第15話 母が買ってきた半額弁当[前編]
水曜日の朝、京子はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。
時計を見ると、午前六時十三分だった。
出勤は午後四時。
まだ起きるには早すぎる。
けれど、二度寝する気にはなれなかった。
昨日の夜、神崎から告げられた言葉が、まだ頭の中に残っていた。
三か月の改善トライアル。
廃棄率。
定価販売率。
客単価。
イートイン利用者の購買貢献。
どれも聞き慣れた言葉だ。
聞き慣れすぎて、胸の奥が少し硬くなる言葉でもある。
けれど、昨日の京子は逃げなかった。
全部はできません。
私一人の仕事にはしないでください。
そう言えた。
それは確かに前進だった。
でも、言えたからといって不安が消えるわけではない。
京子は布団の中で、天井を見上げた。
また数字を見ることになる。
また資料を作ることになる。
また本部に説明できる形にまとめることになる。
その想像だけで、指先が少し冷える。
でも今度は、前とは違うはずだ。
唐揚げを買う美羽の顔を知っている。
塩サバを買う石動の声を知っている。
イートインで勉強する乃々花の背中を知っている。
ローストビーフを「ごほうび」と呼ぶ真帆の笑顔を知っている。
数字にするのは、それらを消すためではない。
見えるようにするためだ。
京子は、そう自分に言い聞かせるようにゆっくり起き上がった。
洗面所で顔を洗い、髪を結ぶ。
冷蔵庫から麦茶を出し、昨日買っておいた食パンを焼いた。
目玉焼きを作ろうとして、卵を割る手が一瞬止まる。
昔、母がよく作ってくれた朝ごはんも、こんなものだった。
食パン。
目玉焼き。
少し焦げたウインナー。
牛乳。
たまに、前日の弁当の残りの唐揚げ。
贅沢ではなかった。
でも、京子はそれを当たり前の朝ごはんだと思っていた。
母がどれだけ早く起きていたのか。
どれだけ疲れていたのか。
朝ごはんを作る前に、洗濯機を回し、ゴミを出し、自分の支度までしていたこと。
そんなことを、子どものころの京子は何も知らなかった。
目玉焼きを皿に移し、食パンと一緒にテーブルへ置く。
一人分の朝食は、あまりにも簡単にできた。
京子は箸を持ったまま、ふと母の声を思い出した。
「ちゃんと食べていきなさい。お昼までもたないよ」
その声は、記憶の中ではいつも少し急いでいる。
優しいけれど、余裕がない。
京子を急かしながら、自分も急いでいる声だった。
当時の京子は、それが少し嫌だった。
朝くらい静かにしてほしい。
早くしなさいばかり言わないでほしい。
友達の家みたいに、もっとおしゃれな朝ごはんがよかった。
そんなことを思っていた。
今思えば、母は毎朝、時間とお金と体力をぎりぎりでやりくりしていたのだ。
京子は目玉焼きを一口食べた。
黄身が少し固まりすぎていた。
それでも、温かかった。
*
午前中、京子は部屋の片づけをした。
成田台に戻ってきてから、最低限の荷物は出したものの、段ボールはまだいくつか残っていた。
東京の部屋から持ってきたもの。
実家を引き払ったときに、処分できずに残していたもの。
母のもの。
その箱だけは、ずっと開けられなかった。
古い茶色の段ボール。
側面に、黒いマジックで「母・書類」と書いてある。
実家を片づけたとき、親戚に「必要なものだけ取っておきなさい」と言われて、よく見ないまま詰めたものだった。
保険の書類、年金手帳、通帳のコピー、病院の領収書。
そういうものが入っているはずだった。
京子は、その箱を畳の上に引き寄せた。
ガムテープは古く、端が少し浮いていた。
カッターを入れると、乾いた音がした。
ふたを開ける。
中には、クリアファイルが何冊か入っていた。
封筒。
古い家計簿。
年賀状の束。
小さな缶。
京子はまず、家計簿を手に取った。
表紙には、母の字で「二〇〇九年」と書かれている。
京子が中学生だったころだ。
開くと、細かな文字がびっしり並んでいた。
食費。
光熱費。
家賃。
交通費。
学校集金。
医療費。
京子の参考書代。
制服のクリーニング代。
数字は小さく、几帳面に書かれている。
京子はページをめくった。
四月。
五月。
六月。
食費の欄には、毎日のようにスーパーの名前が書かれていた。
マルヨシ。
駅前スーパー。
ドラッグストア。
コンビニ。
