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半額になるまえに  作者: えんびあゆ


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10/21

第10話 イートインの女子高生[後編]

午後九時を過ぎると、イートインスペースには乃々花だけが残っていた。


ちょこっと唐揚げのパックは開いている。

カフェオレも少し減っている。

問題集は、さっきより数ページ進んでいた。


閉店は午後十時。


店内放送が流れるまで、まだ少し時間がある。

京子は売場の整理をしながら、どうしても乃々花のことが気になってしまった。

見えた気になりすぎてはいけない。


わかっている。

でも、夜のイートインで一人勉強する女子高生を見て、何も感じないほど京子は鈍くなかった。


自分にも、帰りたくない夜があった。


高校生のころではない。

社会人になってからだ。


会社を出たあと、まっすぐ部屋に帰りたくない日があった。

帰っても誰もいない。

部屋の明かりをつけた瞬間、今日一日の疲れが全部押し寄せてくる。

だから京子は、駅前のカフェや本屋で、意味もなく時間をつぶした。


家が嫌いだったわけではない。

ただ、帰った瞬間に、自分が一人だと確定してしまうのが怖かった。


乃々花の事情はわからない。

でも、帰る前にどこかで時間を置きたい気持ちなら、少しだけわかる気がした。


「篠宮さん」


ハツエが声をかけてきた。


「気になる?」


「……はい」


「じゃあ、お茶でも替えてきたら」


「え?」


「給茶機、たまに詰まるから見てきて。ついでにゴミ箱も確認」


ハツエはわざとらしく言った。

京子はその意図を察した。


「いいんですか」


「声かけすぎない。困ってそうなら聞く。それだけ」


「はい」


京子は給茶機の点検用の小さな布巾を持ち、イートインスペースへ向かった。

乃々花は問題集に向かっていたが、京子が近づくと顔を上げた。


「すみません、給茶機の確認をしますね」


「あ、はい」


京子は給茶機の周りを拭き、ゴミ箱の状態を確認した。

実際、少し紙くずが落ちていたので拾う。


それから、自然な声を心がけて言った。


「勉強、遅くまで大変ですね」


乃々花は少し身構えたように肩を上げた。


「いえ……ここ、使っても大丈夫ですか」


「もちろんです。閉店時間までなら」


「よかった」


乃々花は小さく息を吐いた。


「家だと、集中できなくて」


それ以上言うつもりはなかったのかもしれない。

でも、一度口から出た言葉は、少しだけ次の言葉を連れてきた。


「弟がいるんです。まだ小さくて。あと、母が夜勤の日が多くて」


「そうなんですね」


「家にいると、弟の面倒を見なきゃいけなくて。別に嫌じゃないんですけど、テスト前で」


乃々花はシャープペンを指で回した。


「図書館は閉まるの早いし、塾は行ってないし。ここ、明るいし、人がいるけど話しかけられないし、ちょうどよくて」


ちょうどいい。


京子はその言葉に、少しだけ胸が痛くなった。


家でもない。

学校でもない。

図書館でも塾でもない。


スーパーのイートインが、ちょうどいい場所になっている。


「ご迷惑なら、やめます」


乃々花が急に言った。

京子は首を横に振った。


「迷惑ではありません。ゴミを片づけて、閉店時間を守ってくだされば大丈夫です」


「ちゃんとします」


「いつもきれいに使ってくださっていますよね」


京子がそう言うと、乃々花は少し目を丸くした。


「見てたんですか」


「すみません。監視していたわけではなくて」


「あ、いえ」


乃々花は少しだけ笑った。


「誰にも見られてないと思ってました」


「見られているというより、気づいている、くらいです」


「それ、ちょっと怖いです」


「すみません」


「でも、ちょっと安心します」


乃々花は、自分で言ってから少し恥ずかしそうにした。

京子は、どう返せばいいか迷った。


安心する。

その言葉を、軽く受け流してはいけない気がした。


「ここは、お店なので」


京子はゆっくり言った。


「すごく特別なことはできません。でも、閉店時間までは、普通にいて大丈夫です」


乃々花はしばらく黙っていた。


それから、小さくうなずいた。


「ありがとうございます」


その声は、唐揚げを買ったときよりもずっと静かだった。

京子は給茶機の確認を終え、戻ろうとした。

そのとき、乃々花がぽつりと言った。


「あの、ごほうびローストビーフって、明日ほんとにありますか」


「はい。数は少ないと思いますが」


「明日、数学の小テストがあって」


乃々花はノートに目を落とした。


「八十点以上取れたら、買ってもいいですかね」


その聞き方があまりに真面目で、京子は少しだけ笑いそうになった。


でも笑わなかった。


「いいと思います」


「でも、三百九十八円って高校生にはちょっと高いですよね」


「高いと思うなら、誰かと分けてもいいですし、別の日でもいいと思います」


「そうですよね」


「でも、自分で決めたことを頑張ったなら、少しごほうびがあってもいいと思います」


乃々花は、ゆっくり顔を上げた。


