第10話 イートインの女子高生[後編]
午後九時を過ぎると、イートインスペースには乃々花だけが残っていた。
ちょこっと唐揚げのパックは開いている。
カフェオレも少し減っている。
問題集は、さっきより数ページ進んでいた。
閉店は午後十時。
店内放送が流れるまで、まだ少し時間がある。
京子は売場の整理をしながら、どうしても乃々花のことが気になってしまった。
見えた気になりすぎてはいけない。
わかっている。
でも、夜のイートインで一人勉強する女子高生を見て、何も感じないほど京子は鈍くなかった。
自分にも、帰りたくない夜があった。
高校生のころではない。
社会人になってからだ。
会社を出たあと、まっすぐ部屋に帰りたくない日があった。
帰っても誰もいない。
部屋の明かりをつけた瞬間、今日一日の疲れが全部押し寄せてくる。
だから京子は、駅前のカフェや本屋で、意味もなく時間をつぶした。
家が嫌いだったわけではない。
ただ、帰った瞬間に、自分が一人だと確定してしまうのが怖かった。
乃々花の事情はわからない。
でも、帰る前にどこかで時間を置きたい気持ちなら、少しだけわかる気がした。
「篠宮さん」
ハツエが声をかけてきた。
「気になる?」
「……はい」
「じゃあ、お茶でも替えてきたら」
「え?」
「給茶機、たまに詰まるから見てきて。ついでにゴミ箱も確認」
ハツエはわざとらしく言った。
京子はその意図を察した。
「いいんですか」
「声かけすぎない。困ってそうなら聞く。それだけ」
「はい」
京子は給茶機の点検用の小さな布巾を持ち、イートインスペースへ向かった。
乃々花は問題集に向かっていたが、京子が近づくと顔を上げた。
「すみません、給茶機の確認をしますね」
「あ、はい」
京子は給茶機の周りを拭き、ゴミ箱の状態を確認した。
実際、少し紙くずが落ちていたので拾う。
それから、自然な声を心がけて言った。
「勉強、遅くまで大変ですね」
乃々花は少し身構えたように肩を上げた。
「いえ……ここ、使っても大丈夫ですか」
「もちろんです。閉店時間までなら」
「よかった」
乃々花は小さく息を吐いた。
「家だと、集中できなくて」
それ以上言うつもりはなかったのかもしれない。
でも、一度口から出た言葉は、少しだけ次の言葉を連れてきた。
「弟がいるんです。まだ小さくて。あと、母が夜勤の日が多くて」
「そうなんですね」
「家にいると、弟の面倒を見なきゃいけなくて。別に嫌じゃないんですけど、テスト前で」
乃々花はシャープペンを指で回した。
「図書館は閉まるの早いし、塾は行ってないし。ここ、明るいし、人がいるけど話しかけられないし、ちょうどよくて」
ちょうどいい。
京子はその言葉に、少しだけ胸が痛くなった。
家でもない。
学校でもない。
図書館でも塾でもない。
スーパーのイートインが、ちょうどいい場所になっている。
「ご迷惑なら、やめます」
乃々花が急に言った。
京子は首を横に振った。
「迷惑ではありません。ゴミを片づけて、閉店時間を守ってくだされば大丈夫です」
「ちゃんとします」
「いつもきれいに使ってくださっていますよね」
京子がそう言うと、乃々花は少し目を丸くした。
「見てたんですか」
「すみません。監視していたわけではなくて」
「あ、いえ」
乃々花は少しだけ笑った。
「誰にも見られてないと思ってました」
「見られているというより、気づいている、くらいです」
「それ、ちょっと怖いです」
「すみません」
「でも、ちょっと安心します」
乃々花は、自分で言ってから少し恥ずかしそうにした。
京子は、どう返せばいいか迷った。
安心する。
その言葉を、軽く受け流してはいけない気がした。
「ここは、お店なので」
京子はゆっくり言った。
「すごく特別なことはできません。でも、閉店時間までは、普通にいて大丈夫です」
乃々花はしばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
その声は、唐揚げを買ったときよりもずっと静かだった。
京子は給茶機の確認を終え、戻ろうとした。
そのとき、乃々花がぽつりと言った。
「あの、ごほうびローストビーフって、明日ほんとにありますか」
「はい。数は少ないと思いますが」
「明日、数学の小テストがあって」
乃々花はノートに目を落とした。
「八十点以上取れたら、買ってもいいですかね」
その聞き方があまりに真面目で、京子は少しだけ笑いそうになった。
でも笑わなかった。
「いいと思います」
「でも、三百九十八円って高校生にはちょっと高いですよね」
「高いと思うなら、誰かと分けてもいいですし、別の日でもいいと思います」
