れも、母が家計簿の端に残していた言葉も。


でも本当は、少しは見えていたのかもしれない。

ただ、見たくなかっただけなのかもしれない。


「いいと思います」


京子は静かに言った。


「お母さんの分も、ちゃんとあった方が」


真帆は、少し驚いたように京子を見た。


それから、ゆっくりうなずいた。


「そうですね」


美羽がかごを覗いて言った。


「ママもごはん!」


「うん。ママもごはん」


真帆はそう言って、美羽の頭を撫でた。


その姿に、京子はまた泣きそうになった。




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