「お姉さんも、そうしますか」


お姉さん。

その呼ばれ方に、京子は少しだけ戸惑った。


「私は……あまり上手ではないです」


「ごほうびが?」


「はい。自分に厳しくしすぎる癖があります」


「私もです」


乃々花は小さく言った。


「できてないところばっかり気になります」


京子は、その言葉に自分の昔を重ねた。


できたことより、できなかったことを見る。

褒められたことより、注意されたことを覚えている。

九十点でも、残り十点を責める。


そうやって自分を動かしてきたつもりで、いつの間にか自分を追い詰めていた。


「できたところも、見ていいと思います」


京子は言った。


「たぶん、その方が長く頑張れます」


乃々花は少し考えてから、うなずいた。


「じゃあ、八十点取れたら買います」


「はい」


「七十九点だったら?」


「それは……」


京子が真剣に考えてしまうと、乃々花が少し笑った。


「冗談です」


「あ、冗談でしたか」


「でも、七十九点でも、たぶん買いたくなります」


「そのときは、七十九点分のごほうびでもいいんじゃないでしょうか」


「七十九点分のごほうびって何ですか」


「ローストビーフではなく、ちょこっと唐揚げとか」


乃々花は今度こそ、声を出さずに笑った。


「それ、いいですね」


その笑顔を見て、京子は少しほっとした。


踏み込みすぎていないかは、まだわからない。

でも少なくとも今、乃々花は少し笑った。


それで十分だと思うことにした。



閉店十分前の店内放送が流れると、乃々花はすぐに問題集を閉じた。


消しゴムのかすを手で集め、紙ナプキンに包んで捨てる。

飲み終えたカフェオレの紙パックも、きちんと分別してゴミ箱に入れた。


その動きは慣れていた。


京子は少し離れたところから見ていた。


乃々花はリュックを背負い、イートインのテーブルを軽く拭いてから出口へ向かう。

自動ドアの前で一度だけ振り返り、京子に小さく会釈した。


京子も会釈を返す。


それだけだった。


それだけでよかった。


乃々花が出ていったあと、イートインスペースは急に広く見えた。


誰もいないテーブル。

給茶機の小さな音。

窓に映る蛍光灯。

外の暗い駐車場。


ここは、ただの休憩スペースだ。

でも乃々花にとっては、家に帰る前の少しの避難場所なのかもしれない。

あるいは、自分のために勉強できる数少ない場所なのかもしれない。


店を閉めるということは、売上がなくなるだけではない。


このテーブルもなくなる。

乃々花が問題集を広げる場所もなくなる。


――真帆がちょこっと唐揚げを買う場所も、

――石動が塩サバ弁当を買う場所も、

――作業服の男性が「助かります」と言う場所もなくなる。


それは、数字にするとどう表せるのだろう。


イートイン利用者数。

客単価。

滞在時間。

購買点数。


そんな指標では、きっと足りない。


京子は、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。



閉店作業のあと、京子はハツエに乃々花との会話を少しだけ話した。


もちろん、詳しい家庭の事情までは言わなかった。

ただ、家では勉強しにくいらしいこと、テスト前であること、明日ローストビーフを買うかもしれないことだけを伝えた。


ハツエは黙って聞いていた。


「そっか」


それだけ言って、しばらく洗い物を続けた。

やがて、ぽつりと言った。


「イートイン、なくしたいって話も出てるんだよね」


京子は手を止めた。


「なくす?」


「設備の維持もあるし、長居されると困るって意見もある。コロナの時期に一回閉めて、そのまま縮小した店も多いでしょ」


「でも、今は使っている方もいます」


「うん。でも本部から見れば、売場面積にした方がいいって話になる」


京子は何も言えなかった。


その考え方は、理解できる。

売場面積は売上を生む。

イートインは直接の利益を生みにくい。

人件費も清掃の手間もかかる。


前の京子なら、そういう資料を作る側だった。


「篠宮さん」


ハツエが言った。


「イートインを残したいなら、残す理由がいる」


「理由」


「そう。『乃々花ちゃんが困るから』だけじゃ、会社は動かない」


「はい」


「でも、『地域の学生や高齢者が利用していて、ついで買いにつながっている』なら、少しは話が変わる」


京子は顔を上げた。

ハツエは、いつものように現実的だった。


「情だけじゃ残らない。数字にしないと本部は受け止めない。でも、情を数字にする工夫はできる」


京子は、その言葉を胸の中で受け止めた。


情を数字にする。


冷たい言い方にも聞こえる。

でも、そうしなければ守れないものがある。


乃々花の居場所を、ただの感傷にしないために。

イートインを、売場面積の無駄と片づけられないように。


「利用状況を記録してみます」


京子は言った。


「時間帯、人数、購入商品、滞在時間。もちろん個人が特定されない形で」


「いいね」


「それと、イートイン利用者向けの小さなセット商品が作れるかもしれません。学生向けに、おにぎりとちょこっと唐揚げと飲み物、とか。高齢者向けに、小さいお茶と和菓子、とか」