「そうですよね」
「でも、自分で決めたことを頑張ったなら、少しごほうびがあってもいいと思います」
乃々花は、ゆっくり顔を上げた。
「お姉さんも、そうしますか」
お姉さん。
その呼ばれ方に、京子は少しだけ戸惑った。
「私は……あまり上手ではないです」
「ごほうびが?」
「はい。自分に厳しくしすぎる癖があります」
「私もです」
乃々花は小さく言った。
「できてないところばっかり気になります」
京子は、その言葉に自分の昔を重ねた。
できたことより、できなかったことを見る。
褒められたことより、注意されたことを覚えている。
九十点でも、残り十点を責める。
そうやって自分を動かしてきたつもりで、いつの間にか自分を追い詰めていた。
「できたところも、見ていいと思います」
京子は言った。
「たぶん、その方が長く頑張れます」
乃々花は少し考えてから、うなずいた。
「じゃあ、八十点取れたら買います」
「はい」
「七十九点だったら?」
「それは……」
京子が真剣に考えてしまうと、乃々花が少し笑った。
「冗談です」
「あ、冗談でしたか」
「でも、七十九点でも、たぶん買いたくなります」
「そのときは、七十九点分のごほうびでもいいんじゃないでしょうか」
「七十九点分のごほうびって何ですか」
「ローストビーフではなく、ちょこっと唐揚げとか」
乃々花は今度こそ、声を出さずに笑った。
「それ、いいですね」
その笑顔を見て、京子は少しほっとした。
踏み込みすぎていないかは、まだわからない。
でも少なくとも今、乃々花は少し笑った。
それで十分だと思うことにした。
*
閉店十分前の店内放送が流れると、乃々花はすぐに問題集を閉じた。
消しゴムのかすを手で集め、紙ナプキンに包んで捨てる。
飲み終えたカフェオレの紙パックも、きちんと分別してゴミ箱に入れた。
その動きは慣れていた。
京子は少し離れたところから見ていた。
乃々花はリュックを背負い、イートインのテーブルを軽く拭いてから出口へ向かう。
自動ドアの前で一度だけ振り返り、京子に小さく会釈した。
京子も会釈を返す。
それだけだった。
それだけでよかった。
乃々花が出ていったあと、イートインスペースは急に広く見えた。
誰もいないテーブル。
給茶機の小さな音。
窓に映る蛍光灯。
外の暗い駐車場。
ここは、ただの休憩スペースだ。
でも乃々花にとっては、家に帰る前の少しの避難場所なのかもしれない。
あるいは、自分のために勉強できる数少ない場所なのかもしれない。
店を閉めるということは、売上がなくなるだけではない。
このテーブルもなくなる。
乃々花が問題集を広げる場所もなくなる。
――真帆がちょこっと唐揚げを買う場所も、
――石動が塩サバ弁当を買う場所も、
――作業服の男性が「助かります」と言う場所もなくなる。
それは、数字にするとどう表せるのだろう。
イートイン利用者数。
客単価。
滞在時間。
購買点数。
そんな指標では、きっと足りない。
京子は、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。
*
閉店作業のあと、京子はハツエに乃々花との会話を少しだけ話した。
もちろん、詳しい家庭の事情までは言わなかった。
ただ、家では勉強しにくいらしいこと、テスト前であること、明日ローストビーフを買うかもしれないことだけを伝えた。
ハツエは黙って聞いていた。
「そっか」
それだけ言って、しばらく洗い物を続けた。
やがて、ぽつりと言った。
「イートイン、なくしたいって話も出てるんだよね」
京子は手を止めた。
「なくす?」
「設備の維持もあるし、長居されると困るって意見もある。コロナの時期に一回閉めて、そのまま縮小した店も多いでしょ」
「でも、今は使っている方もいます」
「うん。でも本部から見れば、売場面積にした方がいいって話になる」
京子は何も言えなかった。
その考え方は、理解できる。
売場面積は売上を生む。
イートインは直接の利益を生みにくい。
人件費も清掃の手間もかかる。
前の京子なら、そういう資料を作る側だった。
「篠宮さん」
ハツエが言った。
「イートインを残したいなら、残す理由がいる」
「理由」
「そう。『乃々花ちゃんが困るから』だけじゃ、会社は動かない」
「はい」
「でも、『地域の学生や高齢者が利用していて、ついで買いにつながっている』なら、少しは話が変わる」
京子は顔を上げた。
ハツエは、いつものように現実的だった。
「情だけじゃ残らない。数字にしないと本部は受け止めない。でも、情を数字にする工夫はできる」
京子は、その言葉を胸の中で受け止めた。