そして、ところどころに赤い字があった。
弁当半額。
唐揚げ半額。
惣菜三割引。
鮭弁一九八円。
京子、唐揚げ喜ぶ。
京子の手が止まった。
京子、唐揚げ喜ぶ。
それは、家計簿の支出欄の端に、小さく書かれていた。
金額でも費目でもない。
ただのメモ。
母の字だった。
京子は、その文字を指でなぞった。
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられていく。
ページをさらにめくる。
七月の欄にも、似たようなメモがあった。
半額ハンバーグ弁当。
京子、全部食べた。
明日も頑張れそうと言う。
八月。
惣菜コロッケ。
京子、友達の家のごはんの話をする。
少し寂しそう。
今度オムライス作る。
九月。
運動会前。
唐揚げ多め。
京子、朝から機嫌よし。
京子は、家計簿を持つ手に力が入った。
覚えていない。
自分がそんなことを言ったことも、母がそれをメモしていたことも。
唐揚げを喜んだことは、ぼんやり覚えている。
でも母がそれを、こんなふうに残していたなんて知らなかった。
半額弁当が嫌だった。
京子は、ずっとそう思っていた。
母が買ってくる半額弁当を見るたび、胸がざらついた。
恥ずかしかった。
友達に見られたくなかった。
うちは普通じゃないのだと突きつけられる気がした。
でも母にとって、それは違ったのかもしれない。
半額だから買った。
安かったから選んだ。
それは事実だ。
けれど、それだけではなかった。
京子が喜ぶから。
全部食べたから。
明日も頑張れそうと言ったから。
母は、それを覚えていた。
京子は家計簿を閉じようとして、ふと小さな紙が挟まっているのに気づいた。
古いレシートだった。
印字は少し薄れている。
日付は、二〇一〇年十月十二日。
マルヨシ成田台店。
唐揚げ弁当四九八円。
値引-二四九円。
牛乳一五八円。
卵一九八円。
合計六〇五円。
レシートの裏に、母の字があった。
――今日は京子が泣いて帰ってきた。
――理由は言わなかった。
――唐揚げだけは食べた。
――半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
京子は、息ができなくなった。
その日を、思い出した。
中学二年の秋だった。
クラスの女子とうまくいかなくなっていたころ。
直接いじめられたわけではない。
ただ、いつも一緒にいたグループの会話に、少しずつ入れなくなった。
昼休みに誘われなくなり、放課後に知らない約束ができていた。
その日、京子は家に帰って、制服のまま泣いた。
母は理由を聞いた。
京子は答えなかった。
言えば、もっと惨めになる気がした。
母に心配されるのも嫌だった。
だから「なんでもない」とだけ言って、部屋にこもった。
夜、母が出してくれたのが唐揚げ弁当だった。
半額シールが貼られていた。
京子は、それを見てまた少し嫌な気持ちになった。
泣いて帰ってきた日にまで、半額の弁当なのかと思った。
けれど、唐揚げは食べた。
泣き疲れて、空腹で、温め直した唐揚げの匂いに負けた。
母は何も聞かなかった。
ただ、「食べられるだけ食べな」と言った。
あのとき母が何を思っていたのか、京子は知らなかった。
半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
レシートの裏の文字が、にじんで見えた。
母は、恥ずかしいものを出していたのではない。
ごちそうにしたかったのだ。
その日に買える範囲で。
その日にできる精一杯で。
京子の涙を、少しでも止めたかったのだ。
京子はレシートを胸に当てた。
「ごめん」
声がこぼれた。
誰もいない部屋で、京子は小さくつぶやいた。
「ごめんね、お母さん」
母はもういない。
謝っても届かない。
でも、言わずにはいられなかった。
*
午後四時、京子はいつも通りマルヨシ成田台店に入った。
目元は少し腫れていたかもしれない。
それでも、白衣を着て帽子をかぶり、マスクをすればだいたい隠れる。
バックヤードでは、ハツエが唐揚げの仕込みをしていた。
「おはよう」
「お疲れさまです」
京子が返すと、ハツエはすぐに目を細めた。
「泣いた?」
あまりにも早かった。
「……少し」
「少しの顔じゃないけど」
「大丈夫です」