「また仕事の顔になってきた」


「すみません」


「謝らない」


ハツエは笑った。


「でも、いい顔だよ」


京子は少しだけ照れた。


自分の中に、また何かを考える力が戻ってきている。

それは嬉しい反面、少し怖くもあった。


頑張りすぎれば、また壊れるかもしれない。

考えすぎれば、また眠れなくなるかもしれない。


でも、今は前と違う。


一人で抱え込まなくてもいい。

ハツエがいる。

店長がいる。

売場がある。

そして、考えたことの結果を、すぐ目の前で確かめられる。


失敗したら、売れ残る。

売れ残ったら、形を変える。

それでいいのかもしれない。



アパートに戻った京子は、ノートを開いた。


日曜。

週末ごほうびローストビーフ小皿、値引き前完売。

真帆さん、美羽ちゃん購入。

「ちょっとだけごほうび」


乃々花ちゃん、イートイン利用。

勉強場所。閉店まで滞在。

購入:カフェオレ、ちょこっと唐揚げ、おにぎり。

明日、小テスト。八十点以上でローストビーフ予定。


そこまで書いて、京子はペンを止めた。


乃々花のことを、どこまで書いていいのか迷った。


家庭の事情。

弟の面倒。

母の夜勤。

帰りにくい家。


それらは、京子が勝手に抱えていいものではない。

だから書かなかった。


代わりに、こう書いた。


イートインは、買ったものを食べる場所だけではない。

帰る前に、息を整える場所でもある。


書いてから、京子は自分の部屋を見回した。


六畳の洋室。

小さなキッチン。

折りたたみのテーブル。

薄いカーテン。

まだ少ない荷物。


ここは京子の家だ。

でも、帰ってきてほっとできる場所になるには、もう少し時間がかかる気がした。


乃々花にとってのイートインのように、京子にとってのマルヨシもまた、立ち直る前の仮の居場所なのかもしれない。


正社員でもない。

ずっと働くと決めたわけでもない。

閉店するかもしれない。

それでも今、京子は毎日そこへ行く理由がある。


誰かのためと言いながら、本当は自分も救われている。


京子はノートの端に、明日の案を書き出した。


イートイン利用記録。

学生向け軽食セット。

閉店前勉強応援セット?

名前は要検討。

押しつけがましくならないこと。

「頑張れ」より「ひと息」。


京子は、最後の言葉に丸をつけた。


ひと息。


それがいい。


誰かを励ますのではなく、追い立てるのでもなく、ただ少し息をつけるもの。


ごほうびローストビーフも、ちょこっと唐揚げも、塩サバ弁当も、きっとそうだ。


人は毎日、立派な食事ばかりしているわけではない。

完璧な生活をしているわけでもない。

頑張れない日も、帰りたくない日も、自分に自信が持てない日もある。


そんな日に、スーパーの棚に並ぶ小さなものが、少しだけ助けになることがある。


京子はスマホを手に取った。


前職の同僚から、今日もメッセージが来ていた。


『今日の惣菜は?』


京子は少し考えて、返した。


『今日はローストビーフと、イートインで勉強する高校生でした』


すぐに返信が来る。


『惣菜じゃないもの混ざってますね』


京子は少し笑って、こう打った。


『でも、店にとっては大事なものかもしれません』


送信したあと、京子はスマホを伏せた。


明日、乃々花は来るだろうか。

小テストはうまくいくだろうか。

ローストビーフは残っているだろうか。


わからない。


でも、もし来たら。


京子は普通に「いらっしゃいませ」と言おうと思った。

特別扱いではなく、かわいそうでもなく、ただ、来ていい場所として。


店員ができることは、たぶんそれくらいだ。


それくらいで、救われる夜もある。


京子はノートを閉じ、明かりを消した。


布団に入ると、今日も髪に惣菜の匂いが残っていた。

唐揚げと、ローストビーフのソースと、閉店前のイートインの静かな匂い。


目を閉じると、窓際の席で問題集を開く乃々花の姿が浮かんだ。


あのテーブルが、明日もそこにありますように。


京子は、そんなことを思った。


店を守りたい、という言葉はまだ大きすぎる。

でも、あの席を残したいとは思った。


――それなら明日も、手を動かせる気がした。



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