情を数字にする。
冷たい言い方にも聞こえる。
でも、そうしなければ守れないものがある。
乃々花の居場所を、ただの感傷にしないために。
イートインを、売場面積の無駄と片づけられないように。
「利用状況を記録してみます」
京子は言った。
「時間帯、人数、購入商品、滞在時間。もちろん個人が特定されない形で」
「いいね」
「それと、イートイン利用者向けの小さなセット商品が作れるかもしれません。学生向けに、おにぎりとちょこっと唐揚げと飲み物、とか。高齢者向けに、小さいお茶と和菓子、とか」
「また仕事の顔になってきた」
「すみません」
「謝らない」
ハツエは笑った。
「でも、いい顔だよ」
京子は少しだけ照れた。
自分の中に、また何かを考える力が戻ってきている。
それは嬉しい反面、少し怖くもあった。
頑張りすぎれば、また壊れるかもしれない。
考えすぎれば、また眠れなくなるかもしれない。
でも、今は前と違う。
一人で抱え込まなくてもいい。
ハツエがいる。
店長がいる。
売場がある。
そして、考えたことの結果を、すぐ目の前で確かめられる。
失敗したら、売れ残る。
売れ残ったら、形を変える。
それでいいのかもしれない。
*
アパートに戻った京子は、ノートを開いた。
日曜。
週末ごほうびローストビーフ小皿、値引き前完売。
真帆さん、美羽ちゃん購入。
「ちょっとだけごほうび」
乃々花ちゃん、イートイン利用。
勉強場所。閉店まで滞在。
購入:カフェオレ、ちょこっと唐揚げ、おにぎり。
明日、小テスト。八十点以上でローストビーフ予定。
そこまで書いて、京子はペンを止めた。
乃々花のことを、どこまで書いていいのか迷った。
家庭の事情。
弟の面倒。
母の夜勤。
帰りにくい家。
それらは、京子が勝手に抱えていいものではない。
だから書かなかった。
代わりに、こう書いた。
イートインは、買ったものを食べる場所だけではない。
帰る前に、息を整える場所でもある。
書いてから、京子は自分の部屋を見回した。
六畳の洋室。
小さなキッチン。
折りたたみのテーブル。
薄いカーテン。
まだ少ない荷物。
ここは京子の家だ。
でも、帰ってきてほっとできる場所になるには、もう少し時間がかかる気がした。
乃々花にとってのイートインのように、京子にとってのマルヨシもまた、立ち直る前の仮の居場所なのかもしれない。
正社員でもない。
ずっと働くと決めたわけでもない。
閉店するかもしれない。
それでも今、京子は毎日そこへ行く理由がある。
誰かのためと言いながら、本当は自分も救われている。
京子はノートの端に、明日の案を書き出した。
イートイン利用記録。
学生向け軽食セット。
閉店前勉強応援セット?
名前は要検討。
押しつけがましくならないこと。
「頑張れ」より「ひと息」。
京子は、最後の言葉に丸をつけた。
ひと息。
それがいい。
誰かを励ますのではなく、追い立てるのでもなく、ただ少し息をつけるもの。
ごほうびローストビーフも、ちょこっと唐揚げも、塩サバ弁当も、きっとそうだ。
人は毎日、立派な食事ばかりしているわけではない。
完璧な生活をしているわけでもない。
頑張れない日も、帰りたくない日も、自分に自信が持てない日もある。
そんな日に、スーパーの棚に並ぶ小さなものが、少しだけ助けになることがある。
京子はスマホを手に取った。
前職の同僚から、今日もメッセージが来ていた。
『今日の惣菜は?』
京子は少し考えて、返した。
『今日はローストビーフと、イートインで勉強する高校生でした』
すぐに返信が来る。
『惣菜じゃないもの混ざってますね』
京子は少し笑って、こう打った。
『でも、店にとっては大事なものかもしれません』
送信したあと、京子はスマホを伏せた。
明日、乃々花は来るだろうか。
小テストはうまくいくだろうか。
ローストビーフは残っているだろうか。
わからない。
でも、もし来たら。
京子は普通に「いらっしゃいませ」と言おうと思った。
特別扱いではなく、かわいそうでもなく、ただ、来ていい場所として。
店員ができることは、たぶんそれくらいだ。
それくらいで、救われる夜もある。
京子はノートを閉じ、明かりを消した。
布団に入ると、今日も髪に惣菜の匂いが残っていた。
唐揚げと、ローストビーフのソースと、閉店前のイートインの静かな匂い。
目を閉じると、窓際の席で問題集を開く乃々花の姿が浮かんだ。
あのテーブルが、明日もそこにありますように。
京子は、そんなことを思った。
店を守りたい、という言葉はまだ大きすぎる。
でも、あの席を残したいとは思った。
――それなら明日も、手を動かせる気がした。