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないんだよねえ」
ハツエは手を止めずに言った。
「でも、仕事できないほど?」
「いえ。できます」
「じゃあ、手を動かしながらでいい。話したくなったら話しな」
その距離感が、京子にはありがたかった。
根掘り葉掘り聞かない。
でも、気づかないふりもしない。
ハツエの優しさは、いつも少し実用的だった。
京子は手を洗い、作業に入った。
今日は水曜日。
唐揚げ増量の日ではないが、ちょこっと唐揚げは定番商品として少量出すことになっていた。
ローストビーフ小皿は二つ。
弁当は通常量。
三か月の改善トライアルに向けて、今日から記録用の表も作った。
手書きの簡単なものだ。
商品名。
製造数。
定価販売数。
値引き販売数。
廃棄数。
気づいたこと。
店長は「最初からパソコンで作りましょうか」と言ったが、ハツエが「最初は紙でいい」と止めた。
「現場は紙が早い」
ハツエの一言で決まった。
京子も、それでよかったと思っている。
最初からきれいな表にしようとすると、目的より形式に気を取られる。
まずは見る。
書く。
続ける。
その方が今の京子には合っていた。
午後六時過ぎ、売場は穏やかに動いていた。
ちょこっと唐揚げは二つ売れた。
ローストビーフ小皿はまだ残っている。
塩サバ弁当は一つ売れた。
チキン南蛮弁当は動きが鈍い。
京子は記録表に数字を書きながら、ふとレシートの裏の母の文字を思い出した。
半額でも、この子にはごちそうに見えますように。
あの言葉を知ったあとでは、売場の見え方が少し変わっていた。
半額シールは、ただの値引きではない。
誰かが誰かのために、ごちそうに変えようとする入口にもなる。
午後七時前、真帆と美羽が来店した。
今日は火曜日ではない。
少し珍しい。
美羽は、いつものように惣菜売場へ駆け寄りかけて、真帆に「走らない」と止められていた。
「こんばんは」
真帆が少し疲れた顔で会釈する。
「こんばんは。今日は早いですね」
「はい。今日は母の病院の付き添いで、仕事を早退したので」
「そうだったんですね」
「帰ってから作る気力がなくて」
真帆は苦笑した。
美羽は売場を見上げている。
「ちょこっとある?」
「ありますよ」
京子が指さすと、美羽は嬉しそうに笑った。
真帆はちょこっと唐揚げを一つ手に取った。
それから弁当売場を見て、少し迷う。
チキン南蛮弁当。
のり弁。
鮭弁当。
塩サバ弁当。
真帆の手は、鮭弁当の前で止まった。
税抜き四百二十八円。
まだ値引き前。
真帆は値札を見て、少しだけ眉を下げた。
京子は何も言わなかった。
値引き前の商品を買うか、半額まで待つか。
それは客が決めることだ。
けれど、真帆が疲れているのは見て取れた。
美羽もお腹が空いているのか、何度もかごの中を覗いている。
真帆は少し迷ったあと、鮭弁当を一つかごに入れた。
美羽が言った。
「ママの?」
「うん。今日はママもお弁当にする」
「みうはからあげ?」
「美羽はごはんあるから、唐揚げね。あと、お豆腐のお味噌汁」
「やった」
その会話を聞いて、京子は胸の奥がじんわり熱くなった。
今日はママもお弁当にする。
それは、本当に小さな一言だった。
でも京子には、とても大きなことに思えた。
真帆が、自分の分も買っている。
誰かの母の分が、今日はちゃんとある。
「今日はご自身の分もあるんですね」
京子がそう言うと、真帆は少し照れたように笑った。
「はい。昨日、美羽に言われたんです」
「美羽ちゃんに?」
「ママはいつも、みうの残りばっかり食べてるって」
真帆は困ったように笑った。
「子どもって、見てないようで見てますね」
京子は何も言えなくなった。
見てないようで見ている。
京子は、見ていなかった。
母の皿も、母の疲れも、母が家計簿の端に残していた言葉も。
でも本当は、少しは見えていたのかもしれない。
ただ、見たくなかっただけなのかもしれない。
「いいと思います」
京子は静かに言った。
「お母さんの分も、ちゃんとあった方が」
真帆は、少し驚いたように京子を見た。
それから、ゆっくりうなずいた。
「そうですね」
美羽がかごを覗いて言った。
「ママもごはん!」
「うん。ママもごはん」
真帆はそう言って、美羽の頭を撫でた。
その姿に、京子はまた泣きそうになった。
*




